最終話「黎明のきみ」
夜明け前の空は、まだ色を決めかねているようだった。黒でもなく、青でもなく、ただ薄く滲んだ灰色が、東の端からゆっくりとほどけていく。
私は、その光を窓越しに見つめながら、原稿の最後の行にカーソルを合わせていた。
――彼は、死んだ。
死刑執行の知らせは、記事が世に出る三日前だった。ニュースで私は彼の死を知った。その一文を打ち込んだ瞬間、指先だけが、わずかに震えていることに気づいた。それでも手を止めることなく、記事を書き続けた。
冤罪の可能性。
証拠の矛盾。
捜査の捏造。
そして、真犯人の存在。
すべてを書いた。
彼の過去の殺しも、快楽殺人者である事実も、隠さずに。
同情されてはならない存在であることを、何度も念押しするように。
彼には、家族がいなかった。
戸籍の上では確かに存在し、確かに多くの命を奪い、そして死刑囚としてこの世を去った人間。
遺骨の引き取り手続きのため、私は再び拘置所を訪れた。
面会に来たときと同じ道。同じ門。同じ高い塀。
けれど、足取りはまったく違っていた。
受付で名前を書き、用件を伝える。
『遺骨の引き取りです』
その言葉は、紙の上に書いても、唇を動かしても、どこか現実味を欠いていた。
案内された部屋は、面会室よりも狭く、窓もなかった。
ガラスはない。椅子も向かい合っていない。そこには、人と人が言葉を交わすための設えが、最初から存在していなかった。
職員が、事務的な口調で説明をする。
私はその唇の動きを追いながら、内容を理解しようと努めた。だが、言葉は頭に入っても、意味だけが、どこか遠かった。
小さな骨壺が、机の上に置かれる。
白く、軽く、驚くほど静かだった。
私は一瞬、手を伸ばすのをためらった。
あの面会室で、何度も見つめ合った視線の持ち主が、いまは、この容器の中に“収まっている”という事実を、受け入れるのに時間がいった。
署名を求められ、私は自分の名前を書いた。
ペン先は震えなかった。震えないことが、少しだけ、怖かった。
骨壺を抱えたとき、奇妙なほどの軽さが腕に伝わる。
人の重さではない。
生きていた時間の重さが、すべて削ぎ落とされたあとの、残りかすのようだった。
拘置所を出ると、空はまだ白みきっていなかった。
夜と朝のあいだの、あの色。
彼はもう、何も語らない。
それでも私は、この沈黙を引き取ってしまったのだと、はっきりと自覚していた。
怪物の骨を抱くことに、迷いがなかったわけではない。それでも、あの無機質な面会室で沈黙を共有した者として、彼を“誰にも弔われない死”にだけはしたくなかった。
私は原稿を送信し、椅子にもたれた。
録音機は机の上に置いたままだ。もう赤いランプは点かない。
記事は、翌朝の一面に載った。
大きな見出しも、煽る言葉も使わなかった。
ただ、事実を、事実として並べただけだ。
朝刊が出回る頃、私はすでに会社を出ていた。編集部に残れば、何かを求められるのは分かっていた。
説明。
釈明。
覚悟。
だが、私が書いたのは意見ではない。だから、語ることはなかった。
街のあちこちで、人が新聞を広げているのが目に入る。
駅のベンチ。喫茶店。信号待ちの歩道。
彼らの表情は、驚き、嫌悪、戸惑い――そのどれともつかない。
だが、視線は皆、同じ行で止まっていた。
「怪物」「冤罪」「真犯人」
その三つの言葉が、紙面の上で、互いに噛み合わないまま並んでいる。
正午を過ぎた頃から、編集部の電話が鳴り続けた。
私の携帯も、何度も振動した。画面には、知らない番号が並んでいる。私は、どれにも出なかった。記者として、書くべきことはすべて書いた。
それ以上でも、それ以下でもない。
世論は割れた。
「怪物の言葉を信じるな」
その一文だけが、何度も、何度も、紙面から立ち上がってきた。
他の意見は、声になりきれないまま、行間に沈んでいった。
正義は、ひとつの形を持たなかった。
正義とは、きっとそういうものなのだろう。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
彼は、“自分のものではない罪”を背負ったまま死ぬことを、最後まで拒み続けた。
それが、彼にとっての正義だったのだと思う。
辞表は、上司の机の上にそっと置いた。
理由は書かなかった。書く必要もなかった。
上司は封筒を一瞥し、何も言わずに頷いた。
あの拘置所へ向かう朝と、同じ目で。
それで、すべてが終わった。
山道は、まだ夜の色を残していた。
耳には、風の音も、鳥の声も届かない。けれど、空の変化だけは、誰よりも敏感に分かる。
黒が薄れ、群青が灰に溶け、やがて、東の稜線から淡い光が滲み出す。
夜と朝の境界。
闇と光のあいだ。
黎明。
私は、骨壺を抱えて立ち止まり、ゆっくりと蓋を開けた。
白い遺灰が、朝の風に触れ、空へと舞い上がる。
谷へ落ち、光の中にほどけ、やがて見えなくなる。
彼は救われるべき存在ではない。
許されるべきでもない。
地獄に行くべき人間だったのだと、今も思う。
それでも。
――私は地獄に行くべき人間だ。だが、あの罪まで背負う理由はない。
あの唇の動きだけは、今も私の中で、はっきりと生きている。
真実と虚偽の境界線を、最後まで踏み越えなかった怪物。
夜明けを見ることなく終わったが、誰よりも正確に“夜と朝のあいだ”を知っていた存在。
遺灰が、光の中に完全に溶けたとき、私は東の空を見上げ、心の中でその名を呼んだ。
―――――――朝霧一郎。
私は永遠に忘れない。
あなたは、誰よりも黎明だった。
怪物であり、罪人であり、それでも、真実を手放さなかった人として。
あなたは、夜のかたわらに立ったまま、夜明けに向かって、淡々とした表情で指差していた。
白い霧の中で、あのときと同じ目で、あのときと同じように、静かに微笑む男の姿が一瞬だけ重なった。
朝の光が霧をそっと溶かす。
その笑みも、輪郭も、すぐに消えてしまった。
けれど、私は確かに見た。
黎明のなかで、朝霧一郎が穏やかに微笑んでいるのを。
(完)




