第百五話 九月二日(日)午前 2
待ちあわせ場所は、商店街の入り口である。こころと委員長は、さきに来ていたようだ。
「おいっす。待ったぁ?」
「ううん、わたしたちも、いま来たところだよ」
自然に、幸が僕の傍らから離れた。かわりに、こころがとなりに移動してきた。
「メニューのことなんだけど、こころ、焼き菓子をメインにするのが無難なんじゃないかなって思うの。作り置きもできるし」
「焼き菓子っていうと、クッキーとか、そんな感じの?」
こころは昨年、まえの学校の文化祭で、クレープ屋の模擬店に参加していたらしい。僕も委員長も、食品関係の出し物にはたずさわったことがなかったので、勝手がわからないところがある。経験者の意見は貴重だった。
ともあれ、材料の買出しである。目的地は、最寄りのスーパーだった。ついてみると、日曜ということでか、客の数が多い。ひとでごった返すという感じで、店員の呼びこみも気合のはいったものである。
なにか催しものでもしているのか、鉦を鳴らす音が聞こえてきた。
ひとまず地下の食品売り場におりると、みんなで手分けして、めぼしいものをどんどんと買い物かごに放りこんでいった。いつもの堤家の食料品と、このメンバーでの昼食ぶんも加えたので、かなりの量である。
会計をすませ、店を出るころには、僕の両手は荷物でいっぱいになっていた。
「あ、あの、こーへいしゃん? 缶詰だけでも持とう?」
「はっはっは。なあに、このていど。軽いかるい」
軽いはずがなかった。腕の筋肉が悲鳴をあげている。だが、僕は男だ。恋人の目のまえで、非力なところなど見せられはしない。
「愛ですねえ……」
うしろから、委員長の呟きが聞こえてきた。どこか、ため息に似ていた。
玉のような汗にまみれつつ、えっちらおっちらと荷物を運んでいるうちに、ようやく会場であるこころのマンションにたどりついた。部屋玄関の呼び鈴をおすと、桐子さんが出迎えてくれた。
「あらあら、すごい荷物。公平くん、お疲れさま」
三週間ぶりに会った桐子さんは、ずいぶんと元気そうだった。まえのときは、目のしたにクマができていたこともあり、いかにも疲れているというふうだったのだが、いまはそれもない。
こうして改めてみると、やはり彼女はうつくしいひとだと思う。こころよりかなり小柄ではあるが、顔がよく似ていた。
「うちのぶんも買ってきてくれたんだ……。いつも、ほんとうにありがとうね」
上機嫌な様子で、桐子さんがタオルと、なぜか男ものの下着類を持って来てくれた。
「汗をかいたままじゃ、いくら夏でも風邪をひくわよ。お風呂場はあっちだから、シャワーを浴びていらっしゃいな」
「は、はい、その、それではお借りします」
日常的に、この場所でこころが体を、いや、深く考えるのはよそう。
ふう、やれやれ。
あまり風呂場に長居するわけにもいかないので、汗を流したらさっさと戻ることにした。タオルで髪をぬぐってから台所にむかうと、ちょうど、みんなが昼食の準備にとりかかろうとしているところだった。
それにしても、じつに広い台所である。
道具も、よく手入れされているようだ。包丁からして、種類がたくさんある。細長いもの、四角いもの、三角形のもの、それぞれ用途におうじて使い分けるのだという。
四角いのが中華包丁というのだけは、僕も知っていたが、それ以外のものについてはよくわからなかった。
「ごめん、アタシ、料理はダメなんだ」
「うさっちはしかたないよね。こっちはふたりいれば充分だから、とりあえず廣井くんと待ってて」
幸は、ほとんど料理ができない。といっても、本来は苦手なわけではなかった。
最近は、まだしも安定してきているが、幸はもともと体が虚弱で、かつては倒れたりすることも多かったのである。それでいちど、鍋に火をかけたまま意識をうしなってしまったことがあったのだ。中等部のときのことである。
