第百二十二話 九月四日(火)放課後 徹子の悩み 1
放課後、僕は委員長とともに、生徒会室へとむかっていた。文化祭実行委員に、必要な書類を提出するためである。
「でも、まにあって、ほんとうによかったわ。一時はどうなることかと」
「ごめん、迷惑をかけちゃって」
鼻の頭をぽりぽりと掻きつつ、僕は本日なんどめかの謝罪をした。
昼休みに、三人でどんな話しあいをしたのかはわからないが、委員長の態度はごく自然なものだった。それは、こちらもおなじである。いくらこころが嫌がるといっても、それを理由に、友人との関係を変えてしまおうとまでは思わない。昨日、あすかにも言われたことだが、大切なのは、周囲のひとたちと良好な関係を築くことなのだ。けさ、幸たちに正直に話をしたのも、そのためである。
さて、ぶじ書類を提出した――じつは、生徒会には苦手な人間がふたりほどいるのだが、幸運なことに、そのどちらとも遭遇せずにすんだ――帰りのことである。廊下を歩いていると、委員長がふいに怪訝そうな顔をした。
「あら? あれ、錦織さんじゃない?」
「え?」
見ると、二十メートルほどむこうに、徹子ちゃんの姿があった。しかし、なにか様子がおかしい。うしろ姿でもはっきりとわかるほど、足どりがふらふらと頼りなさげである。
「廣井くん……」
「ああ、変だね。体調でも悪いのかな」
とりあえず、声をかけようと片手をあげかけたところで、なぜかよこから委員長に制された。と思ったら、すぐさま腕を引っぱられて、柱の陰に連れこまれた。
「ねえ、泣いてるんじゃないの? 彼女」
「それは」
こちらが小声で話しあっているあいだに、徹子ちゃんは廊下の途中で足を止めたようだ。どうやら、窓の外を眺めているらしいが、目のあたりをしきりとぬぐっているのが見える。
いったい、彼女はどうしてしまったのだろうかと思った。なにか、悩みでもあるのかな。しかし、けさの徹子ちゃんは、いつものようにゴーと仲よく喧嘩していたぐらいで、とくに変わったところはなかったような気がするのが。
「どうしよう、委員長」
「放っておくわけにもいかないし……。やっぱり声、かけましょうか」
意をけっして、近寄ることにした。
なんとなく、足音をたてないように、気をつけて進んでみた。距離にして、十メートル……五メートル。
そのあたりで、気配を察知したのか、徹子ちゃんが顔だけこちらにむけてきた。視線がぶつかりあった。
彼女の目は、真っ赤になっていた。頬も、涙で濡れているようだ。
徹子ちゃんは、引きつったような表情を浮かべると、そのまま、制服のスカートをひるがえして走りだした……えっ?
いや、ちょっとまて。
いきなりどうした、徹子ちゃん。
「追いかけて、廣井くん!」
「お……おうっ」
委員長の声に、僕もあわてて走りだした。
子供のころからの付き合いなのでよく知っているが、徹子ちゃんはあまり足が速くない。それにたいし、僕はなかば趣味として、日常的にジョギングをたしなんでおり、運動部ほどではないにせよ、走るのはわりと得意なのだ。
はたして、廊下の曲がり角で減速したところを、簡単につかまえることができた。
「……なんでまた、逃げようとしたの?」
責めるような口調にならないよう気を遣いながら、僕はたずねてみた。
徹子ちゃんは、だんまりを決めこんでいる。いちおう、息を弾ませてはいるが、苦しくてしゃべれないというわけではないだろう。言いにくいことなのだ。
「なにかあったの? わたしたちでよければ、話を聞くけど」
ようやく追いついてきた委員長が、徹子ちゃんに話しかけた。すると、まるでそれを合図にしたかのように、彼女はふたたび涙をこぼしはじめた。