第百五十話 控え室
講堂である。
軽音部のライブはすでに閉幕しており、あと片付けもすべておわっていた。それだけでなく、カップルコンテストの準備も、ほぼしあがっていた。
さきほど、観客として会場にいたときには気づかなかったが、どうやらステージ上にセットを組んでおいて、シーツなどで隠してあったようである。飾りなど、いくらか足りないものが残ってはいるものの、残り時間だけで充分に対応できる程度らしかった。
現在、午後七時四十分すぎ。あと十数分ほどで、カップルコンテストの開催時間である。控え室には、独特の緊張感がただよっていた。
参加カップルたちは、めいめい気持ちを落ち着かせるために時間をついやしている。僕とこころも、それは同様だった。
ただし、僕たちには、ほかのカップルとちがう点がひとつだけあった。
「こーへいしゃん、ネクタイ曲がってるよ、ほら」
「あ、ごめん。ありがとう」
硬い笑みをうかべ、こころがこちらの首周りをととのえてくれている。手が、すこし震えているような気もするが、しかたのないことだろう。実際、僕も地に足がついていない感じがするのだ。
ネクタイもなおり、ふたりならんでそわそわしていると、ふいに声をかけられた。
「さっきも思ったんだがな。じつに似合っているじゃないか、そのかっこう」
そちらに目をやると、鏡寺さんが上機嫌な様子で立っていた。うしろには、金魚のなにかという感じで、大羽さんもいる。
例によって、大羽さんは、またしても眼鏡の位置をなおしているところだった。そのしぐさが、なぜかみょうに得意げにみえて、すこし腹だたしかった。
「おほめいただくのは光栄ですけどね……。カップルコンテストに、執事やメイドって必要なんですか? 鏡寺さん」
僕とこころが、さきほどから浮き足立っていた理由がこれだった。鏡寺さんの指示――正確には、大羽さんの提案を承認したという形だったが――により、ふたたび執事とメイドをやらされることになったのである。
もちろん、コスプレをして参加するぐらいであれば、どうということはない。店がおわって、気を抜いていたところはあるが、それでも終日このかっこうだったから慣れている。他人の目も、ここまできたらいまさらだ。
問題は、コスチュームを着ること自体ではなく、コンテストのあいだずっと、執事とメイドの仕事をこなさなければならないという点だった。
つまり、司会のアシスタントをやらされるのである。しかも、ぶっつけ本番で。こちらは、リハーサルに参加どころか、プログラムも満足に記憶していないというのに。
いきなり着替えろといわれたので、とりいそぎ準備はしてきたが、正直なところ、無茶にもほどがあると言わざるをえなかった。
「まあ、そういうなよ、廣井。なにも面倒なことをさせようというわけじゃない。お茶やお菓子をはこぶのと、大差ないと思うがね」
「というと?」
そこで、大羽さんが話の穂をついだ。
「あなたがたには、おもに雑用をやってもらいます。フリップを運ぶとか、カップルのみなさんが壇上にたったときに、ピンマイクをつけてもらったりとかのことを」
ありゃ? なんだ、ただの裏方じゃないか。カップルなのにこき使われるというのはさておくとして、それだったら、とくに緊張するほどのことでもなかったのかな。
「ハトのいったとおりだ。そのかっこうで観客のまえにでてもらえれば、間違いなく盛りあがるだろう。参加カップルのなかで一番目立つポジションだから、自己アピールの代わりにもなるぞ」
これが自己アピールというのは、さすがにちょっと無理がないですか、鏡寺さん。
「あの……。ピンマイクとか、見たこともないし、どうやってつけたらいいのかわからないです」
こころが、おずおずとした様子で、鏡寺さんに声をかけた。
「うん? ああ、それなら簡単だ」
ちょっとまてといって、鏡寺さんが、持っていた鞄のなかに手をつっこんだ。と思ったら、なにかの機械を取り出した。ピンマイクと、ポケットに入れる無線機のようだ。
「ほら、こっちがマイクだ。根元のところが、洗濯バサミのようになっているだろう? これを、ジャケットのまえの合わせのところにでもくっつけてくれ。シャツの襟でもかまわん。……さあ、やってみるといい」
言われるままに、ふたりで付けあってみた。なるほど、これならたしかに問題はなさそうである。
「わりと高価な品物ですから、落としたりしないでくださいね? 壊したら、弁償してもらいますよ?」
大羽さんが、眼鏡をくいとあげた。とたんに、こころがびくりと体をふるわせた。
どうやら、こころは大羽さんに、すっかり苦手意識を植えつけられてしまったらしい。
「こらこら、ハト。あんまりへんな冗談をいうなよ。堤さんが固まっているぞ」
「あら、それは失礼いたしました」
歯を見せたまま謝られても、不愉快なだけである。
ともあれ、付けかたは理解したので、マイクは返すことにした。すると、鏡寺さんが、事故やそのほか、トラブルが起きたときの対処について、情報共有が必要だといってきた。
どちらかというと、関係者同士の打ちあわせに近い内容である。しらないうちに、僕とこころはただの参加カップルではなく、主催者側の立場にされてしまっていたようだ。いかにも鏡寺さんらしい、強引でなし崩し的な巻きこみかたである。
大雑把なプログラムの順番から、こまかな注意事項の確認まで、あれこれと話がつづく。そうこうしているうちに、いよいよコンテストの開催時間ギリギリになってきた。
「じゃあ、廣井、堤さんも、たのんだぞ」
颯爽という言葉の意味を体現するかのごとき物腰で、鏡寺さんが去っていった。
「せいぜい、仲睦まじく働いてくださいね」
悪意を感じさせる捨てゼリフをのこし、大羽さんもそのあとについていった。
モリハトコンビが控え室から出ていったところで、こころがふうとため息をついた。
見た感じ、いまの打ちあわせもどきの話しあいで、気苦労をしいられたからというわけでもなさそうである。どちらかというと、ぼんやりしているといった印象があった。
きっと、こころは疲れてしまったのだろうと思った。なんだかんだいっても、朝から喫茶レクイエムで働きづめだったのである。
ついでにいうと、僕自身、じつは目がしょぼしょぼしはじめていた。
「ねむい?」
「ちょっと……。でも、まだがんばれるよ」
いって、こころは自分を奮いたたせるように、両拳を握りこんでガッツポーズをとった。
ふむ、これは負けていられないな。僕も、おなじようにガッツポーズをとった。それから、互いに顔を見あわせて笑った。