第百十四話 九月四日(火)早朝 2
「問題って、もしかして仲直りできなかったんですか? 公平さん」
「うーん、どちらかというと、その逆になるんだけど……」
しばらくのあいだ、激した様子でまくしたてていたこころだったが、やがて、しゃべりすぎて呼吸がつづかなくなったとでもいうように、きゅうになにも言わなくなった。ぜいぜいと、肩で息をしはじめたのである。僕はといえば、ようやく彼女が黙ってくれたので、このうちにと、平謝りにあやまることにした。
いま考えると、そのとき、すでに異変ははじまっていた。
「単純に、怒ったあとのフォローじゃなくてか?」
「ちがうよ、ゴー。とにかく、ひどい怯えかただったんだ」
事態をひとことで表現するなら『こころが言い過ぎたといって僕に詫びてきた』というだけのことになる。しかし、実際には、そのような生易しい状況ではなかった。
気がつくと、こころの顔色が紙のように真っ白になっていたのである。そうして、自分の体を抱きかかえるようにして震えはじめたのだ。
相手のあまりの異常な様子に、僕はなにが起こったのかわからず、どうしたのかとあわてて尋ねた。こころは早口で、ごめんなさい、言い過ぎた、自分を嫌いにならないで欲しいというようなことをいった。
彼女はうつむいて、幸や委員長は自分にとっても友だちで、徹子ちゃんも僕の大切な幼なじみのひとりなのに、なんてひどい言葉を口にしてしまったのだろうとつぶやいた。それから、顔をあげてこちらを見つめると、ほとんど口走るようにして、ごめんなさい、ごめんなさいと、何度も許しを請うてきた。
こころの目から、大粒の涙がとめどなくこぼれ、頬からあごを伝い、しずくが地面に落ちた。
自分を責めているとしかいいようのない彼女の姿に、僕は打ちのめされたような気分になった。
謝らなければならないのは、僕のほうなのに。こころが感情的な言葉を吐いてしまったのは、こちらが誤解されるような行動をとったからではないか。なぜ、彼女が傷つかなければならないのだ。
守るなどと、口先では言っていたくせに、僕はなにをやっていたのだろう。
その場で、僕はこころを強く抱きしめた。そうすることで、すこしでも彼女を安心させられたらと思った。
やがて、抱きあっているうちに、こころの携帯に電話がかかってきた。桐子さんからだった。娘の帰りが自分より遅いので、心配になったようだ。僕は、彼女を自宅まで送っていくことにした。
マンションにつくと、僕たちを待っていたのだろう、玄関口を出たところに桐子さんの姿があった。相手はこちらの姿を認めると、さっと顔色を変えた。こころが、見てすぐにそれとわかるほど、悄然とした様子をしていたからだった。
しかし、桐子さんはすぐに表情をもとに戻してみせると『公平くんもあがっていきなさい。夕食をご馳走するから』といってきた。
さすがに、好意だけで招かれているのではないことはわかりきっていたので、形式的な遠慮はせずに、言われるままリビングに迎え入れてもらった。料理はすでに用意されていて、待たされることはなかった。こころの帰りが遅かったこともあり、桐子さんがさきに自分で作っていたようだった。
食事をとりながら、僕は当然のこととして、なにがあったのかをひととおり説明していった。はじめ、厳しい表情をうかべていた桐子さんだったが、聞いているあいだにそれが困惑したような感じになっていき、ついには呆れ顔に変化してしまった。彼女が『ようするに、痴話喧嘩ってことね』といって、苦笑しつつ話をまとめると、こころは恥ずかしそうに頬を朱に染めてうつむいた。
「……えっと、わたしたちは、つまりどうすればいいんですか? こんご、おふたりとは距離をとったほうが?」
こちらの話に一段落ついたところで、徹子ちゃんがとまどったように質問してきた。
あえて、桐子さんが出てきてからの部分は、多少なりと面白おかしげに語ってみたのだが、やはりごまかしきれなかったらしい。見た感じ、徹子ちゃんは、いくらか気を悪くしているようである。
「そんなことは……。できれば、いままでどおりに接してほしいんだ。さっきもいったけど、今回のことは僕が疑われるようなことをしたのが原因だし、嫉妬うんぬんは、気持ちが昂ぶっていたせいで口から出ちゃったってだけで、こころも絶対、本気じゃなかったはずだよ」
最後の『本気じゃなかった』というところを強調すると、徹子ちゃんは小首をかしげながらも、いちおうという感じでうなずいてくれた。
「アタシも、あとでココと話してみるよ。ちょっと、ジョルノでからかい過ぎたっていうか、デリカシーなかったかもだから、そこらへんフォローしとくわ」
神妙な口調で、幸がいった。
昨日、幸たちが、ジョルノでどんなことを話したのかについては、そこまでくわしく把握しているわけではない。
ただ、こころが転校してくるまえの話題がメインだったそうだから、そのあたりが彼女のストレスになったのではという気はした。
あとでこちらからも、当時がどんな感じだったのか、それこそ幸が僕の初恋のひとだったことも含めて、正直に話しておいたほうがいいのかもしれないと思った。
――と、そのときだった。
「まあ、こと嫉妬にかんしてなら、徹子に勝てる女なんてそういないからな。堤さんぐらいなら、かわいいもんさ」
唐突に、ゴーがそんなことを言ってきた。
いかにもな、話題の転換のしかたである。たぶん、場の雰囲気を変えるための、冗談のつもりなのだろう。
「は?」
いきなり名前を出され、徹子ちゃんは鳩が豆鉄砲を食らったような表情をうかべている。
「おれがホタルとつきあいはじめたころなんか、ひどかったんだぜ? デートにはついてこようとするし、電話の邪魔はしようとするし、ほかにも……」
「た、タケくんっ? なにを」
徹子ちゃんが、相手の口をふさごうと手を伸ばした。それをゴーはひらりとかわし、そのままふたりは僕たちの周囲で追いかけっこをしはじめた。
「ちょっと! タケくん、待ちなさい」
「へっへーい。やなこったーい」
幸が噴きだした。僕も、小学生のような兄妹喧嘩をするふたりの姿に、ほほえましい気分になった。
なにより、胸につかえていたことを口に出したせいか、ふさいだ気持ちがすっかりと消えてしまっている。
ことがことだけに、もっと嫌な顔をされることも覚悟していたのだが、どうやら、そこまで悪い状況にはなっていないようである。僕はほっと胸をなでおろした。