第三話「真実」
彼は、何の前置きもなく語り始めた。
まるで天気の話でもするかのように。
まるで、遠い昔に読んだ本の内容を要約するかのように。
唇は、奇妙なほど整っていた。
乾いてもいなければ、湿りすぎてもいない。
その動きは、音を失った私の世界において、もっとも信頼できる情報源だった。
声は聞こえない。だが、声以上に雄弁なものがあることを、私は知っている。
それが唇であり、目であり、沈黙の“間”だった。
だからこそ、この男の語りが、私には異様に鮮明に映ってしまう。
――最初の殺しは、二十歳のときでした。
唇の動きは正確で、迷いがない。感情の揺れも、躊躇も、そこには見当たらなかった。
――衝動ではありません。
ずっと考えていて、ずっと想像していて、そして、準備を整えて、実行しました。
私はペンを動かす手を止めなかった。
だが、心のどこかで、聞いてはいけない領域に足を踏み入れている感覚があった。
――相手は、たまたまそこにいた人です。
名前も、年齢も、重要ではなかった。
重要だったのは、その瞬間、その場所、その状況が、私の中の“完成図”に合致していたかどうか、それだけです。
完成図。
その言葉を、私は無意識に頭の中で反芻していた。
それは、彼が殺しを語るための言葉であると同時に、私が記事を書くときに探してしまうものでもある。
事実を並べ、余白を削り、読者が理解しやすい“形”に整える。
その作業と、彼の言う完成図は、どこかで重なっていた。
気づいてしまった瞬間、胃の奥が、ひやりと冷えた。
――刃物の角度。
距離。
抵抗の有無。
声が出る前に、どこを断てばいいか。
淡々とした説明。
専門書の解説のような冷静さ。
――恐怖の表情は、嫌いではありません。
ですが、長引くのは美しくない。
苦痛は、短く、正確であるべきだ。
私は、無意識に息を詰めていた。
同情など、入り込む余地はない。
この男は、確かに、人を殺すことを目的として生きてきた人間だ。
『後悔はしていますか?』
そう書いて見せると、彼は小さく首を振った。
――ありません。するわけがないでしょう。完成した行為に、後悔という言葉は不要です。
そのとき、私ははっきりと理解した。
この男は被害者ではない。
救われるべき存在でもない。
社会が“怪物”と呼ぶことに、何の誇張もない。
だが――。
――だからこそ。
彼は、わずかに言葉を切り、それまでとは違う、ほんのわずかな緊張を唇に宿した。
――あの事件だけは、私の中に“入らない”。
三人を同時に。
衝動的に。計画性も、選別もなく。恐怖と混乱のまま、何度も刃を振り下ろす。
あれは、私のやり方ではない。
視線が、ガラス越しに私を射抜く。
――証拠は、揃いすぎています。
指紋。血液。映像。動機。
あまりにも都合よく、“私”になるように配置されている。
そして、私の供述調書には、私が決して使わない言葉が混じっている。
私は息を呑む。
――警察は、“怪物”という型を必要としていた。世間も、それを欲しがった。だから、私が選ばれたのです。
彼は、静かに言った。
――私は地獄に行くべき人間です。それは否定しません。
ほんの一瞬、その目に奇妙な光が宿る。
――ですが。あの罪まで背負って、地獄に行く理由は、私には、ない。
私は、ペンを握ったまま動けずにいた。
この男は怪物だ。
多くの命を、自らの快楽のために奪ってきた。
それでも――
“やっていない殺し”だけは、この男の中で、決して混ざらない領域として、冷たく、正確に、切り分けられている。
正義なのか。それとも、ただの感情移入なのか。
私は、自分の中で生まれつつある問いの重さに、まだ名前をつけられずにいた。
――私が、怖いですか?
いきなりそう問いかけられ、私は思わず目を見開いた。
――あなたは耳が聞こえない。
だから、他の人よりも、感情や表情や、しぐさに敏感だ。
声の調子に惑わされない代わりに、目で、沈黙で、人を読む。
彼はそう言っているように見えた。
――だからこそ、あなたの目には、私はきっと、真っ黒な怪物に映っているのでしょう。
ほんの一瞬、唇が止まる。
彼がそう問いかけるまで、どれほどの沈黙が流れたのか、正確には分からない。
録音機の赤いランプが、一定の間隔で瞬いている。それだけが、時間の存在を教えてくれていた。
ガラス越しの距離は、物理的には数十センチしかない。
だが、そこには決して越えられない厚みがあった。
私は、その厚みの中で、自分の心拍を“見よう”としていた。
――……怖いですか?
