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静かに重なる距離

朝の教室は、相変わらず騒がしい。

 机を引く音、椅子がぶつかる音、誰かの笑い声。

 昨日までなら気にも留めなかったはずの雑音が、今日は少しだけ遠くに感じた。

 理由は簡単だ。

 俺のスマホの画面に残る、雪村澪の「よかった」という三文字が、まだ消えていないからだ。

 ――あの場所、また行ってもいい?

 その一言に、俺は「いいよ」と答えた。

 たったそれだけで、何かを約束してしまった気がしている。

「黒川」

 背後から声がする。

 振り向くと、雪村澪が立っていた。

 昨日と同じ無表情。けれど、目だけが少しだけ柔らかい。

「……おはよう」

「おはよう」

 それだけの会話なのに、周囲の空気がほんのわずかに変わる。

 澪は、俺の机の横に立ったまま、少し迷うように指を組んだ。

「今日……放課後、時間ある?」

 その言い方は、屋上のときと同じだった。

「……ある」

 自然に答えてしまった自分に、少し驚く。

 澪は小さく息を吐いて、ほっとしたように頷いた。

「じゃあ、昨日と同じ場所で」

「……うん」

 それだけ言って、澪は自分の席に戻っていった。

 その背中を見ながら、俺は思う。

 昨日までは、話しかけられること自体が珍しかったのに。

 今は、それが当たり前になりかけている。


 昼休み。

「黒川くーん」

 今度は星野ひなたが、机に寄りかかるようにして声をかけてきた。

「今日のお昼、一緒に食べよ?」

「……いいけど」

「やった!」

 ひなたは、嬉しそうに隣の席に座る。

「ねえねえ、昨日さ」

 ひなたは箸を持ちながら、少しだけ声を落とした。

「先輩と電話してたでしょ?」

 心臓が一瞬だけ強く打つ。

「……なんで知ってるの?」

「たまたま見えた」

 ひなたは笑ったまま言う。

「夜、黒川くんって意外と忙しいんだなーって思って」

 冗談みたいな口調。

 でも、目は冗談じゃない。

「……忙しくはないよ」

「ふーん」

 ひなたは、少しだけ唇を尖らせた。

「黒川くんってさ、誰にでも優しいよね」

 その言葉は、責めていないのに、責められている気がした。

「……そうかな」

「うん。だからね」

 ひなたは箸を止めて、俺を見た。

「誰か一人のものにならないところが、好き」

 好き。

 その言葉は、はっきり恋を示すものじゃない。

 でも、軽くもなかった。

「でもさ」

 ひなたは、すぐに笑顔に戻る。

「誰か一人のものになったら……ちょっとだけ、寂しいな」

 その“ちょっとだけ”が、嘘だとわかるくらい、声は小さかった。


 放課後。

 屋上の鍵を開ける音が、静かに響く。

 澪は、昨日と同じ位置に立ち、同じように空を見上げた。

「……ここ、やっぱり落ち着く」

「……そうだね」

 二人きり。

 沈黙は、もう気まずくなかった。

「黒川」

「うん」

「昨日ね、家に帰ってから考えた」

 澪は、フェンスを見つめたまま言う。

「私、あの時……誰かに聞いてほしかっただけじゃない」

 風が、二人の間を通り抜ける。

「黒川に、聞いてほしかった」

 胸が、静かに鳴った。

「どうして?」

 澪は、少し困ったように笑う。

「……わからない。でも、黒川は、私を“優等生”として見てなかった」

「……人として見てただけ」

「それが、欲しかった」

 澪は、ゆっくりこちらを向いた。

「ねえ、黒川」

 距離が、昨日より近い。

「私、またここで泣いてもいい?」

 答えは、決まっていた。

「……いいよ」

 澪は、少しだけ目を潤ませて笑った。

「ありがとう」

 その瞬間、澪のスマホが震える。

 彼女は画面を見て、わずかに眉をひそめた。

「……ひなたから」

 その名前を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ冷える。

「何て?」

「……“黒川くん、今日屋上?”って」

 澪は、困ったように笑う。

「……見透かされてるね」

 その言葉に、冗談とも本音ともつかない響きがあった。

 俺は何も言えなかった。

 澪は、俺を見て言う。

「黒川は、どうしたいの?」

「……どう、って?」

「私といる時間と、ひなたといる時間と、先輩と話す時間」

 澪は、静かに続ける。

「全部、同じじゃないでしょ」

 胸が詰まる。

「……同じじゃない」

 正直に言った。

「でも、どれも……大事」

 澪は、少しだけ目を伏せた。

「……そっか」

 その返事は、優しくて、少し寂しかった。

 そのとき、屋上の扉が開く音がした。

 振り向くと、そこに立っていたのは――星野ひなた。

「……やっぱり、ここだった」

 ひなたは、笑顔のまま言う。

 でも、その笑顔は、昨日までより少しだけ硬い。

 澪とひなたの視線が、空中でぶつかる。

 俺は、その間に立ったまま、何も言えない。

 ひなたは、俺を見て言った。

「黒川くん、今日……私と帰る約束、してたよね?」

 澪は、静かに俺を見る。

「黒川、さっき……私と話してた」

 空気が、張りつめる。

 俺の喉が鳴る。

「……二人とも」

 声が、思ったより小さくなった。

「……少し、待って」

 その一言で、二人の表情が同時に揺れた。

 ひなたは笑顔のまま。

 澪は無表情のまま。

 でも、どちらも同じ目をしている。

 ――置いていかれるかもしれない目。

 その瞬間、俺ははっきりと理解した。

 俺はもう、ただ話を聞くだけの存在じゃない。

 誰かの中で、位置を持ってしまっている。

 その位置は、同時に複数にはなれない場所だ。

 風が、強く吹いた。

 フェンスが、かすかに鳴る。

 俺は、まだ答えを持っていない。

 それでも、三人の間に立ってしまったことだけは、もう覚悟するしかなかった。

(つづく)

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