第二話「取材開始」
拘置所は、街の喧騒から切り離された場所にあった。
高い塀と、無機質な門。それらは「人を守る」ための施設というより、「人を隔てる」ための構造物に見えた。
私は、受付の前で立ち止まり、深く息を吸った。
吐く息が、思った以上に長くなる。
面会の手続きは、想像していたよりも煩雑だった。
身分証の提示。
面会理由の記入。
持ち物の確認。
係員の唇が動くたび、私はその動きを追う。だが、早口になると、どうしても追い切れない。分からないときは、聞き返す代わりに、ただうなずく。
――この場所では、それが一番安全な選択だった。
耳が聞こえないことは、同情を呼ぶ。同時に、警戒も呼ぶ。相手が何を理解し、何を理解していないのかが分からない存在は、管理する側にとって厄介なのだ。
ようやく通された通路は、驚くほど静かだった。
足音だけが、床に吸い込まれていく。
私は歩きながら、何度もポケットの中の手紙を確かめた。紙の感触が、まだ現実と結びついていない。
面会室の前で、係員が立ち止まる。
扉の向こうに、朝霧一郎がいる。
そう思った途端、胸の奥がひどく冷えた。
拘置所の面会室は、想像していた以上に無機質だった。
淡い灰色の壁。傷一つない金属の机。天井の蛍光灯は、影を作らないほど均一に白い光を落としている。人の感情が染みつく余地のない、徹底して清潔な空間。
分厚い強化ガラスの向こう側に、彼は座っていた。
手錠は外されているが、逃げ場のない椅子に背筋を伸ばし、微動だにしない。写真で見たよりも痩せていて、思ったよりも若く見えた。
私は鞄から小型の録音機を取り出し、机の中央にそっと置いた。
赤いランプが点灯する。それは、私にとって“耳”だ。
彼の視線が、その機械に一瞬だけ落ちる。そして、ゆっくりと私の顔へ戻った。
次の瞬間、彼は――笑った。
ほんのわずか、唇の端を持ち上げただけの、静かな微笑。だがその表情は、法廷で見た無表情とはまるで違っていた。
――やはり、あなたでしたか。
そう口が動くのが、はっきりと見えた。
私は、ガラス越しに名刺を差し出す。彼はそれをじっと見つめ、それから再び、ゆっくりと唇を動かした。
――音のない世界の、記者さん。
インターホン越しに彼の声が流れているはずなのに、私の耳には何も届かない。それでも私は、彼の口の動きと、表情と、瞬きの間隔から、必死に言葉を追った。
録音機の赤いランプだけが、沈黙の中で確かに瞬いている。
こうして、死刑囚・朝霧一郎への取材は始まった。
私はメモ帳を開き、ペンを構えた。
本来なら、ここで定型の質問を投げるはずだった。名前、生年月日、事件当日の行動、供述の変遷。だが、私が最初の一文を書き留めるよりも早く、彼の唇が動いた。
――あなたが来ると思っていました。
私は思わず顔をしかめた。
――耳の聞こえない記者が来る。そうでなければ、意味がない。
なぜ、そこまで断言できるのか。なぜ、私の存在を前提にこの取材が組み立てられているような口ぶりなのか。
彼は私の反応を確かめるように、一拍置いてからゆっくりと続けた。
――音は、嘘をつく。でも、沈黙は嘘をつけない。いえ、つかない。
その言葉を、私は唇の形からそう読み取った。
沈黙は嘘をつかない。その逆説が、胸の奥に静かに沈んでいく。
私は質問を書いた紙をガラスに向ける。
『あなたは、無罪だと書いていましたね』
彼はそれを見て、ほんのわずかに目を細めた。
――無実、という言葉は正確ではありません。
事実、私は多くの人を殺してきました。私にとって、殺しは快感を得るための手段にすぎませんから。
その口の動きは、あまりにも淡々としていた。誇示でも、虚勢でもない。ただ事実を述べるだけの、乾いた報告のようだった。
背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。
この男はやはり、怪物なのだろうか。
法廷で見た沈黙の姿。今、ガラス越しに向けられる静かな微笑。
その奥に、確かに“人を殺すことを快楽とする心”があるのだとしたら。
彼は続けた。
――だからこそ、あの事件だけは、私のものではない。
唇の形が、はっきりとそう告げていた。
