第百五十二話 カップル一組め 2
「ご苦労。さがってよろしい」
フリップを受けとると、大羽さんは不遜にもそう言い放った。ニヤニヤ笑いはそのままに、目には挑発的な光をやどしている。明確に、こちらを見下す態度だった。
内心で、僕は歯噛みしていた。
ようするに、ハメられたのである。彼女は雑用にかこつけて、僕をあごでこき使いたかったのだ。そうして、主人が執事に命令をくだすというコンセプトのお遊びを隠れ蓑に、自分のほうが上位の存在だとでもアピールしたかったのだろう。
だれだったか、むかしの武将に、居並ぶ群臣の目のまえで幼い主君を抱きあげ、そのまま全員に平伏するよう強要したやつがいたのを思い出した。
臣下たちは、あくまでも主君に平伏しているはずなのに、はたから見ると、あたかも抱き上げている武将のほうに屈服しているかのような感じになってしまう。そうすることで、自分が周囲にくらべてうえの立場にいると誇示することができるわけだ。
もっとも、一国の実力者がそれをやるのであれば、象徴的な意味で、たしかにいいアピールになるのだろうが、一学園の生徒会書記ごときが似たようなことをしても、くだらない嫌がらせにしかならない。しかも、手伝いにきたこちらの善意につけこんでいるぶん、悪質ですらある。
いまこの場で、大羽さんに恥をかかせることは、じつは造作もないことである。相手にしなければいいのだ。無視して、鏡寺さんのいうことだけ聞いていれば、観客にも彼女の空回りは伝わるだろう。
しかし、それをやったら、まちがいなくこちらにもダメージが来るし、なによりコンテストの雰囲気が悪くなってしまう。大羽さんひとりだけでなく、ほかの生徒会メンバーや、楽しみにしていたカップルたちにまで、迷惑をかけることになってしまうのだ。
いわば、彼女は関係者を人質に、全高等部学生たちのまえで、僕にむりやり主人と召使いごっこをやらせているようなものなのである。
やられた行為よりも、僕は、相手のこの品性下劣きわまりない心根のほうが腹立たしかった。
「こーへいしゃん?」
不安げな表情で、こころが声をかけてきた。
……おや?
考えに夢中で気づかなかったが、すでに定位置であるところのカーテンのかげにもどってきていたようだな。
突っ立っていてもしかたないので、とりあえず座って楽な姿勢をとることにした。
「さっきはどうしたの? すごく怖い顔をしてたよ」
「え? いや、大羽さんが……その、ごめん」
うっかりしていた。こころのまえで、あまり怒りの感情をあらわすのはよくない。もともと男が苦手なのに、怯えさせてしまったらことだ。
それにしても……。この言いかただと、こころは大羽さんのあの嫌がらせに気づいていなかったのだろうか? さすがにあれは、あからさまだと思うのだが。
僕はいちおう、周囲のひとたちからは、温和な人間であるかのようにあつかわれている。自分でも、意識してそう見えるようにふるまっている。
委員長が、僕を『いつもおだやかで接しやすい男』として、こころに紹介してくれたのも、そのおかげである。だから、こんごも自分のキャラクターをくずすつもりはない。
だが、それはそれとしても、僕は男なのだ。かっとなることだってある。あのように、他人の気持ちを忖度せず、思いやりを踏みつけにするような輩を見ると、どうにも我慢ができなくなってしまう……うん?
おっと、いけない。落ちつけ。またしても、気分が昂ぶってきた。
どうもまずいな。ひさしぶりに、本気でむかっ腹が立っているようだ。感情をきちんとコントロールしないと。怒りにまかせての行動が許されるのは、小学生までである。
高校生など、世間的には子供のようなものだろうが、僕は、自分がすでにおとなの仲間であるという矜持をもちたいと願っている。そうでなければ、だれかを守りたいという気概をもてるはずがない。
すなわち……。
「えい」
「あっ」
いきなり、こころに抱きしめられた。
顔面に、とてもやわらかいものが押しつけられている。メイド服の布ごしにもわかるあたたかなそれは、こころの乳房だった。
乳房、いわゆるおっぱい。すべての男のあこがれにして魂のふるさと。
僕はこころのおっぱいに、顔を埋めているのである。
日ごろ、ゆったりとしたものを着ていることが多いため、外見上はそこまでの印象はないが、こころは意外と肉付きがいい。もちろん、肥満しているというわけではなく、女らしい体をしているのだ。胸も、かなりおおきいほうだと言えた。
「落ちついた?」
こちらの髪をなでながら、こころがいった。
「まえに、宇佐美さんから聞いたんだよ。こーへいしゃん、見た目よりも怒りっぽくて、ひとりで思いつめることがあるんだって。そして、そういうときはこうしてあげると落ちつくんだって」
幸め。なんてことをこころに教えるんだ。恥ずかしいじゃないか、もう。
むふう。むふふう。やわらかいなあ。いい匂いだなあ。
「書記さんに、腹が立ったんだね」
そのはずなのだが、なにかもうどうでもよくなってきた。
「だいじょうぶだよ。こころは、いつだってこーへいしゃんの味方だからね」
「ああ……。ありがとう」
すると、こころはなぜか、ふっと声の調子をおとした。
「宇佐美さんってすごいね。こーへいしゃんのこと、なんでもしってる」
どこかしら、さびしげな口調だと思った。こころには、なかなか嫉妬深いところもあるし、また気持ちを溜めこんできているのかもしれない。
これは、なにか言ってあげたほうがいいな。
「幼なじみだからね。でも、これからはこころもきっと、幸のしらない僕をしるようになるさ」
「そう、なのかな」
答えるかわりに、僕は顔をあげて体勢をととのえると、こころを抱きしめかえした。彼女は笑って、こちらに身をまかせてくれた。
このひとを守るためにも、はやくおとなになりたいのだ。僕はそう思った。