第百三十話 九月四日(火)夜
教室にもどると、クラスの居残り組は、僕たちが出るまえとかわらず、みんなでがんばって作業をしているところだった。
予定より、ずいぶんと遅くなってしまったが、忙しいせいか、とくに気にはされていない様子である。僕も委員長も、これさいわいとばかり、何食わぬ顔で自分の作業にはいることにした。
さて、おなじグループの男子たちと、チラシの煽り文を考えたり、飾りつけのイメージを話しあったりしているうちに、そろそろ学校がしまる時刻である。学生の下校をうながす放送にせきたてられ、僕たちはめいめい帰路につくことになった。
ただし、火曜なので、僕とこころにかんしては、帰るのは、いつものように買い物をしてからである。
土曜などの時間があるときであれば、ついでにデートとしゃれこんだりすることもあるのだが、今日は平日なので、必要以上の寄り道はしなかった。用がすんだら、彼女をまっすぐにマンションに送っていった。
ところが、だった。
マンションの玄関まで来たところで『帰るまえにお茶でも』と誘われてしまったのである。つまり、部屋にあげてもらうということだ。
恋人の部屋に、ふたりきり。予想外の展開に、僕はごくりとつばを飲みこんだ。
「い、いいの? こころ」
「うん。だいじょうぶだよ。ママも、もう帰ってきてるし」
そりゃそうだ。ははは。
もとからそういう計画だったのか、桐子さんはすでに準備をととのえて待っていてくれた。僕は、リビングでくつろがせていただき、学校でのできごと――おもに、文化祭準備の進捗状況など――について、あれこれと報告することにした。
「公平くん、せっかくだから、今日も晩ご飯を食べていきなさいな」
「でも、それは……いえ、わかりました。どうもありがとうございます」
夕食は、こころの手作りだった。昨日は彼女の帰りが遅れたため、はからずも桐子さんの料理をいただくことになったが、本来、堤家ではこれが正常運行である。
ふんふんと、鼻歌をまじらせつつ、こころが食器をならべていると、桐子さんが『やけに楽しそうね、新妻みたい』などと声をかけた。その言葉に、わが恋人はとたんに熟したトマトのようになり、あわてて台所に逃げ去ってしまった。
いっぽう、僕は、堤家で夕食をご馳走になる旨、母さんに連絡をしていた。メールを送ると、数分ごには、ハートマークやらニコニコマークやらの絵文字つきで『いっそそのままそっちの子供になったら?』という内容の返信がきていた。
食卓をかこみ、のんびりと料理に舌鼓を打ったり談笑したりするうち、やがて夜も更けてきた。さすがに、もう帰らないと、いろいろと問題が発生する時刻である。
「じゃあ、また」
「寝るまえに、電話するね」
マンションのまえの道路まで、こころは見送りに来てくれた。ほほえんで、手を振ってくれている。僕は、軽く片手をあげてそれにこたえると、そのまま緩やかな坂道をくだっていった。
およそ、二十メートルばかり歩いたころだろうか。ふと、振りむいて仰ぎ見ると、こころはまだ、その場にたたずんでいた。もういちど、僕は腕をあげて挨拶し、それからあらためて家路についた。
道すがら、今日あったことを思い返してみた。
幸や委員長たちに、こころのことを、いろいろと相談してしまった。こんごのためになると信じてやったことだが、かってに話して本当によかったのかと考えてしまうのも、また事実である。
頭をふっても迷いは消えず、僕はなんとなく空を見あげてみた。
雲はない。浮かんでいるのは、綺麗な半月である。いわゆる『下弦の月』なので、これからは、日をおうごとに、どんどんと明るい部分が減っていくのだろう。
やれやれ、月も見えなくなるのか。なんだか憂鬱だなあ。
一瞬、そんな益体もないことを考えかけ、しかし、僕はすぐに、自嘲するような気分になった。
くだらないことを。月がおおきかろうがちいさかろうが、それが僕とこころのこんごになんの関係があるというのだ。
そんなのをいちいち気にしてたら、そのうちに、やれ黒猫が目のまえを横切ったとか、やれカラスの羽根が道に落ちていたとか言っては、うじうじと沈んでしまうようになってしまうぞ。
現状をかんがみるに、こころは僕に気持ちをむけてくれているし、桐子さんだって交際に賛成してくれているのだ。こちらの家族や友人たちも応援してくれているのである。
悪いことばかり考えていてもしかたない。そう思い、僕は自分に気合をいれなおした。
<第七章・了>