第百十二話 九月三日(月)夜
「そういえばさ、公平。例のカップルコンテストって、結局どうなったの?」
その話題を、あすかがふってきたのは、彼女が現れてからおよそ一時間二十分ばかりたったころだった。
日没はとうにすぎており、あたりはすっかり暗くなってきている。道路わきの街灯も、すでに仕事をはじめているようだ。
「うちのクラスからは、参加者なしだったよ。やっぱり、恥ずかしいっていう子が多かったみたい。強制できることでもないし、しかたないよね」
カップルコンテストとは、毎年、文化祭のしめくくり――正確には後夜祭になるが――におこなわれる恒例行事である。
概要は、参加カップルが壇上で自己アピールをして、司会にいじられたりしながら会場の学生たちを楽しませ、しかるのち、観客の投票でグランプリを決めるというものだ。
グランプリをとったカップルは、お立ち台のうえでお姫さま抱っこを披露する栄誉とともに、特製ケーキとドリンクを贈られる。
これらは、ただのプレゼントではなく、それぞれケーキは食べさせあいっこ、ドリンクはハート型に形成されたストローで、ふたりして視線をあわせながら飲むといった優勝パフォーマンスに使われることになっていた。
なお、参加資格のなかに、交際暦三ヶ月以上という項目があるため、先月からつきあいはじめたばかりの僕とこころには、エントリーする権利はなかった。
「幸さんと、いっしょに出たら?」
なぜか、あすかはとてもうれしそうだった。
「いや、僕は幸とはつきあってないし」
「わかんないよぉ? たとえば、出場予定だったカップルが、直前で別れちゃうかもしれないじゃない。んで、人数がすくないからって、公平が代わりに出なくちゃならなくなるの。そしたら、急場の相手役として、幸さんを指名できるんだよ?」
両手をあわせ、なかばうっとりとしたような表情で、あすかは言葉をつづけた。
「ま、その場じゃ形だけのカップルだけどさ。あとで、正式に告白しなおしちゃえば」
ひとりで盛りあがっている様子のあすかを、僕はただ、眺めていることしかできなかった。
いったい、この子はなにをいっているのだろう。ぼんやりと、そう思っただけである。
もちろん、コンテストに出られるなら、それはそれで楽しいだろうとは思う。正直なところ、興味だってある。
しかし、他のカップルが直前に別れるというのは、さすがに妄想がたくましすぎるのではないか。また、よりにもよって、僕が代理として選ばれるというのも、おかしな話であるとしかいいようがない。
「そんなこと、ありえないだろ」
「だから、わかんないんだってば。運命ってのはね、ほんのちょっとしたきっかけで変わっていっちゃうものなんだから。……あ、でも、委員長さんを指名するのもいいかもね。それで、公平がしあわせになれるんだったら」
百歩ゆずって、仮にそういう事態になったとしても、パートナーに幸や委員長を選ぶことはない。僕には、すでにこころという恋人がいる。
だが、相手の言葉を聞いているうちに、僕はだんだんと悲しい気持ちになってきた。
妄想ではない。これは、願望なのだ。ようするに、あすかは僕に、一刻もはやく女とつきあって欲しくて、こういうことを言ってきているのである。
そもそも、あすかが成仏するための前提条件がそうだったではないか。どちらかといえば、これはごくあたりまえの反応であるといっていい。
むしろ、僕のほうが、なにをやっているのかといいたくなるぐらいだ。
たしかに、あすかはこころを嫌っている。しかし、それで話しづらいからといって、この子の成仏を先延ばしにしていてもいいのか? 彼女の魂を、こんな中途半端な状態にとどめておいて、ほんとうになにも問題ないといえるのか?
否。もう、隠すべきではない。あすかは嫌がるだろうが、とにかく言ってしまわなければダメだ。
決心すると、僕は片手をあげて、あすかの発言を制した。
「えっと……。あすか、その、落ちついて聞いてほしいんだけど」
「ほえ?」
話の腰をおられ、あすかが怪訝そうに小首をかしげている。さあ、どう切り出したものか。ほんの数瞬のあいだ、僕は言葉を探すのに迷った。
――ちょうど、そのときだった。
ふいに、あすかの表情が一変した。あるいは、凍りついたというのが適切だったかもしれない。
ぽかんと口をあけたまま、彼女は僕の背後のどこか一点を凝視しているようだった。
おや、どうしたのだろう。不審に思い、僕は相手の視線を追いかける形で、うしろを振り返ってみた。
目に入ったのは、公園の裏口だった。そこに、ひとりの人影があった。背が高く、髪のながい女。こちらが座っているベンチから、いくらかの距離はあったものの、それがだれなのか、僕にはすぐにわかった。
こころ。僕の恋人が、そこにいた。
「ウソ……。なんで」
肩ごしに、あすかのつぶやきが聞こえてきた。
状況がつかめなかったのは、僕も同様だった。
時刻は、すでに夜の七時をまわっている。さすがに、文化祭準備の居残りは終わっている時間帯だ。となれば、これは帰宅途中の寄り道……商店街に、買い物に来たとかかな?