私はすぐには答えられなかった。
怖い。
その言葉は、あまりにも単純で、あまりにも多くの意味を含んでいた。
確かに、この男は恐ろしい。
人を殺すことを快楽とし、その記憶を“美しい”と呼ぶ精神。社会から隔離され、やがて死刑になるべき存在。
だが今、私の目の前にいる彼は、ただ残酷な過去を誇示する怪物ではなかった。
真実と虚偽を、異様なほど冷静に切り分け、自分の罪と、他人の罪を決して混同しない人間。
私はメモ帳に、ゆっくりと書いた。
『怖くないと言えば、嘘になります』
彼の視線が、わずかに揺れる。
『でも、それはあなたが怪物だから、だけではありません』
ペン先が、紙の上で止まる。
『あなたが、“やっていない罪”を、あそこまで正確に拒絶することのほうが――』
私は一度、言葉を探す。
『それが、少し怖いです』
沈黙が落ちる。
録音機の赤いランプだけが、規則正しく瞬いていた。
彼はしばらく私を見つめ、そして、かすかに、ほんのかすかに、笑った。
――そうですね。怖いですね。
彼は、視線をわずかに伏せた。
それは回想ではない。懺悔でも、悔恨でもない。ただ、事実を並べる者の沈黙だった。
――あの事件の犯人は、私とはまったく違う種類の人間です。
唇が静かに動く。
――衝動でも、快楽でもない。支配欲でも、憎悪でもない。あれを動かしたのは、もっと……卑小で、臆病で、そして、社会に溶け込める動機だ。
私は息を詰める。
――あの現場には、“演出”がありませんでした。
”演出”。
彼が自分の殺しを語るときに、必ず使う言葉。
――配置が雑で、選別がなく、時間の使い方も稚拙だった。
恐怖を味わうためでも、美を完成させるためでもない。
ただ、消したかっただけです。
その目が、こちらを射抜く。
――証拠は、いくつもおかしな形で“整えられていた”。
本来残るはずのものが消され、残らないはずのものが、都合よく揃っていた。
私は、背筋が冷えるのを感じた。
――警察は、“私が犯人である物語”に合う証拠だけを拾い、合わないものは、最初から存在しなかったことにした。
そして、本当にあそこにいた人間を、見ないふりをした。
彼は、淡々と告げる。
――その人間は、今も外にいます。
善良な市民として、平然と朝を迎え、夜を眠っている。
録音機のランプが赤く瞬いた。
――私の手で流した血と、他人の手で流された血を、同じ色に混ぜるな。
沈黙が落ちる。私は、ペンを握る指が震えているのに気づいた。
『あなたは、私にどうしてほしいですか?
記事を書き、真実を世に知らせることですか?
それとも――』
そこまで書いたところで、彼が、ふっと笑った。
――ふふ。
いいえ。ただ、あなたには知ってもらいたかっただけです。
口元だけの、薄い笑み。
――記事にするか、しないかは、あなたが決めればいい。
私は、どっちみち死刑ですから。
その言葉は、あまりにも軽く、あまりにも現実だった。
――ああ……あなたに、執行の瞬間を見てほしかったなあ。
冗談めかした調子で、しかし瞳だけは真剣に、そう告げる。
――人が、完全に“終わる”瞬間。
あれほど、純粋で、嘘の入り込む余地のない表情はない。
私は息を呑んだ。
この男は、死を恐れていない。いや、正確には、死の中にさえ、観察すべき「真実」を見出している。彼は自らの死でさえも作品にしてしまうのだろう。
彼はゆっくりと首を傾げる。
――あなたは、そこに何を見るでしょうね。
正義ですか。
罰ですか。
それとも……救済ですか。
録音機の赤いランプが、静かに点滅する。その光の中で、彼はまっすぐ私を見つめていた。
――私は、私の罪で死にます。
でも、私のものではない罪のまま、終わるつもりはない。
その言葉は、脅しでも懇願でもなかった。ただ、事実を事実として置く者の、冷静な宣言だった。
沈黙が、二人のあいだに落ちる。
彼はゆっくりと席を立った。拘置所の椅子が、わずかに音を立てる。背筋を伸ばし、看守の合図を待ち、そして振り返らずに歩き出す。
それが、私の見た彼の最後だった。
扉が閉まるまで、私はその背中から目を離せなかった。
怪物の背中なのか。
それとも、真実を抱えたまま消えていく一人の人間の背中なのか。
その区別を、最後までつけられないまま。
録音機の赤いランプが消える。
沈黙だけが、部屋に残った。
会社に戻り、私は上司のデスクの前に立った。
簡単に、要点だけを伝える。
死刑囚が語ったこと。
あの事件には矛盾があり、捜査に不自然な点があり、そして――真犯人が、別にいる可能性が高いということを。
上司は腕を組み、しばらく黙っていた。
「…で、お前はどうする」
唇の動きから、そう問いかけられたのが分かる。
私は、少しだけ視線を落とし、それから、はっきりと書いた。
『書きます』
上司の眉が、わずかに動く。
『彼を救うためじゃありません。冤罪のまま、誰かが処刑されることのほうが、私には耐えられないだけです』
上司は、深く息を吐いた。
「……地獄を見るぞ」
その言葉の重さは、声が聞こえなくても伝わってきた。
私は、頷いた。
地獄を見る覚悟なら、もう、拘置所のあの部屋で決めてきた。怪物が残した“真実”を、夜明けの光の下に引きずり出すために。




