第百七話 九月二日(日)夜~三日(月)早朝
一時間ほどのんびりと談笑して、みんなで台所の片付けなどもすませてしまうと、もうやることはなくなっていた。
「なあ、そろそろお開きにしとかない? このままくっちゃべってても、キリがなさそうだしさ」
「うーん、そうね。じゃあ、うさっちもこういってることだし、解散して、あした以降の英気をやしなうことにしましょうか。……ココちゃん。今日はありがとうね」
帰路は男子のつとめということで、僕がふたりを、委員長は途中まで、幸は家まで、それぞれ送っていくことにした。
桐子さんからメールがとどいたのは、その日の夜、自室でいつものようにこころと電話での会話を楽しんだ直後のことである。
はて、どうしたのだろう。なにか用事でもあるのかな。そう思い、さっそく開いて文面を確認してみると、その内容は思いもよらないものだった。ぜんぶ読みおえたあと、僕は長いため息をつき、しばしのあいだ考えに沈みこんでしまった。
はたして、これはいったいどう解釈するべきなのだろうか。桐子さんはこころに、クッキーをつくってクラスメイトにふるまうよう勧めた覚えがないというのである。それだけでなく、始業式でのゴスロリ服についても、あとで担任の嵐山に話を聞くまで、まったく把握していなかったようなのだ。
あの子が小学生ぐらいのときから、そういうことがよくあったと、メールには書かれていた。どうやら、こころはむかしから、母親にいわれたとウソをついては、かなり大胆な行動――奇行というほど、おおげさなものではないにせよ――を繰りかえしていたということらしい。
いままで、僕はこころがお母さんである桐子さんのことが大好きで、いうことをなんでもすなおに聞くのだとばかり考えていた。しかし、ここに書いてあることが事実だとすると、その認識はまちがっていたということになる。
まったくもって、意味のわからない話だと思った。
なぜ、こころがそんなふしぎな行動をとっているのかという部分もそうだし、桐子さんの対応も、どこかしらずれているような感じがする。
というのは、メールに『あの子に直接といただすのもどうかと思うし』と書いてあったからである。そのほかにも、桐子さんからのこころにたいする配慮が、文章のそこかしこからにじみ出てくるようだったのだ。
――否。いま、配慮という言葉をつかったが、それは適切ではないのかもしれない。『配慮』ではなく、これはあきらかに『遠慮』である。親子なのに、なぜこのような遠慮をしているのか。
以前、立花さんが堤家の家族関係について『仲はいいけど、どこかよそよそしいところがある』といっていたのを思い出してしまった。
もっとも、よそよそしいのはたしかにそのとおりなのだが、僕が立花さんから聞いて想像していたのとは、かなり様子が違っている気もした。
てっきり、気弱なこころが、ふだん家にいる時間のすくない母親にたいして、うまくコミュニケーションをとれていないのだとばかり思っていたのに、これではまるで、桐子さんが娘になにか強い負い目を感じていて、言うべきことが満足にいえていないかのようではないか。
用件自体は、こんご、こころが変わったことをしたら、すぐに自分に知らせてほしいというものだった。
告げ口のようで、はっきりいって気分が悪かった。また、親子の問題に、いくら娘の交際相手とはいえ、他者が介在するのはどうかというところもある。だから、僕は断りのメールを送ることにした。補足として、こころもまじえて話すとか、すくなくともコソコソしない形でなら、できることはしますとも添えておいた。
相手から、返事のメールがきたのは、およそ三十分ごだった。申しわけないという謝罪の言葉とともに、娘と末永く仲良くしてやってほしいとも書かれていた。それについては、僕にも否やはない。『こちらも、そう願っています』と返信しておいた。
メールのやりとりにひと区切りがついたところで、僕はベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめてみた。
母親にいわれたとウソをつき、おかしな行動を繰りかえす娘。そして、なぜか娘に遠慮して、理由を問いただすことすらできない母親。
