第百四話 九月二日(日)午前 1
翌日、身支度をととのえると、僕はすこし早めの時間に家を出た。幸を迎えにいくためである。こころのほうは、委員長といっしょに商店街にむかう約束になっていた。
相手の家につくと、幸はすぐにあらわれた。
「お待たせぇ。んじゃ、いこっか」
べつに、待たされたりはしていない。幸は、僕が来るまえに、準備をすべて済ませていたようである。
時間には余裕があったので、道々ではのんびりと歩きながら話をした。昨日のテレビ番組や、最近かった本、CDについてなどの軽い雑談がほとんどである。文化祭のことには、まったく触れなかった。
こんなふうに、幸とむだ話をする時間が、僕は好きだった。恋人ができて、そういう機会が減ったいまでも、そのこと自体には変わりがない。
ひとつ、幸に話してみたいことがあった。たわいない雑談ではなく、真剣に意見を聞いてみたいことが。
ほかでもない、こころについてのことである。
彼女の幼なじみの立花さんによると、こころの背中には、古い火傷のあとが存在するのだという。それは、ごく幼いころに、おとなの男から受けた虐待の痕跡であるとのことだった。
僕としては、その火傷を自分の目で確認したわけでもないし、できれば信憑性のある話だとは思いたくないところである。
それこそ、じつは、立花さんが僕を牽制するつもりで、口からでまかせを言ってみただけとか、そういうくだらないオチがついてくれたほうが、よほどいいぐらいなのだ。
しかし、実際問題として、こころにはしらない男を極度に怖がったり、ときどきみょうにおどおどしたような態度になるなど、かなり不健全な意味で風変わりなところがある。それが、幼児期に受けた虐待の影響というのは、残念ながら、いかにもありえそうなことだと僕には思えた。
立花さんからその話を聞いたとき、僕はことの真偽にかかわらず、こころを守ると自分自身に誓った。だが、当然のことではあるが、誓いはただ誓いであるだけではなんの意味も持たない。行動が不可欠である。
具体的には、どのように接すれば、こころを傷つけずに済むのかということが重要になってくるのだ。
たとえば、ゴーなどは、血縁上の父親が問題の多いひとで、幼少期には辛いことも多かったはずである。しかし、僕から見て、あいつはそうしたことをきちんと乗り越えてきているように思えるし、すくなくとも、これまで必要以上に気を遣った接しかたをしてきた覚えはない。
ところが、こころの場合はちがうのである。この数ヶ月のあいだですら、ゴーの大声に怯えて泣き出したり、ナンパされて恐怖のあまりパニックを引きおこしたりしてきているのだ。はっきりいって、なにか問題があったとしても、それを克服できているとはお世辞にも言いがたい状態である。
いまさらながらに、あの喫茶店での立花さんの言葉が、僕に重くのしかかってくる。守れないなら、傷つけてしまうぐらいなら、はじめからつきあわないほうがいい。彼女はそういったのだ。
傷つけたりはしない。僕はこころを守る。そう腹の底から思ってはいるが、それだけでほんとうにいいのか。
守れなかったら、こころは、僕たちはいったいどうなってしまうのか。
どうにも、思考が悪いほうにばかりむかってしまっていた。大切な恋人のことだと思うからこそ、なおさら不安になってしまうのである。
そして、いま、僕はその不安な気持ちを、幸に話したがっている。というよりも、預けて、押しつけてしまいたいというような誘惑にかられている。
――そこまで考えて、ふと気づいた。
これは、ただの逃避ではないのか?
たんに、僕は、見たくないものから目をそむけたがっているだけではないのか?
ならば、むしろこのことは、幸に話すべきではないのかもしれない。
そもそも、こういうことは、他人に相談してどうなるというものでもないはずだ。結局は、こころの恋人である僕が、自分で考えて行動しなければならないのだから。
そうでなければ、なんのために恋人になってもらったのか、わからないではないか。
「なあ、どうしたん?」
「えっ」
幸が、怪訝そうに眉をひそめていた。
「なんか、うわの空って感じだった。悩みでもあんの? アタシでよかったら、相談にのったげるけど?」
「い、いや、悩みというか」
思わず、口ごもってしまった。いけない、僕はアホか。これでは、悩みがあると告白しているようなものだ。
「……いえないこと?」
ちいさく、幸がため息をついた。
「ま、公平にもいろいろあんだろうし、むりに聞こうとは思わないけどさ。……いざってとき、友だちに頼っていいってことだけは、忘れんなよ?
「ああ……。ありがとう、幸」
子供のころから、彼女はいつもこうだった。僕が迷ったり悩んだりしていると、すぐに見抜いて話を聞こうとしてくれるのである。
だが、これからは、幸に甘えてばかりいるわけにはいかない。僕は、そう自分に言い聞かせた。