第百三十四話 九月九日(日)昼 1
一時間ほどたった。
黒田は委員長となにごとか会話をかわしたあと、アイスコーヒーとスイートポテトを注文したようだ。接客しようと思ったときには、すでにいなくなっていたので、おそらく、食べたらさっさと店を出てしまったのだろう。僕とこころはといえば、そのかんも順調に仕事をこなしていた。
さて、執事やメイドというのは、やはり珍しく感じるものであるらしく、帰りぎわにツーショット写真を撮影したがるものが多い。
こちらとしても、店の一角にそのためのスペースを用意していることもあり、どんどん利用してくれればいいとは思うのだが、なかには従業員と腕を組んだり、肩を抱こうとしてくる客もいる。さすがに、それは禁止とさせていただいていた。男子からメイドにたいしてはもちろんのこと、女子から執事にたいしても、問題が多すぎるからである。
しかし、禁止であっても、強引に迫ってくる客はいた。
「お、お嬢さま? いささか、はしたのうございまするまいか」
「え~、いいじゃん。執事さん、ステキぃ」
この客は、どうやら僕をからかっているようである。ニヤニヤと笑いながら、抱きつくようにしてきているのだ。
内心で、僕はやれやれと思いつつ、相手の肩をやんわりと押した。体がはなれ、客は不服そうに口を尖らせた。
ふと心配になってとなりを確認すると、こころは相変わらず、にこにことしたほほえみを浮かべているだけだった。ただ、なぜかしきりと両手を組み替えているのが見える。あるいは、いま、彼女はあまり穏やかな気持ちではないのかもしれない。
さいわいなことにというべきか、こういう悪戯をしかけてくるのは、こちらのペアではいまのところ女子だけだった。もし、男子がこころにおなじようなことをしていたとしたら、僕もじっとしてはいられなかったろう。恋人にちょっかいを出されるというのもさることながら、彼女を怖がらせてしまう可能性があるからだ。
僕と交際するようになってから、多少は慣れてきたのか、こころはクラスの男子とも、いくらかコミュニケーションがとれるようになっていた。ゴーあたりとはふつうに話せるし、ときにはほかの男にも、自分から話しかけたりすることがある。
全体としては、まだかなりぎこちないが、転校してきたばかりのころにくらべれば、雲泥の差である。そういうよい流れを、つまらないことで断ち切りたくはない。
だから、男子を接客するときには、僕は自分のいる場所にも気をつかい、万一の場合にはすぐにでも割って入れるようにしていた。
――などと、会計をすませた客を見送りながら、自分の立ち位置や身の処しかたについて思いをはせていると、そこに委員長が歩みよってきた。
「廣井くん、ココちゃん、そろそろ休憩に入ってもらえる?」
「ああ、いいよ。いこう、こころ」
現在、午前十一時すぎである。昼にはまだ早いが、ピークと想定されている正午から一時ごろにかけてを避けるためにはしかたがない。ちなみに、委員長は午後二時から休み時間という予定になっていた。
荷物を手に、僕たちは店をあとにした。
あらかじめ決めてあったとおり、着替えはしない。空調の効いた店内とは違い、そとは熱気が肌にまとわりつくようだ。残暑どころか、ほとんど真夏である。
向かうさきは、校庭だった。
ついてみると、そこには運動部の屋台やフリーマーケットなどが所狭しとならんでおり、ひとでごった返しているというような状態だった。また、園芸部が管理している花壇のほうに目をやると、育てた花の即売会がおこなわれている様子だった。見た感じ、そちらもかなりの盛況のようである。
「ベンチ、あいてなさそうだよ」
「うーん……。じゃあ、あっちにいく?」
はぐれないよう、手をつないで歩いた。掌が、汗ばんでべたついていた。
いかに文化祭といえど、コスプレをした男女がふたり並んで歩いているというのは、なかなか目をひくもののようである。すれちがうひとのなかには、驚いたような顔をしているものもいる。しかし、あまり気にはしなかった。これは、店の宣伝も兼ねているのである。