そのときは、大事にはいたらなかったものの、鍋が使いものにならなくなった。つぎにおなじようなことが起きたとき、そのていどの被害ですむとは限らないということで、こんご火と熱い油をつかう料理は禁止ということになったのである。
いちおう、電子レンジをつかう料理にかんしてだけは、禁止されていないのだが、この場では腕のふるいようもなかった。
ちなみに、僕自身は正真正銘、料理がからっきしである。家庭科で習ったことがあるはずなのに、なにをやったのかすら覚えていないほどだ。
まあ、リンゴの皮むきぐらいならできなくもないが、そんなのは料理とはいえないだろう。
さて、昼食を待つまでのあいだ、僕と幸はリビングでくつろがせてもらうことになった。桐子さんもまじえて、三人でのんびり雑談をするという流れになった。
「じゃあ、ほんとにいつも、ココが全部つくってるんですか?」
「ふふ、わたしが台所にはいると、追い出そうとしてきたりするのよ」
笑顔で、桐子さんは家でのこころの様子について、聞かせてくれた。
なんでも、もともと、こころの料理は桐子さんが教えたものなのだそうだが、中学生のころには完全に腕が逆転してしまっていたらしい。あの磨きあげられた調理器具も、すべて彼女がひとりで手入れしているようだ。
「でも、うれしいかな。公平くんみたいに、まじめな彼氏を見つけてきてくれて。あの子、ちょっと変わったところがあるし、男の子が苦手みたいだって聞いてたから、正直、心配してたの」
「彼女は素敵なひとですよ。つきあってもらえて、ほんとうにしあわせだと思ってます」
偽りのない気持ちなので、僕は胸をはってそう答えた。桐子さんが、ほほえみをうかべながら、紅茶のカップをくちびるに寄せている。
「……ねえ、あの子、ふだん学校でどんな感じなのかな」
そんなことを、桐子さんが言い出したのは、家での話題が一段落ついたあとのことだった。
「恥ずかしながら、わたし、仕事のいそがしさにかまけて、最近あんまりあの子と話せてないの。それでなくても、学校であったこととか、聞いても教えてくれないし」
思わず、僕は幸と顔を見あわせてしまった。
「ちゃんとクラスに溶けこんでますよ、ココは。アタシたち以外にも、何人も友だちつくってますし」
「僕から見ても、たしかに男子とはそんなに話せてませんけど、女子とはふつうに接しているように思えますね。やっぱり、あのクッキーが効いたんじゃないかな」
そうそう、あれはおいしかったよねと、幸が相槌をうってくれた。
「クッキー?」
きょとんとしたように、桐子さんが小首をかしげた。
「ほら、四月だか五月だかの話ですよ。桐子さんがこころさんに、クラスメイトにふるまうように勧めたっていう。あれで、みんなとの距離が、ぐっとちぢまったんだと思います」
「えっ、……ああ」
自分が勧めたおかげでというところに照れているのか、桐子さんはすこしとまどったような表情を浮かべていた。
「なんていうか、こころさんって桐子さんのことが大好きなんですよね。始業式のときのゴスロリ服もそうですけど、お母さんに言われて、すなおにそのとおりにしたっていうのが多いんです。学校でのできごとを話したがらないっていうのも、単純に照れて、恥ずかしがっているからなんじゃないでしょうか」
桐子さんが、だまって紅茶のカップをかたむけている。……あれ? おかしいな。ついさきほどまで、彼女はずっと楽しそうに笑っていたはずなのに、いまはあきらかに沈んだ様子だぞ。
もしかして、なにか怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。だけど、どこがいけなかったのだろう。
慌てて、ここまでの会話を反芻していると、間の悪いことに、こころと委員長が料理をもって部屋に入ってきてしまった。
さすがに、本人がいるところで、こういう話はつづけられない。結局、その場はそれまでということになった。