はて? だけど、食料をはじめとする必要な品は、昨日の買出しのときに補充しておいたはずだ。……うーん? 買い忘れたものなんて、あったっけか?
一歩、また一歩。僕とあすかの腰かけるベンチにむかって、こころが足早に歩みよってきている。
どこか、違和感があった。こころの様子がおかしい。はっきりどのあたりがとはいえないのだが、とにかくみょうな雰囲気なのだ。
「こーへい、しゃん」
声も、変だと思った。
「ちがうよね? 妹さん、とかじゃないよね?」
舌ったらずなのはあいかわらずだが、口調そのものが、いつものふわふわとしたそれとは明らかにことなっているのである。まるで、寒さに耐えかねて震えているかのような感じだった。
「ねえ、こーへいしゃんに、い、妹さんなんかいなかったよね? やっぱり、まえに見たのとおなじだった。あれは、あのときに見かけたのは」
いもうと? ……ああ、そうか、こころには、この子の姿が見えているんだな。なるほど、ということは、いつかの噂は、あすかのことでまちがいなかったわけか。
凛とした表情で、こころが僕を見つめている。
ほんとうに、綺麗な顔だと思った。なぜか、表情にふだんの柔和さは微塵も感じられないが、見とれてしまうほどのうつくしさである。
凄絶な美貌、とでも形容するのがいいのかもしれない。まるで怒っているかのような表情で、……えっ、怒る?
怒るって、なにを?
そこまで考えて、ようやく気づいた。いまのこの状況。こころにとっては、自分の恋人が、だれかしらない女と密会をしていたということであり……。
僕は愕然とした。
「まって、こころ。この子は」
「離れて!」
明確に、怒気をはらんだ声だった。ふだんのこころからは、想像もつかないような厳しい声音に、僕は思わずベンチから腰を浮かせてしまった。そうして、そのまま完全に立ち上がったところで、いまのは、あすかにたいして向けられた言葉だったのかもしれないと思った。
だれかが、うしろから、僕の手を引っぱってきている。冷たい感触だった。こころが、もう目のまえまで来ているというのに。
「手を」
頭だけで振り返り、僕は相手のほうを見やった。泣き出しそうな顔で、あすかは怯える子供のように、いやいやと首を横にふっている。
「あすか、手を離して。こころが誤解する」
「いいかげんにしてよ! このひとは、こころの恋人だよっ」
いきなり、こころが僕とあすかのあいだに割ってはいってきた。そうして、相手の手をむりやり引き剥がそうとしてきた。つかのま、揉みあいになった。
「ち、ちが、落ちついて、こころ、べつにやましいことは、なにも」
「ひぃ! 触らないで」
悲鳴じみた声とともに、あすかがやっと僕の手を解放してくれた。
「おい? やめるんだ、こころ」
即座に、僕はこころをうしろから抱きすくめた。あすかに、つかみかかろうとしているように見えたからだ。事実、彼女はまだ相手の手を……。
「あ、あれ?」
いつのまにか、あすかはいなくなっていた。ひとり、こころだけが、空中でなにかをつかんだままの姿勢で固まっている。
「なん……で」
ゆっくりと、こころの全身から力が抜けはじめた。やがて、僕が支えていなかったら、その場でへたりこんでいるのではと思えるほどになった。
「いないよ? こーへいしゃん、ねえ、なんで? いまの子、どこにいっちゃったの?」
緩慢な動作で、こころが僕を見あげてきた。
「聞いて、こころ。信じられないかもしれないけど……。その、彼女は生きている人間じゃないんだ。幽霊なんだよ」
ひどく虚ろな表情を、こころはうかべていた。ややもすると、目の焦点があっていないのではと思えるほどの、呆然としたような顔。そのなかで、濡れて光る頬だけが、彼女の感情を如実にあらわしているようだった。
<第六章・了>