第百四十話 九月九日(日)午後 禰子の告白 3
「結局さ」
自嘲気味に、立花さんが笑った。
「あの子が男がダメってのは、こっちがかってにそう決めつけていただけのことだったんだ。転校したら、すぐにちゃんとした彼氏をつくって、男子ともふつうに会話できるようになって……。ほんとうに、なにをやっていたんだ自分って思うよ。ボクがしていたことは無駄なこと、いや、むしろ、ココちんのためにならないことだったんだ」
ふたたび、立花さんがため息をついた。ひどく深くて、そして長いため息だった。
過保護という言葉を、僕は思いうかべていた。
三ノ杜学園に転校してきたあとのこころにとって、立花さんとおなじ立場にいた友人は、たぶん委員長だったのだろうと思う。彼女も、こころを守ってあげたいといっていた。
しかし、その委員長も、こころを男から遠ざけようとしたり、あるいは近づいてくるのを邪魔しようとはしていなかった。
逆に、こころがはやくクラスメイト、とりわけ男子になじめるように、背中を押していたように見える。
なにより、僕がこころと交際するようになったキッカケのひとつが、委員長から、多少なりと接しやすい男子として紹介されたことだったのだ。
どちらがこころにとってよりためになる友人だったかと問われれば、立花さんには申し訳ないが、直接的には委員長だったと答えざるをえない。
――とはいえ、僕は目のまえの立花さんを、完全に否定したいとは思わなかった。
「むだじゃないと思う」
「……え?」
きょとんとしたような顔で、立花さんは視線をこちらにむけてきた。
「こころが男子を苦手にしているのは事実だし、いきなり慣れさせようとしても、逆効果になる場合もある。さすがに、いつまでも男から隔離するようなことをするのは問題だけど、一時的にということだったら、それなりに効果はあったはずだよ」
彼女のやっていたことが、こころによい影響を与えたのか、その逆なのかは、精神分析医でもない僕には、どうとも言いきれない。
しかし、結果として、いまのこころにはあたらしい友だちが何人もいるし、自分でいうのも面映いが、僕という恋人だって作れているのだ。
現在が、過去をふまえて形成されるものだと考るならば、立花さんの存在も、いまのこころを形作る土台として、必要なものだったといえるはずだ。
それに、こういってはなんだが、こんなに悄然としている立花さんを、これ以上せめたてるわけにもいかなかった。
「ありがとう、廣井くん」
こちらの言葉を慰めとうけとったのか、立花さんは悲しげにほほえんだ。
「立花さん」
「そうだ、キミに伝えておきたいことがある」
もうすこし話をつづけたいと思ったのだが、立花さんは僕を制して、唐突に話題を変えてきた。
「廣井くん、ココちんの家に遊びにいったことは?」
「家に? いちおう、あるよ。あ、もちろん、お母さんのいるときにね」
ふうんと相槌をうって、立花さんは考え深げに自身の口元に手をやった。
「じゃあ、あの子の部屋……寝室には、入ってないんだね?」
「ああ、リビングに迎えいれてもらったぐらいだけど」
そこまで言ったところで、立花さんは、空になったティーカップの取っ手部分に指をかけて持ち上げた。それから、ふと気づいた様子で苦笑めいた表情をうかべると、ソーサーのうえにカップを――どちらも紙なので、カチャリと音が鳴るというような風情はないが――もどした。
「もう一杯のむ?」
「お願いしようかな。……そのまえに、ひとこと」
改まった感じで、立花さんは背筋をのばすと、僕をじっと見つめてきた。
いつかのような、猫科動物を思わせる強い視線である。いきなりだったこともあり、僕はつい怯むような気分に襲われた。
「どうか、あの子が怖がるようなことをしないでほしい。たとえ冗談でも」
「怖がるようなこと?」
話の流れからして、僕がこころの私室に招かれた状態でということだろうが……。
まあ、いわんとすることについては、理解できなくもない。男が女とふたりきりのときでという前提なら、相手の怖がる行動の種類も、そう多いとは思えないからだ。
とはいえ、それはちょっとよけいなお世話といった感じである。心配もわかるが、立花さんは、まだ過保護な気分から抜け出せていないのだろうか。
「べつに、そんなのは言われるまでもないと思うけど」
もちろん、僕だって男だから、女性との交際のさきにあるものについて、思いを馳せないわけではない。むしろ、ときには、煩悩に取り憑かれてしまいそうになることだってある。
だが、そういう妄想と現実との区別は、はっきりとつけているつもりだ。こころが嫌がることは、絶対にしたくない。
「ボクがいいたいのは……いや、廣井くんも、その場になればわかるか。というより、わかってもらわないと、キミ自身のためにも、あの子のためにもよくないと思う。とにかく、いま言ったことだけは覚えておいてほしいんだ」
はて? なにかみょうな言いかただな。もしかすると、これは僕が想像したのとは違うことについての話なのか?
「なにそれ、どういうこと? もっと、くわしく教えてもらえない?」
「教えない。このヒントを伝えたのだって、こっちにとってはキミへのお礼のつもりなんだ。廣井くんはココちんの彼氏なんだから、そういう重大で微妙な問題は、自分で考えて判断しなよ」
やれやれ、謎かけのようなことを言っておいて、答えあわせはナシか。そう思わないでもなかったが、さほど不快には感じなかった。立花さんが、楽しそうに笑っていたからである。さきほどの、過去の自分を責めているといった態度にくらべれば、こちらのほうがよほどいい。
「もっとも、実際のところは、教えられることがあまりないというのが真相なんだけどね。ボクにも、なぜそうなっているのか、理解できていない部分があるんだ。それに、断片的な情報ってのは、どうしてもかってな憶測と予断を生んじゃうし、ときとして判断を狂わせるもとになることもあるから、必要になるまではしらないほうが無難な場合だってある。……さあ、おしゃべりはこのぐらいにして、アイスティーのおかわりをいただこうか。それと、やっぱりおなかがすいたから、フルーツパフェを一皿」
「はあ……。えっと、かしこまりました、お嬢さま」
どうやら、会話を打ち切る気満々に見えたので、僕もそれ以上は食い下がらないことにした。そもそも、ここまでかなりの長話をしているのである。いくらピークをすぎたとはいえ、さすがにほかの従業員に悪い。
注文の品をはこんでいくと、立花さんは笑顔で『ありがとう』といってくれた。その表情には、どことなく安堵のようなものが見てとれた。