同じ距離で、違う温度
翌朝の教室は、いつもより静かに感じた。
実際には、何も変わっていない。
笑い声も、机を引く音も、チャイムも、昨日と同じだ。
変わったのは――俺の立ち位置だけだ。
席に座ると、視線が二つ、少し遅れて重なるのがわかった。
雪村澪は、いつも通り前を向いている。
星野ひなたは、いつも通り誰かと話している。
どちらも、俺を見ない。
でも、見ていないふりをしているだけだと、なぜか確信できた。
昨日の屋上は、「何も選ばなかった」時間だった。
だからこそ、その余白が、今日まで残っている。
午前の授業中。
ノートを取るペンが、少しだけ重い。
内容が頭に入らないわけじゃない。ただ、集中が続かない。
前の席の澪が、時々ペンを止める。
後ろの方から、ひなたの笑い声が聞こえる。
それぞれが、いつも通りを演じている。
――俺のために。
そう思った瞬間、胸の奥がきしんだ。
昼休み。
いつもなら、ひなたが声をかけてくる時間。
でも、今日は違った。
俺は一人で弁当を取り出し、席で食べる。
少しして、澪が立ち上がった。
視線が一瞬だけ、俺の方に流れる。
合う、と思った瞬間に、逸らされた。
澪はそのまま教室を出ていった。
数秒遅れて、ひなたも席を立つ。
彼女は、俺の横を通るとき、ほんの一瞬だけ足を止めた。
「……黒川くん」
声は低く、周囲に聞こえない。
「今日、放課後……少しだけ、話せる?」
短い沈黙。
「……うん」
そう答えると、ひなたは小さく笑った。
「ありがと」
それだけ言って、友達の輪へ戻っていく。
今度は、澪の方を見る。
澪は、すでに教室にいなかった。
放課後。
ひなたは昇降口で待っていた。
一人だ。いつもの友達はいない。
「来てくれてありがとう」
「……うん」
二人で歩き出す。
昨日より、距離が少しだけ遠い。
「昨日さ」
ひなたは、前を見たまま言った。
「黒川くん、ちゃんと考えてたよね」
「……考えてた」
「うん。わかる」
そこで、ひなたは足を止めた。
「だから、今日はお願い」
振り向く。
「選ばなくていいから」
その言葉に、少し驚いた。
「……どういうこと?」
「今日はね」
ひなたは、指をぎゅっと握る。
「私の話を、聞いてほしいだけ」
その言い方は、澪の言葉と重なった。
「何も言わなくていい。結論もいらない」
ひなたは、少し照れたように笑う。
「昨日、黒川くんが“一人で帰る”って言ったでしょ」
「……うん」
「あれ、ちょっとだけ救われたんだ」
意外な言葉だった。
「だってさ」
ひなたは、空を見上げる。
「選ばれなかったけど、切り捨てられた感じはしなかったから」
胸が、静かに痛む。
「私ね、わかってるの」
ひなたは続ける。
「黒川くんは、誰かを傷つけないように動いてる」
それは、正解でもあり、間違いでもあった。
「でもさ」
ひなたは、俺を見る。
「優しさって、時々、遅いんだよ」
言葉が、胸に残る。
「だから今日は、ただ聞いて」
「……うん」
ひなたは、少し安心したように息を吐いた。
「私、昨日ね、家で一人になったとき思ったの」
声が、少しだけ落ちる。
「私、元気じゃないと、誰もそばにいないって」
笑顔が消える。
「元気じゃない私を、黒川くんにだけは見せられる気がしてた」
その“だけ”が、重い。
「でも、黒川くんは、私だけの人じゃない」
ひなたは、そう言って笑った。
「それ、わかってる」
わかっているからこそ、苦しい。
「だからね」
ひなたは、少しだけ俺に近づく。
「今日は、私の“元気じゃない時間”を、預けるだけ」
俺は、何も言わずに頷いた。
話し終えたあと、ひなたは少しだけ軽くなった顔をしていた。
「ありがとう」
「……こちらこそ」
「じゃあ、今日はここまで」
ひなたは手を振る。
去っていく背中は、昨日より少しだけ強く見えた。
その帰り道、スマホが震える。
【雪村 澪】
『今日、昼……避けたみたいでごめん』
心臓が、きゅっと縮む。
『放課後、少しだけ時間ある?』
同じ言葉。
同じ距離感。
俺は立ち止まり、しばらく考えてから、短く返した。
『……ある』
既読。
『ありがとう』
それだけ。
同じ「ありがとう」なのに、
ひなたのと、澪のでは、温度が違う。
どちらも、俺を必要としている。
どちらも、俺を縛ろうとはしていない。
それが一番、逃げ場をなくす。
空を見上げる。
今日も、答えは出ない。
でも――
選ばないという選択が、
少しずつ形を変えて、俺に戻ってきている。
そのことだけは、はっきりと感じていた。
(つづく)




