第百二十話 九月四日(火)早朝 ベンチでの語らい 5
「廣井くーん、ココちゃーん。いるー?」
その声が聞えてきたのは、唇が触れあうまであと三センチ、否、二センチというところだった。
委員長の声である。僕は思わず『はうっ』とまぬけな声をあげ、あわててこころから顔を離した。そうしてすぐさま上半身だけで伸びあがると、あたりをきょろきょろと見回した。
「ふにゃ……え? あ、あれ? こころ、どうしてたの? ね、寝ちゃってた?」
気配で、こころが目を覚ましてしまった。まだすこし寝ぼけているのか、状況がよくつかめていないようである。
「あっ、いたいた。耀子ちゃん、こっちこっち」
校庭の反対側に、幸の姿が見えた。オペラグラスをかまえ、こちらを指さしてなにか言っている。つづいて、委員長もあらわれた。どうやら、僕たちを探しに来たらしい。
考えてみれば、あたりまえの話かと思った。
玄関まで来ていた人間が姿を消しているのである。僕が彼女らの立場だったとしても、探すだろう。
そんなていどのことすら思いつかなかったとは、やはり、朝から切羽つまっていたのかもしれない。しらず、僕は苦笑してしまった。
そうこうしているあいだにも、幸と委員長はならんでつかつかと近寄ってきた。
「こ・う・へ・い~? アタシ、たしかにあとから来いと言ったけどさぁ。サボってもいいなんて、ひとっことも言ってねぇぞぉ?」
「みんな集まってるのに……。これはいったいどういうことなの、ココちゃん?」
ふたりとも、怒っているというよりは呆れているというような表情だった。
「ごめん」
とりあえず、頭をさげてみた。
「あ、あの、その、ご、ごめんなしゃいです。ちょ、ちょっとだけ話したら戻ろうと思ってたんだけど、こころ、いつのまにか寝ちゃってたみたいで」
「寝てた? ……ふうん」
きらりと、委員長の眼鏡が光った気がした。
「ねえ、ココちゃん? もしかして、いままでずうっと廣井くんに抱きついて眠ってたのかしら?」
「え……ええっ? 安倍さん、なんでわかったの」
いきなり見破られ、僕はこころと顔を見あわせてしまった。
「なんでって……。廣井くんのシャツに、よだれの染みができてるし」
「うぁ、ほんとだ。公平、ココ、あんたらガッコでなにしてくれてるん?」
確認してみると、たしかにこちらの肩から胸のあたりの位置に、それらしい染みができていた。
「や、やだ……。ごめんね、こーへいしゃん」
すぐに、こころはハンカチを取り出すと、僕のシャツの染み部分をこすりはじめた。
――たぶん、よだれではなくて涙が落ちたあとだろうとは思ったが、指摘はしなかった。こころが泣いていたというような話をする雰囲気でもないのだ。
「とにかく、くわしいことはまたあとで。いまは、教室にもどりましょう。廣井くん、みんながんばってるんだから、しっかりしてもらわないと困るわ」
腕ぐみをしつつ、委員長がいった。
「面目ない、埋めあわせはするよ」
「申しわけないです……」
ふたたび、僕はこころといっしょに頭をさげた。
「埋めあわせねえ……。なにしてもらう? 耀子ちゃん」
「そうねえ。せっかくだから、クラス全員で話しあうことにしましょうか。楽しみだわあ」
幸と委員長が、くすくすと笑いあっている。その姿はかわいらしくも、どこかしらちいさな悪魔を連想させ、僕はどうか穏便にすみますようにと、神に祈ったのだった。