選ばれなかった言葉
屋上の空気は、まだ張りつめたままだった。
風の音だけが、三人の間をすり抜けていく。
星野ひなたは笑顔のまま立っている。
雪村澪は無表情のまま、俺を見ている。
どちらも動かない。
俺だけが、言葉を探している。
「……二人とも」
喉が乾いて、声が少しかすれた。
「今日は……」
続きが出てこない。
“どちらかと帰る”という選択肢を、口にしたくなかった。
でも、“どちらとも帰らない”という選択も、同じくらい残酷だ。
ひなたが、先に口を開いた。
「ねえ、黒川くん」
声は明るい。
でも、その明るさは、無理に保っているものだった。
「私、約束してたよね」
「……うん」
「澪ちゃんも、今ここにいる理由があるんだよね」
ひなたは、澪の方をちらりと見てから、また俺を見る。
「だからさ」
ひなたは小さく笑った。
「今日は、黒川くんが決めていいよ」
その言葉は、優しさの形をしていた。
でも同時に、責任の形でもあった。
澪は何も言わない。
ただ、静かに俺を見ている。
視線が、逃げ道を塞ぐ。
「……俺は」
声が震えそうになるのを、必死で抑えた。
「今日は……一人で帰る」
その瞬間、空気が変わった。
ひなたの笑顔が、ほんの一瞬だけ揺れる。
澪の目が、ほんのわずかに伏せられる。
どちらも否定しない。
どちらも、納得していない。
ひなたは、すぐに笑顔を作り直した。
「そっか」
軽い声。
でも、その一言に、少しだけ間があった。
「じゃあ、仕方ないね。黒川くん、疲れてるもんね」
澪も、小さく頷いた。
「……うん。無理しないで」
責める言葉はない。
でも、許しているわけでもない。
俺は、二人から視線を外して言った。
「……ごめん」
ひなたは首を振る。
「謝らなくていいよ」
澪も、同じように言った。
「黒川が悪いわけじゃない」
その二つの言葉が、同時に胸を締めつける。
優しい言葉ほど、残る。
「じゃあ……またね」
ひなたはそう言って、先に屋上を出ていった。
その背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。
澪は、最後まで動かなかった。
「……黒川」
「うん」
「今日の答え、覚えておく」
責める声じゃない。
でも、忘れない声だった。
澪はそう言って、静かに屋上を後にした。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
一人になった屋上は、広すぎた。
俺はフェンスに手を置いて、深く息を吐く。
誰も選ばなかった。
でも、誰も救えなかった。
それが、今日の結論だった。
帰り道、街灯の下を一人で歩く。
スマホは、しばらく鳴らなかった。
それが、少しだけ楽で、少しだけ怖かった。
家に着いて、玄関で靴を脱ぐ。
その瞬間、スマホが震えた。
【星野ひなた】
『今日はありがとう。ちゃんと考えてくれたんだよね』
短い文章。
責める言葉はない。
少し間を置いて、もう一通。
『でもね、少しだけ寂しかった』
俺は、すぐに返事が打てなかった。
続けて、別の通知。
【雪村 澪】
『無理させてたなら、ごめん』
その下に、もう一通。
『でも、黒川がいなくなるのは、やっぱり嫌』
どちらも、俺を縛る言葉じゃない。
でも、放してもくれない。
俺は、ベッドに腰を下ろして、スマホを握りしめた。
誰かの居場所になるということは、
誰かの不安になるということでもある。
それを、今日、はっきり知った。
しばらくして、三つ目の通知が届く。
【朝比奈玲奈】
『今日は、少し静かだね。無理してない?』
画面を見つめながら、苦笑する。
無理していないわけがない。
でも、それを誰かに言えば、また誰かを選ぶことになる。
俺は、短く返した。
『大丈夫です。少し考え事してただけです』
既読がつく。
『そっか。じゃあ、今日はゆっくり休んで』
その言葉に、少しだけ救われた。
誰も、俺に答えを求めていない。
でも、誰も、俺を手放してもいない。
その中間に、俺は立っている。
灯りを消して、ベッドに横になる。
天井を見つめながら、思う。
今日は、何も選ばなかった。
でも――
“選ばない”という選択が、
誰かを傷つけていないとは言えない。
それでも、俺はまだ、選べない。
誰かを守るために、誰かを失う覚悟が、まだない。
胸の奥が、静かに痛む。
――このまま進めば、
――きっと、もっと苦しくなる。
それがわかっていても、
俺はもう、この関係から降りられない。
そう思いながら、目を閉じた。
次に目を開けたとき、
また誰かの声を待っている自分がいることも、わかっていた。
(つづく)




