第百十六話 九月四日(火)早朝 ベンチでの語らい 1
「いまから、校庭にいかない? こころ。ベンチに座って、ゆっくり話を聞きたいんだ」
「えっ? でも、いいの? だって、これから……」
ようやく、こころが返事をしてくれた。といっても、声が夢見心地というか、やけにうっとりとした感じだった。
「よくはないさ。あとでみんなに怒られると思う。なにせ、副委員が率先してサボるんだもの」
あえて『サボる』という言いかたをしてみた。
「わかった……。こころも、いっしょに謝るね」
そういって、こころはいったん体をはなすと、ふと気づいた様子で地面に落ちていた通学鞄をひろいあげた。
ああ、なるほど。さっきのは、こころが鞄を落とした音だったのか。
こころは『やっちゃった』というようにぺろりと舌を出すと、軽く通学鞄の汚れを払うようなしぐさをし、それからあらためて僕の手を握りなおした。ついでという感じで、腕も絡めてきた。
僕たちは、そのまま寄り添って歩きはじめた。
朝の文化祭準備を、僕はこころとふたりでエスケープしようとしている。そのことに、抵抗はもちろん感じていた。
そもそも、文化祭まで充分な時間がないのである。だからみんな、がんばって早出をしてくれているのだ。なのに、よりによって副委員が恋人と語りあうためにサボろうなどと、どこをどう押してもありえない以外の感想が持てようはずがない。
それでなくても、僕は昨日、私用で早あがりをしているのである。埋めあわせをするのは当然として、そのうえでなにを言われたとしても、甘んじて受け入れるつもりだった。
正面玄関を通りすぎ、校舎のわきを回って校庭へとむかうと、すぐにグラウンドの様子が視界にはいってきた。文化祭準備期間ということで、運動部の朝錬などはおこなわれていない。ひとの姿もなく、あたりは静かなものだった。
あいかわらず、こころは笑顔で僕の腕にしがみついてきている。『腕を組む』のではなく『しがみついている』のだ。なんとなく、以前、あすかと歩いているときに、よくこんなふうになったのを思い出してしまった。
もっとも、あすかとこころでは、背の高さというか体のおおきさがまるで違うため、ぶら下がられているという感じにはならず、歩きにくさは自体は比較にならなかった。
――さて、わが三ノ杜学園においては、校庭とひとくちにいった場合、一般的な意味とはちがい、校舎とグラウンドにはさまれた部分の敷地のみをさすことが多い。
校庭には、池や菜園など、さまざまなものが並んでいるわけだが、いま僕たちがめざしているのは、外周の道路から見て奥側に位置する花壇である。わきに、腰を落ちつけるのにちょうどいいベンチが備えつけてあるのだ。学生には人気のある場所で、昼休みにはたいてい女子が、たまに男女のカップルが、弁当を広げている姿を見ることができた。
早い者勝ちであわただしいので、こころとそのベンチで弁当を食べようとしたことはない。だが、僕にとっては思い入れのある場所だった。
始業式の日に、そこで居眠りをしたのである。となりには幸がいて、僕を膝枕してくれた。 眠りに落ちる直前には、ボランティアをがんばったご褒美だといって、キスもしてくれた。
思えば、あれが幸とした最後のキスだった。
あの日、僕はこころと出会い、そしていま、こうして恋人同士という関係になっている。
未来のことなど、だれにも言えるはずはない。それでも、たとえ挨拶だとしても、もう幸とキスすることはないのだと、あらためて僕は思った。
花壇の周辺にも、人影はなかった。僕は相手にうながすと、ベンチに腰をおろすことにした。こころは座る際、あたりまえのようにこちらに体をあずけてきた。
すこし背中をまるめていて、ちょうどこちらの首のあたりに顔がくるように調節しているような姿勢だった。僕はこころの肩に腕を回し、しっかりと抱きすくめた。彼女は目をとじて、ただほほえみをうかべていた。
ほんとうに、しあわせそうな顔をしているように見える。しかし、僕はどうしても、その表情を、額面通りに受けとることができなかった。
さきほどは、すこし気が動転してしまったが、冷静に考え直せば、こころの態度はやはりおかしい。いつにない非常識なほどの愛情表現もそうだが、そもそも昨日、あれほど落ちこんでいたのである。一晩、寝て起きたらいきなり上機嫌というのは、さすがに不自然だった。
「……で?」
相手の髪を撫でながら、僕はつとめて優しい声をかけてみた。じっくり観察すると、こころはやつれているようだった。表情こそ安らかなもので、頬のあたりは、ほんのりと赤くなってもいるが、目のしたにはくっきりとクマができている。
「あのね。こころ、昨日は電話のあと、早めにベッドにはいったの。でも、目が冴えちゃって」
案の定、こころの話は、昨夜よく眠れなかったというところからはじまった。