第百三話 九月一日(土)放課後 3
僕がこころのお母さん――桐子さんとはじめて会ったのは、告白の当日である。
いや、むしろ『遭遇してしまった』とでもいうべきかもしれない。桐子さんは、よりにもよって、その現場に居合わせてしまっていたのだ。
あの花火大会の日の夜、僕はマンションのまえまでこころを送っていった。
帰路、こころの手を握りながら、僕はずっと告白のタイミングをはかっていた。なにか、花火についての感想を交換しあったりもしたはずなのだが、そのあたりのことはまったく覚えていない。気がつくと、マンションのまえにいたという感じだった。
こころは『では、このへんで』といって、じっと僕を見つめた。指は、まだ絡まったままだった。
その場で、僕は『こころのことが好きだ。これからは、友だちじゃなくて恋人としてつきあって欲しい』と告げた。彼女は軽く息を吸いこみ、すこしだけうつむいて、そしてはっきり『はい』と答えてくれた。
つぎの瞬間、僕とこころは抱きあっていた。
どちらがさきに動いたとかいうようなことではなかった気がする。僕たちは、ほんとうに同時に、磁石のS極とN極がくっつくぐらいな当然さで、たがいを抱きしめあっていたのである。
彼女の体は、信じられないぐらいにやわらかくて、いい匂いがした。われを忘れてしまうような心地よさのなかで、僕はこころを傷つけてしまうのではないかと、自分が怖くなってしまったほどだった。
こちらの耳元で、こころはなんども僕の名前をつぶやいてくれた。そして、好きだといわれてどんなに嬉しいかということと、いままで隠していたという自身の気持ちについても囁いてくれた。
背中でこころの指先が踊り、首筋に彼女の息がかかった。勢いで、そのままキスすらしてしまいそうなほどのめくるめく気持ちだった。
だが、実際には、その時点ですでに、桐子さんが近くにいたのである。
いきなり、こころが体を硬くした。それで、僕も違和感に気づいた。視線を感じたのでそちらを確認すると、街灯のしたで、口のあたりを手で押さえているスーツ姿の中年女性の姿があった。
ママ、という耳元の呟きに、僕は一瞬にしてパニックにおちいった。体を離すことすら忘れてしまい、じつに恥ずかしいことに、こころを抱きしめたまま挨拶と自己紹介までしてしまったのである。
さいわいなことに、桐子さんは引いたり頭ごなしに叱りつけてきたりはせず、むしろ僕を部屋に招きいれて、お茶をふるまってくれた。そして、時間は遅かったが、すこしだけ話をしていくことになった。
聞けば、こころは食料品の買出しやら手作り弁当やらのことを、家族にはまったく言っていなかったらしい。桐子さんは、そのあたりのことを僕の説明ではじめて知ったそうで、かなりおどろいた様子だった。
結局、交際自体はすぐに認めてもらえたが、年齢相応の関係にとどめることだけは、しっかりと釘をさされた。桐子さんにしてみれば、仕事から帰ってきたら、娘が男と抱きあっていたわけで、心配だったのだろう。もちろん、僕も、否などとは言えるはずもなかった。
桐子さんは、年のわりにはふつうにうつくしい女性で、あまりおばさんというような印象はうけなかった。ただ、仕事がいそがしいせいか、ひどく疲れているように見えた。
そういえば、あのとき、こころが『ま、ママが反対しても、絶対、彼とつきあうからねっ』と、いつになく強い口調で説得し、桐子さんが『あなたがそれでいいなら、わたしからはとくに言うことはないけど……』と困惑したようにかえしたのが、なんとなく記憶に残っている。
「廣井くん?」
「……え? あっ、ごめん、なんの話?」
いけない、思い出すのに夢中で、みんなの話を聞いていなかった。
「だから、待ちあわせの時間。十一時に商店街でいいわね?」
どうやら、材料の買出しからはじめることになったようである。時間帯からいって、昼食会も兼ねるのだろう。
ううむ、しかし、また桐子さんと会うことになるのか。苦手な相手ではけっしてない。どちらかといえば、話しやすいほうである。それでも、恋人の親というのはいろいろとやりにくいものなのだ。僕はすこし、緊張を感じていた。