第百十九話 九月四日(火)早朝 ベンチでの語らい 4
「ん……」
ふいに、こころがなにごとか、むにゃむにゃとしゃべった。寝言だろうか。言葉が不明瞭だったので、いっていることはよくわからなかった。
じっと、彼女の寝顔を見つめてみた。
わが恋人ながら、じつにうつくしい顔である。人形のようにととのった面差しだが、表情にとぼしいわけでもない。いまも、眠りながら楽しそうに笑っている。
昨日のこころは、怖い顔をしていた。凛々しく引き締まったといえば聞こえはいいが、本気で怒った女はやはり恐ろしい。笑っている彼女のほうが、ずっとよかった。
「ちゃ……なの」
またしても、こころがなにか言ったようだ。唇が、そこだけ違う生き物のように動いている。やわらかそうだった。
キス、したいと思った。
こころとキスをしたことはまだない。交際をはじめてから、三週間ほどしかたっていないわけで、当然といえば当然である。もちろん、いまもそんなことをするのは早すぎる。
――ほんとうに、早いのかな?
なぜか、僕はそんな疑問を感じてしまった。
たとえば、ゴーと蛍子さんの進展具合はどうだったろう。たしか、付き合いはじめてから三ヶ月めぐらいだかには、ホテルに行くとか行かないとか言っていた気がする。
ホテルに行くぐらいなら、キスもそれ以前に済ませていてしかるべき……あれ?
えっ、三ヶ月って……。も、もしかすると、今年の年末ぐらいには、僕とこころもそういうふうになっているってことか?
いや、いやいやいや。待て、落ちつけ。そんなことが現実にありえるのか。冷静になれ。深呼吸をして、よく考えるのだ。
すう。はあ。……よし。それでは冷静に、現状の分析をしてみよう。
自分でいうのもなんだが、こころは僕を深く愛してくれていると思う。なので、吉日を選んでお願いすれば、こ、断らない気がする。
年末、つまり十二月の吉日というと、こころの誕生日が十一日だ。それと、二十四日にはクリスマスイブもある。ということは、どちらかの日に照準をしぼって事前に雰囲気を盛り上げていけば、あるいは……。
じゃない、違う。僕はアホか。なにをかってに変な計画を練っているのだ。そもそも、まだキスもしていないだろ。
ああ、そうだ。キスだ。半開きの唇から、こころの白い歯がのぞいている。ピンク色の舌も。
……して、いいのかな。
僕たちは、恋人同士である。一般的な定義において、それはキスをすることがふつうにありえる関係であるといえる。
そして、さらに付言するなら、僕の恋人になってくれたということは、こころも将来的に、キスやそれ以上のことがおこなわれるのをきちんと承知して、覚悟してくれているということを意味するはずだ。
「こーへいしゃん……」
いきなり、名前を呼ばれたような気がした。はっとして、こころの顔を見直したが、目を覚ましたというわけではなさそうである。
ふと、僕の脳裏に、桐子さんの『年齢相応の交際をしてほしい』という言葉がうかんできた。
しかし、年齢相応というのも、よくよく考えてみると曖昧な条件である。だいいち、僕たちぐらいの年で、異性とおとなの関係を結んだ経験のある人間は、いうほど少なくはないのではなかろうか。
うちのクラスにも、本人の自己申告を信用するかぎり、ゴーをはじめ、数人いる。高校生だからといって、そういうことをしちゃいけないだなんて、だれにも言えるわけが……。
わあ、違うちがう! だから、そっちじゃないってば!
やれやれ。落ちつけよ、僕。ひとときの劣情で、まちがいを犯すな。状況をよく考えろ。こころは眠っているのだ。意識のない女の唇をこっそり盗むなど、男のすることではない。
とくに、これは恋人同士になってからはじめてするキスなのだ。こころにとっても、思い出に残るものにしなければならないだろう。それには、ロマンチックにムードを盛り上げ、彼女にもその気になってもらう必要がある。
だけど、ロマンチックと一口にいっても、それってつまり、どんな感じなんだろうか。
まず、景色のいい場所だよな。このベンチみたいに。それから、ふたりきりになったあと、こんなふうに肩を抱くわけか。そうして、いまのように安らかな気持ちになったら、お互いに愛を告白しあい……。
「だいすき」
彼女の唇が、その形に動いたように、僕には見えた。
背筋に、痺れにも似た心地よい感覚が走りぬけていく。
いま、このとき以上に、はじめてのキスにふさわしい機会があるものか。
ごくりとひとつ、つばを飲みこむと、僕はこころの顔に、ゆっくりと自分の顔を寄せていった。