第百三十一話 九月九日(日)朝 1
ブレーカーは落ちなかった。
文化祭直前の最終チェック、すなわち、電気を最大限につかっても停電になったりしないかの、確認の結果である。もっとも、電力はもとから余裕をもって各クラスに振り分けられているので、当然のこととはいえる。
これをもって作業はすべて完了し、あとはこまかい連絡などをのぞけば、三十分ごの開店をまつばかりだった。
天気は快晴。朝にしては少々暑いが、絶好の文化祭びよりである。
「じゃ、男子はこっちで着替えてね」
委員長にうながされ、僕ともうひとりが仮設の更衣スペースにはいった。朝一番の店内人員は、レジが一名と調理担当が二名、そして執事が二名とメイドが三名である。
「へえ、似あってるじゃないか、廣井」
「おまえもな。……それ、香水?」
あらかた着替えおわったころ、もうひとりの執事が、荷物から小瓶を取り出してきた。
「安物だけどな。廣井もつけてみるか?」
笑いながら、匂いをかがせてくれた。ほんのりと甘く、柑橘系といった感じの香りで、なかなか悪くない。
「たのむよ。……ええと、どうやってつければいいんだ?」
「なんか、足首につけるといいらしいぜ。あと、あんましたくさんは使うなよ。ケチってるわけじゃないぞ。下品になるからだ」
とりあえず、いわれたとおりにやってみた。
「おう、いい感じだ。よし、じゃあ行こうぜ」
髪とネクタイをととのえ、カーテンをひらいた。まだ、メイドたちは出てきていないようだ。調理担当の白衣の女子ふたりが、レジの男子と談笑しているのが見える。
「あっ、執事だ。すごい」
調理のひとりがそういってこちらを指さしてきた。
なにがすごいのかよくわからないが、この格好だとみょうに緊張する。背筋をのばし、つねにアルカイック・スマイルを浮かべていなくてはならないような気分になってしまうのである。
もうひとりも似たようなものらしく、微妙に表情が硬かった。
ともあれ、時間にはまだすこし余裕がある。なにをして暇をつぶすか、もうひとりといっしょに、目のまえの三人の会話にでもまざろうかなどと考えていた矢先、ふたたびカーテンのひらく音が聞えてきた。
やっと、女子たちの着替えがおわったのだろう。そう思い、僕は音のしたほうに視線をおくった。瞬間、口笛を吹きそうになった。
そこにいたのは、あでやかな姿でたたずむ三人のメイドたちだった。
まず、幸である。
銀髪の彼女がメイドコスプレをするのは、いかにも日本人ばなれした印象があった。小柄で幼げな外見もあわせ、あたかもファンタジー世界の住人が、現世に迷いこんできたかのようですらある。
ひとりだけ、ヘッドドレスのかわりにウサミミのカチューシャをつけているのが、なんともかわいらしい。瞳には、黒っぽい色のカラーコンタクトをつけていた。おそらく、サングラス仕様のレンズだろう。
いつだったか、目によくないので使わないといっていた気もするが、さすがに、メイド服と黒眼鏡はあわなかったのかもしれない。
つぎに、委員長である。
クラスの責任者であり、この場では店長の肩書きをもつにもかかわらず、彼女は客に直接かしずくメイドの役も買って出ていた。
トレードマークの三つ編みはといており、すこしウェーブのかかった長髪が、服装とじつによくあっている。眼鏡もはずしていて、やはりコンタクトレンズを使用しているようだ。素顔といっていいのかわからないが、こういう委員長を見たのははじめてで、かなり新鮮だった。
豊満な胸とフリル付きエプロンの組みあわせは、ただでさえ刺激が強いのだが、それが、喉もとの黒チョーカーから吊り下がる銀の十字架によって、さらに強調されている。
正直なところ、どうしてもおっぱい、もとい、胸のあたりに目がいってしまい、失礼だと自分を叱りつけなければならないほどだった。
そして、メイド三人娘の最後のひとりは、わが恋人、こころだった。
もともと、女子としては背の高い彼女であるが、今日はハイヒールの靴をはいており、目線の位置が、僕とほとんどかわらなくなっている。
特筆すべきはその脚の長さ、足首の細さで、しかもふだんはロングスカートをつけることが多いのに、今回のメイドコスチュームは、どちらかといえばミニスカートである。
そのため、すらりと伸びた白ストッキングの脚のしなやかさは、年齢がおなじとは思えないほどの妖しい魅力を感じさせた。
しかし、こんなに足首がほそいのに、腰まわりはむしろふっくらしているというのが、ふしぎなところである。彼女は着やせするタイプらしく、触りごこちなどはじつに肉感的だったりするのだ。
じっと、こころが僕を見つめている。
「こーへいしゃん、カッコいい……」
ほんのりと頬を朱にそめつつ、そんなことを言ってくれた。
「ああ……。こころも、とっても綺麗だよ」
僕も、彼女を見つめかえしてみた。ただうつくしいというだけではない。やわらかな光をはなっているがごとき圧倒的な――いわば色香とでもいうべき存在感に、思わずこの場で抱きしめたくなった。
「えへんえへん、おほん」
突然、どこからともなく、複数の咳払いが聞えてきた。
「え? あ、あれ?」
気がつくと、その場の全員が、僕とこころに注目しているようだった。どことなく生暖かさを感じる視線にまごついていると、すこし離れた位置にいた委員長が、ぱんと柏手をうった。
「はい、そういうのは休憩時間にお願いしますね。……ええ、文化祭もいよいよ本番です。気合をいれていきましょう」
すぐに、みんなが彼女の近くにあつまった。僕とこころも、なにげなくその輪のなかに紛れこんだ。委員長は周囲を見回して、軽くいちどうなずくと、それからおもむろに演説をはじめた。
ここしばらく、一丸となって遅い時間までがんばってきたこと。衣装を製作した裁縫担当へのねぎらいと、接客・調理担当への激励の言葉。絶対に文化祭を楽しもうという宣言。
まるで、事前に原稿を書いて暗記してきたかのように流麗なスピーチである。ほんとうに、ひとをやる気にさせるのがうまい。僕の気分も高揚していたし、ほかの子たちも、表情を見るかぎりおなじ気持ちだろうと思った。
さて、彼女の演説がおわると、つぎはこちらの出番である。これでも副委員なのだ。委員長ばかりに仕事をさせるわけにもいかない。
「えっと、じゃあここからは僕が。最終連絡をはじめます。まず……」
いって、僕は手近なテーブルのうえに書類をひろげた。