予備知識がなければ、たんにふたりがそういう風変わりな性格の親子であるというだけのことにしかならない。だが、僕は立花さんから、ある『可能性』について、聞いてしまっている。
虐待。こころは幼少期に、おとなの男から激しい暴力をうけた可能性があり、そのことが親子の関係にもなんらかの影響をおよぼしているのではないかと、どうしても考えてしまうのだ。
僕は、こころのためになにができるのだろう。どうすれば、傷つけずにせっすることができるのだろう。
頭のなかが、まとまらなくなってきた。だれかがこころにひどいことをしたのだと思うと、手足が冷えて、震えがとまらなくなる。
考えるのに疲れ果て、いつしか、僕はそのまま眠ってしまっていた。
翌朝、あまり目覚めはよくなかったが、ひとまず気持ちを切り替えることにした。あれこれ悩んでみても、いまの僕にできるのは、こころの恋人として、誠実に交際することだけなのだ。
早々に身支度をととのえ、朝食をすませると、家を出て登校時の待ちあわせ場所であるコンビニにむかった。文化祭準備のため、今日も早出である。
食品関係の模擬店を出す以上、できるだけ早期にメニューを決定し、保健所に提出する資料を作成しなければならない。一時間めがはじまるまえに、クラス全員でそのための話しあいをすることになっていたのだ。
コンビニのまえには、ひさしぶりに、いつものメンバーがそろっていた。おなじクラスの幸やゴーはいいとして、僕たちの早出とは関係ないはずの徹子ちゃんもいっしょである。
徹子ちゃんは、学級委員代理として、転校してしまったという元副委員の友だちのぶんまでがんばるつもりらしい。早い時間に登校するのも、その一環であるとのことだった。
校門のところで、こころとも合流した。
「おはよ、こーへいしゃん……えっ、どうしたの? 顔色がすごく悪いよ」
「いやあ、昨日ちょっと夜更かししちゃってさ」
しらず、僕は苦笑してしまっていた。じつは、朝から母さんや幸、徹子ちゃんにも、おなじようなことを言われていたのである。恋人のことを気にするのは当然としても、それで自分が体調をくずし、周囲の人間、とりわけこころを心配させてしまうようでは、本末転倒以外のなにものでもない。
教室につくと、委員長がクラスメイトたちからメニュー案を聞いてまわっているところだった。荷物を席におき、僕もすぐに手伝いにはいることにした。案をあつめ、メモをとり、それらを黒板に書きうつしていく。
菓子やケーキの方向ばかり考えていたが、見た感じ、軽食を主体にとの意見もそれなりにあるようだ。ただし、予算やそのほかの事情とのかねあいから、実現がむずかしそうな案もかなり多かった。
ひととおり、案を板書しおえたところで、委員長が黒板のまえにたった。
「ええ、たくさんメニューを考えてきてもらったわけですが、調理スペースや器具、電力などの関係で、すべてを出すというわけにはいきません。候補を絞りこみたいと思いますので、賛成のほうに挙手をお願いします。まず、お菓子と軽食、どちらも両方がいいというひと。……はい、つぎ、片方だけでいいと思うひと」
集計の結果、僅差で片方だけを売ることになった。つづいて、菓子と軽食についてもおなじように決をとり、メニューは前者だけということになった。
さらに、こまかい項目でも多数決を繰りかえしていった。残念ながら、幸の特製ケーキは没になった。炊飯器とホットプレート、どちらを使うかの決で、後者が選ばれてしまったのである。ただし、ふつうのホットケーキはメニューに入ることになった。
結局、メニューは、こころのパフェと委員長のスイートポテトを含む六品目ということに決まった。なお、いうまでもないことだが、喫茶店なので、コーヒーや紅茶、ジュース類などは別枠である。そちらについては、とくに凝ったものを出すというような案はなかった。
ともあれ、これで大筋は定まったわけだ。あとは方針にそって、実地に準備をはじめるだけである。急いで決めたので、穴が見つかることもあるだろうが、そこは柔軟に対処していけばいい。
よし。僕は自分自身に気合をいれた。