第九十八話 九月一日(土)早朝 4
廊下に、人影はほとんどない。
現在、ちょうど午前七時になったあたりである。サッカー部か野球部あたりは、グラウンドで朝錬をはじめていてもおかしくない気もしたが、声や物音などは聞こえてこなかった。
徹子ちゃんも、とうに僕たちと別れている。なぜか、歩きではなく小走りで行ってしまったので、もう教室に着いたころかもしれない。
つまり、いま、僕とこころはふたりきりなのだ。
なんとなく、手を握りたいと思った。
むこうも、おなじことを考えていたらしい。ほんのすこし触れたのをきっかけに、自然と僕たちの指は絡まりあっていた。やわらかく、掌をあわせている。
「せっかく来てくれて悪いけど、手伝ってもらうことはないよ。準備といっても、朝は委員があつまって連絡を受けるだけなんだ。ごめんね」
「ふうん……。でも、いいよ。こころ、教室でまってるから」
話を聞いていると、どうやら、こころは本気で僕を手伝うために、この時間に来てくれたようだった。
いちおう、僕は昨年も学級委員をつとめており、運営側からの文化祭は経験している。
そのあたりを絡めて、彼女に『文化祭は楽しいけど、準備が大変。とくに今年は始業式の朝からだし』というような説明をしたのは事実である。おととい、いっしょに買い物――最近、これもデートと呼ぶようになった――をしたときのことだ。
こちらの発言の意図としては、文化祭が大変という言葉は、全体にかかるつもりだった。ところが、こころはそれを額面どおりに『今日の朝からなにか大変な作業をする』と受けとってしまったらしいのである。
僕の言いかたも悪かったが、まだ出し物も決まっていない段階でそれというのは、さすがに勘違いがすぎるのではなかろうか。気持ちはうれしいが、正直そそっかしいと思わないでもなかった。
というか、じつは内心、僕に会いたいばかりに無理に早起きしてくれたとか、そういうのを期待してたんだけどなあ。
閑話休題。教室の引き戸のところで、僕とこころは指先をほどいた。ひとの気配があったのだ。
こころはべつとして、この時間に教室で待機しているとなれば、それは関係者以外にありえない。案の定というべきか、なかにはいると、委員長の姿が目にはいった。
だいぶ早く、それこそ僕たちが来るずっとまえから学校にいたのだろう。彼女はひとり、椅子に腰かけて読書にふけっていた。あわただしさとは無縁の優雅なたたたずまいである。
「おはよう、委員長」
「あら、廣井くん、おはよう……えっ、ココちゃん? どうしたの、こんな時間に」
とりあえず、かいつまんで説明することにした。
「へえ、そうなんだ。でも、今日は予習するほど授業もないし……。あ、そうだ。ココちゃん、これ読む?」
いって、委員長はもっていた本をこころに手渡した。
「掌編小説集なんだけど、ひとつひとつのお話が短いから、ちょっとした時間を埋めるのにいいよ」
「わあ、ありがとう。読ませてもらうね」
うれしそうに、こころが小説を胸のあたりに押し当てた。
そうこうしているうちに、時間になったので、僕と委員長はこころを教室に残し、連れだって生徒会室へとむかうことにした。