ガールズサイド 立花禰子
逆鱗にふれるという慣用表現がある。
ふだんはおとなしい竜が、たった一枚の喉のところに生えた逆のウロコを触られるだけで激昂し、相手を殺してしまうという伝説。そこから転じて、目上のもの、とくに権力者を怒らせてしまうことを意味するようになった言い回しだ。
竜や権力者にかぎらず、ひとにはだれしも、けっしてふれてはならないモノがある。それは思い出かもしれないし、品物かもしれない。とにかく、無遠慮にふみこむことで簡単に相手を怒らせ、へたをすれば関係をもこわしてしまうような領域や対象。そういうものが、かならずあるのだ。そのことを、ボクは忘れていた。
廣井くんから、メールがとどいた。ボクの幼なじみであるココちんの彼氏。内容は、おおまかにいえば『もう聞いていると思うけど、週末にうちの学校で文化祭が催されるので、よかったら遊びに来てほしい』というようなもの。
ココちんが転校していった三ノ杜学園というのは、このあたりでも有名だ。さいわい、時間はあるので出かけてみるつもりだった。
ぼんやりと、メールの文面を読み返してみた。
彼はココちんとは名前で呼びあっているらしく、随所に『こころ』という文字がおどっていた。用件のほかに、ごく普通のノロケ話も書いてあり、そちらはやけにしたしげな文体でつづられていた。どうやら、廣井くんは、ココちんの幼なじみの友人ということで、ボクにも一定の親近感を抱いてくれているようだ。
バカらしい。
いまのボクは、あらゆる意味において、ココちんの友人と言えるような状態にはない。せいぜいのところ、知人。こちらから連絡をとろうとしなければ、あの子はボクを思いだしすらしないだろう。
……いや、ちがうか。正確には『思いださない』のではなく『思いだしたくない』と考えているはずだ。げんに、文化祭についての情報も、ココちんからはなにももらっていない。
ふたりが、デートをしている現場に出くわしたときも、そうだった。八月の、花火大会の日。そのすこしまえに、ココちんに誘いの電話をかけていたのに。
用事があるから、いっしょにはいけないの。ごめんね。あの子の返事は、ただそれだけだった。好きな男がいることはおろか、当日、自分たちで花火を見にくるということさえ、ひとことも口にしなかったのだ。もし偶然、公園で出会わなかったら、ボクはあの日、ココちんがおなじ街にいたことにも気づかなかっただろう。
見た感じ、廣井くんはかなりにぶそうなので――ココちんの人当たりがいいということもあるとは思うけど――わかっていない気がする。あの子の、ボクにたいする態度のことを。
幼なじみというのは因果なものだ。去年のいまごろに比べて、ボクとあの子のあいだにどれほどの溝ができてしまったのか、いやになるほど見えてしまう。
話をするときに、目をあわさなくなった。返事はくれるものの、あの子のほうからは電話もメールもよこさなくなった。引越しの日、お別れだからと抱きついたときに、体を硬くされたのが一番つらかったかもしれない。あの子は、ボクを嫌っているだけでなく、たぶん怖がっている。
なぜそうなってしまったのか。原因はわかっていた。それは、去年の暮れのこと。ココちんの部屋でいっしょに遊んだときに、ボクがやった悪ふざけ。常識的に考えれば、ほんの冗談といってしまえる程度の些細ないたずらで、あの子は激怒した。
おそらくは、あれがあの子にとっての『ふれてはならないモノ』だったのだと思う。
――ふと気がつくと、けっこうな時間がたっていた。
いつまでも記憶の海に沈みこんでいるのは、不毛である。さて、廣井くんからのメールには、どう返事を書こうか。ココちんの逆鱗について、忠告してみようかな。
そんなことを考えかけたところで、ふいにボクは苦笑したいような気分におそわれた。
まったく、バカらしい。なんの義理があって、彼のためにそんなことをしてあげなきゃならないのか。
これは、ココちんとながくつきあっていくための、いわば試験のようなものなのかもしれない。ならば、事前に情報を手に入れるのはアンフェアだ。なにより、不合格だったボクがみじめすぎる。
結局、返事は当たり障りのないものにした。その日に遊びにいく。ココちんにもよろしく。そんな内容。
携帯をとじて、ボクは勉強机につっぷした。
胸の奥から、声が聞えてくる。
あの子の叫ぶような、怯えるような……変になっちゃったんじゃと思ってしまうような、声。これはボクの記憶。心の傷。
離して! やめて! 近寄らないで! 出て行って! にどと、二度とうちに来ないで! 絶交だよ!
しみついたように、暮れのあの日から消えない。
いちおう、年があけてすぐに、ココちんはこちらの謝罪を受け入れてくれた。でも、表面だけの仲直りに、いったいどんな意味があるというのだろう。どうがんばっても、ボクの言葉はもうあの子にはとどかない。そう思うと、自然に涙がこぼれた。