第百二十六話 九月四日(火)放課後 徹子の悩み 5
「おま、徹子じゃねえか! 仕事サボって、こんなとこでなに油売ってんだ」
「う、うるさいわねっ! あんたの知ったことじゃないでしょ!」
善郎は呆れたような口調で、徹子ちゃんは顔を真っ赤にかえて、ふたりして言いあいをはじめてしまった。僕と委員長は、すこしはなれた位置に移動し、遠巻きにふたりの様子を見物することにした。
いちおう、どちらも声を抑える努力はしているようだが、このぶんだと、場所をかえたほうがいいかもしれない。正直なところ、グラウンドなり体育館なり、広いところで思う存分やってくれといった感じである。
「冗談じゃねえや。おまえが来ないから、俺がひとりで司会からなにから、ぜんぶやらなきゃならなかったんだぞ」
「べつに、それでいいじゃない。どうせ、あんたがみんな決めちゃうんだから。わ、わたしなんかいなくたって」
どうやら、善郎も、僕や委員長とおなじく、文化祭実行委員に書類を提出しにきた帰りだったようだ。この口ぶりだと、徹子ちゃんは夕方のホームルームまえから、ずっと教室にもどっていなかったわけか。
さきほど、彼女が生徒会室の近くで泣いていたのは、無意識でも、善郎と合流したいという気持ちがあったからなのかもしれない。なんとなく、僕はそう思った。
「あのなぁ、おまえ副委員なんだから、もっと自覚もてって。けさだって、かってに早出して来ただろ? つきあわされた山崎の身にもなれよ。徹子のことが放っておけないって、心配してたんだぞ」
「なっ……ななな、なによ、なによなによなによぉ! ああ、あんたにそんなこと」
やれやれ。委員長にお説教をくらって、しょげ返っていたさっきまでの徹子ちゃんは、どこへ行ってしまったのやら。まったくもって、見事なまでの逆ギレっぷりである。
「廣井くん、あのふたりって、やっぱり……」
「たぶん……、ねえ」
軽くにぎりこんだ拳で口元を隠し、委員長が含み笑いをもらしている。
僕自身、男女の機微に精通しているわけではないが、ここまでに聞いたいくつかの情報と、現在、目のまえで展開されているこの状況を考えあわせれば『ある仮説』を思いつくのはそんなにむずかしいことではない。
いまのところ、それはただの仮説にすぎないが、おそらくはこんご、ほんのすこしのきっかけがあるだけで、真実になりかわってしまうのだろう。
ともあれ、いつまでも、こうしているわけにもいかないか。とりあえず、仲裁にはいることにしよう。
「やめやめ、ふたりとも」
「はい?」
徹子ちゃんと善郎が、そろってこちらをむいてきた。まるで、呼吸をあわせたかのように同時である。僕は、つい苦笑してしまった。大昔のカートゥーンに出てきた眉毛の太い猫と、穴ボコチーズが大好きなねずみのコンビを思い出してしまったのである。
ちなみに、猫はもちろん徹子ちゃんのほうだ。眉毛が太いという意味においても、押されてたじたじになっているという意味においても。
「今日のところは、喧嘩はやめて教室にもどりなよ。作業、のこってるんだろ? お化け屋敷だっけ?」
「あっ……。すみません、廣井先輩。ご迷惑をおかけしたようで。こいつ、うちのクラスのあたらしい委員なんすけど、すっげーわがままで困ってるんすよ」
照れたように、善郎が笑った。まるで、妹を謙遜して紹介するかのような態度である。なんというか、こいつも案外わかりやすい男だな。
「しってるよ。彼女は僕の幼なじみだからね」
「……え?」
見た感じ、善郎のほうは冷静そうなのでひとまず置いておくとして、僕は徹子ちゃんに向き直ることにした。彼女は自分のパートナーの様子を、決まり悪そうにちらちらとうかがっているところだった。
「ほら、徹子ちゃん。さっき、安倍さんにいわれたことを忘れたわけじゃないだろ? 早く教室にもどって、クラスのみんなに謝るんだ。もちろん、彼にもね」
「で、でも……いえ、その。わかりました」
うつむいて、目をふせると、徹子ちゃんはちいさく呟くように『ごめんなさい』と言った。
小声とはいえ、謝罪を受けたのがよほど意外だったらしい。善郎は、めずらしいものを見たというように、つかのま僕と徹子ちゃんの顔を見比べていた。
だが、すぐに気を取りなおしたというように咳払いをすると、別れの挨拶をしてきた。
「おほん。……じゃあ、あの、廣井先輩、安倍先輩も、今日はこのへんで」
すると、それにあわせたように、徹子ちゃんも頭をさげた。
「どうも、ありがとうございました」
そうして、ふたりはごく自然な感じで、ならんで階段をくだっていった。
つかのま、ぼんやりと彼らのうしろ姿を見送っていると、やがて、ちいさく『な、なあ。幼なじみってどういう』『公平さんは、兄の親友で』というような声が聞えてきた。
仲直りというわけでもなさそうだが、どうやら、僕の存在が会話のきっかけになってくれたようである。なにか、善郎のほうが変な誤解をしていそうな感じもしたが、まあ、悪いことにはならないだろう。
さて、いずれにしても、徹子ちゃんの問題は一段落ついたわけだ。ではそろそろ、こちらも教室にむかうとしようか。そう思い、僕は委員長に声をかけようと、となりに視線をおくってみた。
しかし、そこにはだれもいなかった。
あれ、委員長はどこだ?
相手を見失ってしまったことにあわててしまい、思わず、僕はあたりをきょろきょろと見回してしまった。
ところが、なんのことはない、彼女は階段ののぼりの何段めか、すなわち、さきほど座っていたあたりに、ふたたび腰を落ちつけていただけだった。
ただし、なぜかくつろいでいるという感じで、どう見ても、しばらくは立ちあがる気がなさそうな様子である。
「えっと、委員長?」
「ねえ、廣井くん。せっかくだから、すこしここでお話していかない?」
いって、委員長はぱちりと軽く片目をとじた。