第十話 四月九日(月)朝 2
女の子は、幸のつば広帽子がいたく気にいったようだった。
まなざしでおねだりをするタイプらしく、じっと相手の頭部を注視していたのである。要求に気づくと、幸はさして迷ったふうでもなく、女の子に帽子をかぶらせてやった。
それから、女の子は片時も帽子をはなしていない。頭のサイズがちがうので、落とさないためにか、つばのはしを指でつまんでいるのだ。そうして、バレエでもおどるかのごとく、くるくると回転しながら歩いていた。
いっぽうの幸は、そんな女の子の様子を、柔和な表情でながめていた。まぶしいのではないかとも思ったが、日傘とサングラスがあれば、とりあえず問題はないらしい。
僕はといえば、ぼんやりと幸の髪を見ていた。
ちいさなころ、腰まであった純白のそれは、まるで絹糸のようにさらさらとしていて、幼ごころにも感動するほどうつくしかったものだ。
しかし、いまはちがう。うしろは、かろうじて襟首をかくすていど。まえも、眉にかからない。ある時期から、急に自分でみじかく切るようになったのだ。
もったいない、のばせばいいのにとつねづね思ってはいるが、僕にはなにもいえなかった。幸のやりたいようにするのが一番である。
「おおい、こっちだぞぉ」
いつのまにか、女の子はまわるのをやめ、なにか歌をうたいはじめていた。
どうやら、彼女はうたうのに夢中で周囲をよく見ていないらしい。ときどき、進行方向と関係ないほうに歩いていこうとするのである。
注意されて、はじめて気づいたというような顔をするあたりは、じつに子供らしく、かわいらしいものだ。とはいえ、ここまで落ちつきがないと、学校という集団生活の場になじめるのかと、さすがに心配に感じなくもない。
まあ、三ノ杜学園にはいい先生が多いし、だいじょうぶだろうと思いたいが……。
「なあ、公平。ちょっと時間がやばそうなんだけど」
小声で、幸が話しかけてきた。
「え? ありゃ、たしかにいわれてみれば」
前述のとおり、はじめての学校ということで興奮しているらしく、女の子はかなりはしゃいでいるようだった。それだけならまだしも、道ばたのなにがしかに気をとられ、足をとめることもよくあった。
昨年おくっていった男の子は、わんぱくすぎて、体力のない幸がかなり苦労していた。今年の女の子は、そういう心配がないので、油断してしまっていたのかもしれない。
もういちど、携帯の時計を確認してみた。まいったな。どう考えてもギリギリだぞ。
「ねえ、君、このおにいちゃんに、おんぶしてもらいたくない?」
突然、幸が女の子に提案した。
「うん!」
元気のいい声がかえってきた。
ああ、なるほど、そういうことか。瞬時に、僕は幸の意図をさっして、なにもいわずにしゃがみこんだ。
とたんに、女の子がこちらの首から肩のあたりにしがみついてきた。かなり大喜びな様子である。
「さあ、いっくぞぉ!」
すぐに立ちあがり、僕はそのまま全速力で駆けだした。
めざすは学校である。少々距離はあるが、なに、問題はないだろう。体は細いが、これでも男なのだ。筋肉の薄さを恥じて、ひそかに鍛えてだっている。ちいさな女の子をひとり、おぶってダッシュするぐらい、軽くやってのける自信はある。幸とは、彼女を学校までおくってから合流すればいい。
背中から、きゃっきゃと笑う声が聞こえてきた。ジェットコースターだ。そんなわけのわからないことを、僕は叫んだ。運動量のせいか、体が熱くなってきた。
正確なところはわからないが、校門まで、たぶん八百メートルぐらいなものだろう。一キロはないと思う。そのていどなら、どうということはない。二、三キロのジョギングは、わりとよくやるほうである。それにくらべれば、だいぶ短いではないか。
だが、息が切れてきた。
やがて、脚もあがらなくなってきた。
すでに、心臓は早鐘をうちならしていた。
どうした、なさけないぞ。僕は自分を叱咤した。たかが新一年生。二十キロぐらいの重しが背中にのっているだけだ。なんてことはない。ないといったらない。
がむしゃらに、僕は走った。ただひたすらに走った。しゃにむに走った。しゃかりきになって走った。躍起になって走った。猛然と、一目散に走った。
走って走って、走りつづけた――つもりでいたのだが、もはや歩くのと大差ない速度になっていた。
喧騒が、耳にはいってきている。たくさんの子供の声。なんとか、時間までに校門へとたどりつくことはできたようだ。
気力をふりしぼって、女の子をそっと背中からおろすと、僕はその場でへたりこんだ。こちらの様子を、相手はちいさく首をかしげながら、まるでふしぎな生きものでも見るかのような顔でながめていた。
「おい、コウ? どうした」
ゴーだった。さきに来ていたのか。僕は、なにもいわずに女の子を指さした。しゃべれない。肺が苦しい。
「よ、よし、おれにまかせろ」
いうがはやいか、ゴーは女の子の手をとると、なだめたりすかしたりしながら講堂へとひっぱっていった。
やっと、それでひと心地がつき、呼吸をととのえることもできるようになった。だが、しばらくして、立ちあがれるようになったとき、僕はあることに気づいて脱力してしまった。
ええい、僕はアホか。女の子から幸の帽子をかえしてもらうのを、すっかり失念してしまっていたのである。