第百三十六話 九月九日(日)昼 3
店の表口、といっても、ようは教室の教壇側の入り口なのだが、幸とはそこでわかれた。
どうやら、彼女はこれから、各クラスの出し物をひととおり見てまわるつもりらしい。いっぽう、立花さんはふつうに客として入店し、アイスティーとホットケーキを注文してくれた。
「ところで、なんでレクイエム? 喫茶店の名前にしちゃ、ちょっとらしくないと思うけど」
「レクイエムとは、鎮魂ミサ曲の題名として広く知られておりますが、実際はラテン語の『主よ、死者のための安息を与え給え』というような文言での『安息を』の部分に相当いたします。お帰りいただいたご主人さま、お嬢さまがたに、安らぎくつろいでいただきたいとの願いをこめて、選ばれた店名でございます」
僕の執事調の説明がおもしろかったのか、立花さんはくすりと笑った。それから、なるほどねと相槌をうち、カップに口をつけた。
そのあいだにも、だんだんと客が多くなってきていた。
立花さんに断って席をはなれ、あたらしく入店してきた客をテーブルに案内したり、またべつの客から注文をもらったりということを繰りかえしていく。執事の仮面をはずさないように努めてはいるが、実際問題として、目の回るようないそがしさである。
やれやれ、ピークに向けて、人員は厚くしておいたはずなんだけどな。すこしばかり、目論見が甘かったかもしれない。だれか、夕方のメンバーでも、予定を前倒しして手伝いに来てくれたらいいのに。
そんなふうに、心のなかでひそかに愚痴をこぼしていたときのことだった。
突然、おおきな音がした。
引き戸を乱暴に開いたときに出るような音だった。おどろいてそちらに注意をむけると、クラスメイトの男子がひとり、店の入り口に立っているのが目にはいった。肩で息をしていて、戸をあけたときの姿勢のまま、呼吸をととのえているかのようである。
見るからに、異様な雰囲気だった。血相を変えて飛びこんできたとしか形容しようのない様子だった。
委員長が、すぐさまその男子のもとへと駆け寄った。なにごとか、ささやきあいはじめた。こころが、不安げな表情で、そちらを見つめている。
やがて、男子が踵を返して店の外に消えた。のこされた委員長はといえば、こんどはこちらに小走りで近寄ってきた。
「廣井くん、緊急事態発生よ」
深刻そうな顔で、委員長が耳打ちしてきた。
彼女の説明によると、そとで宣伝活動をおこなっていた女子がひとり、体調をくずしてしまったのだという。熱中症になってしまったらしいと聞いて、僕は思わず『まさか』とつぶやいていた。
油断と言ってしまえばそれまでだが、幸の当番が終われば、そちら方面にはもう問題はないだろうと、僕は高をくくってしまっていたのである。
いま、その女子は保健室で休息をとっているところで、これから保護者にも連絡をいれるのだという。委員長はクラスの責任者として、最低限、だれかが迎えにくるまでは付き添っていなければならない。
「わかった。あとはまかせて」
「お願い。みんなにもよろしく」
それだけを言い残すと、委員長は足早に店をあとにした。
だけど、弱ったな。
しらず、僕は片手で、自分の口元から顎のあたりを押さえていた。
ほかの時間帯ならともかく、よりにもよって、もうじきピークというこのタイミングでの戦力減である。現状でも、予想以上の盛況ぶりなのに、これではどう考えても人手がたりない。
倒れた女子についてもそうだが、とくに痛いのは、委員長が抜けることだった。
店内を俯瞰的な立場で見て、適宜、指示を出す。自由に動きまわって、細かいフォローをする。委員長ひとりの存在だけで、全体が円滑に稼動しているところがあるのだ。正直なところ、いてくれないと困る。
いや、まあしかし、いないものはしかたないから、とりあえずは副委員として、僕が彼女の役割を肩代わりするしかないのだが……。ううむ、だけどそうなると、またべつの問題が発生してしまうな。人数、とくに執事の数が足りなくなるから、メイドがひとり、あぶれてしまうのである。
つかのま、思い悩んだ。ここはむしろ、委員長が早期に復帰することに期待して、彼女のポジションは空けたままにしておくか。それとも、やはりいまのうちに、メンバーのだれかにでも電話をして、早出をしてもらうか。
余ったメイドに、ひとりで接客してもらうというやり方もなくはないが、なるべく採用したくない案だった。
わが喫茶レクイエムにおいて、企画の早い段階から重視されていたのが、メイドと執事、ふたり一組でのきめ細やかな接客である。ただでさえ、さきの悶着のせいで、記念撮影コーナーを閉鎖してしまっているのに、このうえサービスの質まで落とすのは、なんとしても避けたかった。
「どうかした? ずいぶんと困った顔をしているね」
「……ネコちん?」
だれかに話しかけられたような気がして、ふとわれに返った。見ると、いつのまに近づいてきていたのか、僕とこころのすぐよこで、立花さんがたたずんでいた。