第百十五話 九月四日(火)早朝 3
校門につくと、こころが、手さげの通学鞄を胸のあたりでかかえるようにして、たたずんでいた。どことなく、ぼんやりとしているような感じである。
「やあ、おはよう、こころ」
とりあえず、声をかけてみることにした。
「え? ……あ、おはよう、こーへいしゃん」
なにか考えごとでもしていたのだろうか。彼女はふいをつかれて驚いたというように、あわてた様子だった。
ふうむと、僕は思った。
こころは、まぶたがすこし腫れぼったくなっているようだ。瞳もうるんでいて、ほとんど涙目である。もしかしたら、彼女は昨夜、よく眠れていなかったのかもしれない。
じつは、あのあと、寝る直前に電話をしたのである。そして、こころはそのときにも謝罪の言葉を口にしてきたのだ。
彼女は、ひどく落ちこんだ声をしていて、いまにも泣き出しそうだった。あまりの悲痛さに、僕も貰い泣きしそうになり、電話口で『こんなことでこころを嫌いになったりしないから。絶対に、ほんとうだから』と必死に繰りかえしてしまったほどなのだ。
あんなふうに、自分を責めていたら、眠れなくもなるだろう。さぞ苦しかったのだろうな。ああ、かわいそうなこころ。これから、どう慰めてあげようか。
僕は慈しみの気持ちをこめて、最愛の恋人の顔をよく見つめなおしてみた。
……あれ?
なにか、違和感をおぼえた。
「堤さん、おはよう」
「おはようございます、こころさん」
みんなが、こころに挨拶をしている。それにたいし、彼女も笑顔で返事をしている。なにもなければ、ごくありふれた朝の風景のはずなのだが……。
「どうしたん、ココ? なんか、すごく楽しそうだけど」
怪訝そうに、幸が眉をひそめた。しかし、こころはただ白い歯をみせただけだった。
そう、つまり違和感とは、笑顔なのである。いつもどおり、否、むしろいつにもまして、緊張感のないとろけそうな表情なのだ。なんの屈託も感じられず、しあわせそのものというふうにすら見える。
はて、これはどうしたのだろう? 一晩たって、気持ちが落ちついたとでもいうのか? しかし、昨日、あんなに取り乱して、しかも辛そうにしていたのに?
疑問は消えないものの、この場で問いただすわけにもいかない。ひとまず、僕はこころとならんで歩くことにした。
ところが、またしてもおかしなことになってきた。
「おーい? 早くしないと、置いてくぞぉ?」
幸が、振りかえって声をかけてきた。
歩くのが、遅いのである。こころの歩調にあわせていたら、あっというまにみんなと五メートルばかりも離されてしまったのだ。そして、その原因になるのかよくわからないが、彼女はさきほどから、やけに熱っぽい眼差しを、こちらに向けてきていた。
頬など、薔薇色に上気しており、なんというか、恋する乙女の顔といった感じで、僕はつい照れてしまった。
「えっと……。ほ、ほら、こころ。みんな行っちゃうから、急ごう」
いつまでも遅れているわけにもいかないので、手を引っぱってみることにした。
すると、なぜか指がからまってきた。おやと思う暇もなく『恋人同士がする手の繋ぎかた』が完成してしまった。ふたりきりのときならともかく、みんなが見ている目のまえであるのにもかかわらずだ。
「あの、こころ?」
「えへへ……」
あいかわらず、ふにゃふにゃとした締まらない表情である。
はっと気づいて、目を校舎のほうにむけると、幸と徹子ちゃんがなにごとか、ひそひそと話しあっているのが見えた。ちいさく『ずいぶんと話が』『しょせんは痴話喧嘩』などという声が聞こえてくる。ひとりゴーだけが、わけがわからないといった様子で首をかしげていた。
「おほん。……あー、アタシたち、さきに行くから」
「ですね。おふたりは、あとから来てください、ごゆっくり。……タケくん、行きましょ」
徹子ちゃんが、兄の腕を引き寄せるようにしてうながすと、ゴーも『あ? ああ』などと言いながら歩きはじめた。
みんながさっさと行ってしまうのを、僕とこころは立ち止まって、ただぼんやりと見送っていた。
そうして、全員が校舎にはいったあたりで、どさりという物音がした。
ごく近い位置である。そんなに重くない物体が、地面に落ちた音といった感じだろうか。
なかば、無意識のうちに音の正体を確認しようとして、僕は顔を音源の方向――こころがいるあたり――にむけた。その瞬間だった。
「な……えっ、こ、こころっ?」
いきなり、こころが僕に抱きついてきた。
それは、どちらかといえば、飛びついてくるという感じの抱きつきかただった。とっさに、僕はこころの背中に腕をまわして受けとめると、あたりの様子をうかがった。
今日は文化祭準備期間ということで、そこらには早出をしている学生もいるはずだが、いまのところはだれもいなさそう……なのか? いや、やっぱりいる。中等部とおぼしき女子がひとり、ちょうど校門からなかにはいってきた。僕と目があうと、彼女はうつむいて、足早によこを通り抜けていった。
じわりと、包みこまれるような甘い匂いを感じる。
夏用の薄い制服と、おなじくワンピースの布を通り抜けて、体の熱とやわらかさが伝わってきている。こころは、かなり力いっぱい僕に抱きついてきているようだ。
「こんな……場所で、どうしたの? こころ」
聞いてもなにも答えず、かわりに、こころはよく懐いた子猫のように、うれしそうに僕の首から肩のあたりに頬ずりをしてきた。
正式に交際をはじめてから、まだ三週間ほどしかたっていない。もっとも、ほんのそれだけの期間であっても、抱きしめたり、ついでに頭をなでたりする機会は、そんなにすくなくはなかった。そうされるのが、こころは嬉しいらしく、とくにふたりきりのときなどは、おねだりされたりされることもあったからだ。
ただし、それはあくまでもデート中の話であり、これまで学校でそのようなことをしたことはない。いつにない彼女の様子に、僕はどぎまぎしてしまった。
耳もとで、こころの生暖かい息遣いを感じる。背が高くて、抱きごたえのある体。いかにも女らしいその感触に、僕はたまらない気持ちになった。
もっと、こころに触っていたい。ずっとこうして抱きしめていたい。ともすれば、そんな衝動に突き動かされそうになる。
待て。とにかく、落ちつけ。僕は自分に言いきかせた。そうして、呼吸をととのえて思案をめぐらした。
さきほどから感じていた違和感と、その理由。解消するにはどうすればいいか。
決心を固めるのに、長い時間は必要なかった。