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夜に届く声は、少しだけ重い

 星野ひなたと別れた帰り道、

 スマホの画面に残る朝比奈玲奈の名前を、俺はしばらく見つめていた。


『今、少しだけ話せる?』


 「少しだけ」という言葉は、いつも一番長くなる。


 俺は立ち止まり、指で短く返した。


『はい、大丈夫です』


 既読がつくまで、ほんの数秒。

 それなのに、やけに長く感じた。


 すぐに通話の着信音が鳴る。


 深呼吸して、耳に当てた。


「……もしもし」


『こんばんは、黒川くん』


 落ち着いた、低めの声。

 それだけで、昼間の空気とは別の時間に引き込まれる。


「こんばんは、朝比奈先輩」


『急にごめんね。今、大丈夫だった?』


「はい……帰り道です」


『そっか。じゃあ、歩きながらでいいよ』


 無理に引き留めるでもなく、放すでもない距離感。

 それが、朝比奈先輩らしい。


 少し沈黙が流れたあと、彼女は静かに言った。


『今日ね、後輩に言われたの』


「何て?」


『“先輩って、大人ですよね”って』


 苦笑が混じった声。


『その言葉、嫌いじゃないけど……好きでもない』


「……どうしてですか?」


『大人って言葉、便利でしょ。感情を持たなくていい免罪符になるから』


 その言い方に、胸が少しだけ締まる。


『本当は、全然大人じゃないのにね』


 夜風が頬に当たる。

 空は暗く、街灯だけが足元を照らしている。


「先輩は……十分大人に見えます」


『そう見えるようにしてるだけ』


 はっきりとした否定。


『泣きたいときに泣かない。怒りたいときに怒らない。弱いところを見せない。それを“大人”って呼ぶなら……私は、ずっと演技してる』


 言葉が、重く落ちる。


『ねえ、黒川くん』


「はい」


『もし私が、誰にも頼らずに平気な顔してたら……それ、正しいと思う?』


 正しいかどうか。

 俺は、答えに詰まった。


「……正しいかは、わからないです」


『じゃあ、間違ってる?』


「……それも、わからない」


 正直に言った。


『ふふ』


 先輩は、小さく笑った。


『黒川くんって、答えを無理に作らないよね』


「……作れないだけです」


『それがいいの』


 声が、少しだけ柔らかくなる。


『誰かと話してると、たいてい結論を求められるの。こうすべき、ああすべきって。でも、私は……ただ“迷ってる”って言いたいだけなのに』


 沈黙。

 電話越しに、彼女の呼吸だけが聞こえる。


『黒川くんはさ』


「はい」


『私が迷ってるって言っても、置いていかないよね』


 その言葉は、質問の形をしていなかった。

 確認だった。


「……たぶん、置いていかないです」


『また“たぶん”だ』


 でも、先輩は不満そうじゃなかった。


『その“たぶん”が、ちょうどいい』


 少し間を置いて、彼女は低く言った。


『今日、黒川くんに電話したのはね……理由があるの』


「理由……ですか?」


『昼間、澪ちゃんとひなたちゃんが、黒川くんの話をしてた』


 胸が、静かに鳴った。


「……え」


『直接じゃないよ。偶然、聞こえただけ』


 先輩は淡々と続ける。


『二人とも、黒川くんのことを“安心できる人”って言ってた』


 安心できる人。


『それを聞いたとき、少しだけ……羨ましかった』


 言葉の温度が、ゆっくり伝わってくる。


『私も、そう思ってるから』


 心臓の音が、はっきり聞こえる。


「……先輩」


『大丈夫、大丈夫』


 先輩はすぐに笑って見せる。


『今のは、重かったね。忘れて』


「忘れられません」


 自分でも驚くくらい、素直な声が出た。


 電話の向こうで、先輩が一瞬だけ黙る。


『……黒川くん』


「はい」


『あなたって、本当にずるいね』


「……え?」


『何もしないのに、人を安心させる』


 それは褒め言葉なのか、呪いなのか、わからなかった。


『だからさ』


 声が、少しだけ小さくなる。


『もし、私が弱くなったら……ちゃんと聞いてくれる?』


 昨日の澪。

 今日のひなた。

 そして、今の先輩。


 同じ問いが、形を変えて繰り返される。


「……聞きます」


 短く、でもはっきり言った。


 先輩は、ほっと息を吐く音を漏らした。


『ありがとう』


 それだけで、何かを受け取ってしまった気がした。


『もうすぐ家に着く?』


「はい」


『じゃあ、今日はここまでにしよっか』


「……はい」


『おやすみ、黒川くん』


「おやすみなさい、先輩」


 通話が切れた。


 部屋に戻り、鞄を床に置く。


 スマホを机に置いた瞬間、通知が一つ。


【雪村 澪】


『今日は……ありがとう。』


 短いメッセージ。


 その下に、少し時間を空けて、もう一通。


『あの場所、また行ってもいい?』


 俺は、しばらく画面を見つめてから、ゆっくり打った。


『……いいよ』


 送信。


 すぐに既読がつく。


『よかった』


 たった三文字なのに、胸が少しだけ温かくなる。


 ベッドに座り、天井を見上げる。


 澪は、俺に“聞いてほしい”と言った。

 ひなたは、“そばにいてほしい”と言った。

 先輩は、“迷っても置いていかないでほしい”と言った。


 誰も、好きとは言わない。

 誰も、恋とは言わない。


 でも――


 俺はもう、ただのモブじゃない。


 誰かの中で、役割を持ってしまった。


 それが優しさなのか、罪なのかは、まだわからない。


 スマホを胸に抱えながら、俺は小さく息を吐いた。


 ――このまま進んだら、

 ――きっと、戻れない。


 そう思いながらも、

 俺は誰かから届く次の声を、少しだけ待ってしまっていた。


(つづく)

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