――私は罪を背負うことから逃げたことはありません。裁かれること自体、恐怖に感じたことはない。
けれど、やっていない殺しまで、自分のものとして受け入れるつもりはない。私の美しい犯罪に傷をつけるなど、到底許せるはずがないでしょう。
その視線は、まっすぐに私を射抜いていた。
録音機の赤いランプが、淡々と瞬いている。この沈黙も、この言葉も、すべてが記録されている。
快楽殺人者。
社会が“怪物”と呼ぶに、何の不足もない男。
それでも彼は、真実と虚偽の境界線だけは、決して踏み越えようとしない。
――だから、あなたを呼びました。
そう、確かにそう言った。
怪物が、真実のために口を開く。その矛盾の中に、私は立たされている。
この男は救われるべき存在ではない。
だが、この男に着せられた“別の罪”だけは、決して闇に沈めてはならないのだと。私は、初めてそう思った。
『さきほど、“私の美しい犯罪”と言いましたね。あなたの起こした事件、すべて調べました』
メモ帳にそう書き、ガラス越しに見せる。
彼は一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと唇を歪めた。
――それは、ご苦労さまでした。
皮肉でも、挑発でもない。まるで天気の話でもするような、穏やかな口調だった。
――どうでしたか。あなたの目には、私の作品はどんなふうに映りましたか。
“作品”。
その言葉に、喉の奥がひくりと引きつる。
私は次の一文を書く。
『計画性があり、無駄がなく、残酷で……芸術性すらあると評されていました』
彼の口元が、かすかに緩む。
――ええ、だからこそ、あの事件だけは、耐え難い。
雑で、醜く、衝動的で、私の美学とは正反対だ。
あの現場には、“快楽”ではなく、“恐怖”と“混乱”しかなかった。
私は息を呑む。
彼は、自分の犯した殺しを否定しない。むしろ、誇りのように語る。だが同時に、あの一家惨殺事件だけを、はっきりと切り捨てている。
――あれは、私の作品ではありません。
戦慄が走った。
声を荒らげたわけでも、表情を歪めたわけでもない。それなのに、私ははっきりと感じ取ってしまった。
この男は、怒っているのだ。
快楽殺人者としての矜持を、自らの“美学”を、土足で踏み荒らされたことへの、静かな、しかし確かな怒り。
彼の目は笑っていなかった。氷のように澄みきって、感情の熱だけを内側に閉じ込めている。
――私は自分の犯した罪と、犯していない罪を、決して混同しません。
彼は手を組み、私と視線が合うように少し首を傾ける。
――あなたも、混同してはいけませんよ。
その視線が、再び私を射抜く。
――怪物がすべて同じ顔をしていると思ったら、それは大きな間違いです。
録音機の赤いランプが、無言のまま瞬き続けている。
この男は怪物だ。
疑いようもなく。
だが同時に、真実の輪郭だけは、異様なほど正確に見据えている怪物でもある。
『犯罪に、美しい、はないと思うのですが』
そう書いて差し出すと、彼は一瞬だけ目を細めた。怒りでも不快でもなく、むしろ興味深そうに。
――あなたは、そう思う。
唇がゆっくりと形を作る。
――でも私は、違う。人は皆、何かを“美しい”と思うことで、生き延びます。
あなたは言葉を。
芸術家は絵を。
宗教家は神を。
私は、殺しを。
淡々としたその口調に、背筋が冷える。
――無秩序な暴力は、ただの騒音です。しかし、計算され、選ばれ、完成された行為は、それがたとえ罪であっても、ひとつの“形”になる。
私は、自分の行為を、その形の美しさで記憶してきました。
私はペンを握る指に力が入るのを感じた。
『それでも、被害者にとっては――』
書きかけた文字を、私は途中で止めた。彼はもう、その続きを知っている顔をしていた。
――ええ。地獄でしょう。だから私は、裁かれることを恐れない。
憎まれることも、呪われることも、当然です。
ただし、
彼は、ほんのわずかに身を乗り出した。
――自分が犯していない地獄まで、自分の名で呼ばれることだけは、受け入れられない。
それは、私の“美学”ではなく、ただの虚偽だからです。
怪物の論理だった。
だが、驚くほど一貫した論理でもあった。




