聞くという行為の、重さ
夕方の空は、まだ明るさを残していた。
校舎の影が長く伸びて、足元に重なる。
俺は昇降口の前で立ち止まり、スマホを一度だけ確認した。
【雪村 澪】
『図書室の裏、わかる?』
短い文。
でも、場所の指定があるということは――彼女なりに、覚悟を決めている。
『わかる。今向かう』
送信すると、すぐに既読がついた。
返事はない。
それが、逆に澪らしかった。
図書室の裏は、人気がない。
表の静けさとは違う、誰にも見られていない静けさ。
ベンチが一つだけ置かれていて、木の影が落ちている。
澪は、もうそこにいた。
制服のまま、ベンチに座って、膝の上で手を組んでいる。
俺の足音に気づいて、顔を上げた。
「……来てくれて、ありがとう」
「……うん」
隣に座ると、自然と距離が空く。
昨日の屋上より、少しだけ遠い。
澪は、すぐには話し始めなかった。
視線を前に向けたまま、何度か息を整える。
俺は、急かさない。
――聞く。
それが、ここに来た理由だから。
「……今日ね」
澪が、ようやく口を開いた。
「昼、黒川のこと、避けた」
「……うん」
「無視したわけじゃない。ただ……どう接していいかわからなかった」
正直な言い方だった。
「昨日、黒川が“一人で帰る”って言ったでしょ」
「……言った」
「それ、間違ってない」
澪は、はっきり言った。
「でも、正しくもなかった」
言葉が、胸に落ちる。
「私はね」
澪は、指先をぎゅっと握る。
「選ばれたかったわけじゃない。ただ……切り離されたくなかった」
昨日、ひなたが言った言葉と、ほとんど同じだった。
でも、澪の声は、ひなたよりずっと静かで、深い。
「黒川は、私を置いていかなかった」
「……」
「でも、抱えたまま、立ち止まった」
それは、責めじゃない。
事実の確認だ。
「それが……少し、怖かった」
澪は、ようやく俺を見た。
「だって、黒川が動かないままなら、私たちはずっと“途中”で止まる」
途中。
その言葉が、やけに現実的だった。
「……ごめん」
思わず言うと、澪は首を振った。
「謝らなくていい」
少しだけ、声が柔らぐ。
「黒川は、ちゃんと聞いてくれてる。それだけで、私は救われてる」
救われている。
その言葉が、重い。
「でもね」
澪は、続ける。
「聞いてもらうって、優しい行為でしょ」
「……うん」
「だからこそ、残る」
澪は、自分の胸を軽く押さえた。
「ここに」
俺は、何も言えなかった。
澪は、少しだけ苦笑した。
「黒川はさ、聞くのが得意すぎる」
「……それ、褒めてない?」
「褒めてない」
即答だった。
「聞くってことは、相手の感情を引き受けるってことだから」
風が、木々を揺らす。
「それを、三人分やってる」
三人。
はっきりと数えられたことで、現実味が増す。
「……重いよね」
俺が言うと、澪は小さく頷いた。
「重い。でも」
澪は、少し間を置いた。
「黒川は、それを投げない」
沈黙。
その沈黙は、責任の形をしていた。
「ねえ、黒川」
「うん」
「今日、私は答えを求めない」
澪は、はっきり言った。
「選んでほしいとも言わない」
胸の奥が、少しだけ緩む。
「ただ、一つだけ」
澪は、俺を見る。
「聞いてほしい」
また、その言葉。
「私が黒川を必要としているってこと」
逃げ道のない言い方だった。
「……聞いた」
短く答える。
澪は、安心したように目を閉じた。
「それでいい」
しばらく、二人で黙っていた。
夕方の光が、少しずつ色を変える。
「……黒川」
澪が、ふと呟く。
「もし、いつか黒川が“もう聞けない”って言ったら」
心臓が鳴る。
「そのときは……ちゃんと、言って」
「……うん」
「黙っていなくならないで」
その願いは、静かで、切実だった。
「約束」
澪が、小さく言う。
「……約束」
俺は、そう返した。
その瞬間、澪の肩から力が抜けた。
「ありがとう」
その言葉は、今までで一番軽く聞こえた。
帰り道。
空は、もう夕焼け色だ。
スマホが震える。
【朝比奈玲奈】
『今日、澪ちゃんと話してるんだよね』
心臓が、一瞬だけ速くなる。
『無理してない?』
俺は、しばらく考えてから返した。
『大丈夫です。聞いてただけです』
既読。
『……それが、一番無理してる顔だよ』
画面を見つめて、苦笑する。
澪は「聞いてほしい」と言った。
ひなたは「預けたい」と言った。
先輩は「置いていかないで」と言った。
そして俺は、全部に「うん」と言っている。
聞くという行為は、選ばないことじゃない。
――抱えることだ。
その重さが、ようやく、はっきりと形になり始めていた。
(つづく)