しばらく歩いて、ようやく座れそうな場所を見つけた。グラウンドの出入り口わきの通路。食事をするのによい場所とは、お世辞にもいえないが、いちおう日陰である。それに、文化祭見物の順路からは外れているので、他人の邪魔にはならなそうだった。
額にういた汗を、ハンカチでさっとぬぐった。それから、地面にタオルを敷いて、腰をおろした。こころが、水筒とふたりぶんの弁当箱を取り出してきた。文化祭であるにもかかわらず、本日も、昼食は彼女の手作りである。
もっとも、これはべつに、僕が恋人の手料理が食べたいあまり、無理に作ってきてもらったとか、そういった話ではない。むしろ、事前に『昼食は屋台のもので済ませることにしよう』と、こちらから提案していたほどである。
なのに、こころのほうがそれに反対し、弁当をつくってくると強硬に主張してきたのだ。
聞けば、彼女はほとんど信念のレベルで、きちんとしたものを食べないと健康を害するという考えを持っているらしい。いそがしいのに悪いと思っての提案だったのだが、そういうことなら拒否する必要はなかった。
「いつもありがとう、こころ」
水筒のお茶でかるく口をしめらせたあと、僕は弁当箱を受け取ろうと手をのばした。ところが、彼女はなぜか、こちらの手をぱちんと叩いて、払いのけてしまった。
「え?」
ふわりとした笑みをうかべつつ、こころが僕を見つめている。
「どうしたの? 早く食べないと、休憩時間が」
「写真」
顔をほほえみの形にたもったまま、こころがいった。
「女の子といっぱい、いっしょに撮ってたよね」
「それは」
ゆっくりとした手つきで、こころがふたりぶんの弁当をひろげはじめた。その姿を、僕はただ見つめることしかできなかった。
「最後の子には、抱きつかれてたよね。こーへいしゃん、すごく嬉しそうだった」
「あの、こころ?」
怒っているようには、まったく見えない。それでも、ただならぬ緊張を感じた。僕の背中を、冷たい汗がつたっていく。
弁当のおかずのコロッケを、箸でちいさくしたものを、こころがつまみあげた。
「あーん」
満面の笑みだった。その表情のまま、こころはこちらの鼻先に、コロッケを突きつけてきた。一瞬、どう反応していいかわからず、僕は固まってしまった。
「こーへいしゃん? あーん」
甘酸っぱいようなソースの香りが、鼻腔をくすぐった。そういえば、このコロッケソースも、彼女の手製であるらしい。なんでも、休日に、野菜や果物、香辛料などを煮こんだものを、瓶詰めにして冷蔵庫で保存したりしているのだとか。
「あ・あ・んっ!」
「あ……あーん」
あわてて開いた口に、箸とコロッケが遠慮も会釈もなく突っこまれた。
「おいしい? こころ特製、こころコロッケだよ」
バネ人形になった気持ちで、こくこくとうなずいてみせると、ようやく彼女は満足げな顔をして、そのままほかのおかずを自分の口にはこんだ。
おなじ箸で、である。あっ、間接キス。そう思ったが、なにもいわなかった。
あたりまえのように、こころがこちらの口のなかに、ご飯やおかずを詰めこんでいく。はじめのうちこそ、すこしまごついてしまったが、だんだんと余裕がでてきた。親にえさをもらう雛鳥が、こういう気分なのかもしれない。
そんなことを考えつつ、僕はぼんやりとこころの顔をながめてみた。
顎が、うごいていた。もぐもぐという感じだが……はて? 彼女はたったいま、食べたものを飲みこんだばかりで、口のなかは空っぽのはずだ。というより、むしろ、こちらの咀嚼にあわせているかのようにも見える。
どうやら、無意識にそうしているらしいことに気づいたとき、僕は思わず噴き出しそうになった。
「えへへ」
こころが、ほほえみを浮かべている。さきほどの、みょうに凄みのある笑みとはちがい、こんどはほんとうに嬉しそうだ。
「ふふふ」
おかげで、僕もすっかり楽しくなってきた。愛情たっぷりのこころコロッケは、とてもやさしい味がした。