笑っている子の、隠している場所
教室の空気は、いつも通りだった。
誰かが笑って、誰かが文句を言って、誰かが机に突っ伏している。
それなのに、昨日までと同じ景色が、少しだけ違って見える。
理由は簡単だ。
俺の袖をつかんだ、あの感触が、まだ残っているからだ。
雪村澪。
屋上でのあの時間は、たぶん彼女にとっても、俺にとっても、ただの放課後ではなかった。
なのに――。
「おはよー、黒川くん!」
その声で、現実に引き戻される。
星野ひなたが、いつも通りの明るさで俺の机の前に立っていた。
太陽みたいな笑顔。少し大きめの声。クラスの空気を自然に和らげる存在。
「……おはよう」
ひなたは、俺の返事に満足そうに頷くと、机に手をついて身を乗り出した。
「ねえねえ、昨日さ、黒川くんどこ行ってたの?」
心臓が、わずかに跳ねた。
「え……どこって?」
「放課後! 探したのにいなかったからさ」
探した。
その言葉が、思った以上に重い。
「……ちょっと、用事」
「用事〜?」
ひなたは首を傾げる。
その仕草は可愛らしいのに、どこか探るようでもあった。
「もしかして……屋上?」
息が止まりかけた。
「なんで――」
「勘!」
ひなたは笑ってごまかしたけれど、目だけは冗談じゃなかった。
「屋上ってさ、閉鎖されてるでしょ? なのに昨日、澪ちゃんもいなかったんだよね」
名前が出た瞬間、背中が少しだけ冷たくなる。
「……偶然じゃない?」
「うん、偶然かも」
ひなたはそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「でも、黒川くんって、澪ちゃんと話すタイプじゃないと思ってたから」
その言い方に、責める色はない。
けれど、“距離”を測っている気配は、はっきりあった。
「俺、誰ともあんまり話さないよ」
「うん。でもさ」
ひなたは、ほんの一瞬だけ笑顔を消した。
「話さない人ほど、聞いてくれるんだよね」
昨日、澪が言った言葉と、どこか重なる。
俺は何も返せなかった。
ひなたはすぐに表情を戻して、いつもの調子で言う。
「まあいいや! 今日はさ、一緒に帰ろ!」
「……え?」
「用事ないでしょ?」
ない、と言えば断れる。
でも、ひなたの目は、もう“断られない前提”で笑っていた。
「……うん」
それしか言えなかった。
放課後。
ひなたは、俺の隣を自然に歩く。
距離は近いのに、触れない。
でも、触れられないからこそ、意識してしまう。
「黒川くんってさ」
「うん?」
「誰かと帰るの、久しぶりじゃない?」
「……まあ」
「でしょー!」
ひなたは嬉しそうに言った。
「私ね、人と一緒に帰るの好き。何でもない話しながら歩くの」
夕方の風が、制服のスカートを揺らす。
「何でもない話って、どんな話?」
「例えばね」
ひなたは指を折りながら言った。
「今日の給食のプリンが小さかったとか、数学の先生の声が眠くなるとか、帰り道の猫が可愛いとか」
「……平和だね」
「平和が一番でしょ」
そう言いながら、ひなたは少しだけ視線を落とした。
「……平和じゃない日は、疲れるから」
声は軽い。
でも、その奥に、昨日の澪と似た影を感じた。
俺は、意識してゆっくり言った。
「……疲れる日、あるの?」
「あるよ。めちゃくちゃ」
ひなたは笑ったまま答える。
「でもね、私が疲れてるって言うと、みんな困るんだよ」
「困る?」
「だってさ、“ひなたが元気ないとか似合わない”って言われる」
足が止まった。
ひなたも立ち止まり、少し照れたように肩をすくめる。
「私、元気担当だから」
その言葉が、胸に残る。
元気担当。
役割。
澪の“優等生”と、同じ匂いがした。
「黒川くんはさ」
ひなたは、俺を見上げた。
「私が元気じゃなかったら、どう思う?」
どう思う、か。
「……普通だと思う」
正直に言った。
「元気じゃない日もあるでしょ」
ひなたは、目を瞬かせた。
「……それだけ?」
「それだけ」
ひなたは数秒黙ってから、ふっと笑った。
「そっか」
その笑顔は、少しだけ柔らかかった。
「黒川くんって、変だね」
「悪い意味で?」
「いい意味で」
そう言って、また歩き出す。
しばらく沈黙が続いた後、ひなたは小さく言った。
「ねえ、黒川くん」
「うん」
「もし私がさ」
ひなたは、歩きながら前を見たまま言う。
「急に元気じゃなくなって、笑えなくなったら……黒川くんは、そばにいてくれる?」
昨日の澪と、似た問い。
探す?
そばにいる?
形は違うのに、意味は同じだ。
「……たぶん、いると思う」
ひなたは、驚いた顔をしてから、すぐに笑った。
「たぶん、かあ」
「……絶対って言えるほど、自信ないだけ」
「それでいい」
ひなたは、ほんの少しだけ歩幅を縮めた。
「黒川くんはさ、優しいよ」
「……そうかな」
「うん。無理に優しくしないところが」
俺は、その評価をどう受け取ればいいかわからなかった。
しばらく歩いたあと、ひなたの家の近くに着く。
「ここでいいよ」
ひなたは立ち止まって、俺の方を向いた。
「今日はありがとう」
「……こちらこそ」
ひなたは一歩近づいて、小さな声で言った。
「黒川くん」
「うん?」
「昨日、誰と屋上にいたかは聞かない」
心臓が、一瞬だけ強く打つ。
「でもね」
ひなたは、目を細めて微笑んだ。
「黒川くんが、誰かの“特別な場所”になるなら……ちょっとだけ、寂しいかも」
その言葉は、冗談みたいで、冗談じゃなかった。
「じゃあね」
そう言って、ひなたは手を振って家の方へ歩いていく。
その背中を見送りながら、俺は思った。
澪は、俺を“聞いてくれる人”として必要としている。
ひなたは、俺を“そばにいてくれる人”として欲しがっている。
どちらも、恋とは違う。
でも、どちらも――無関係じゃない。
帰り道、スマホが震えた。
画面には、見慣れた名前。
【朝比奈玲奈】
学姐からのメッセージだった。
『黒川くん。今、少しだけ話せる?』
胸の奥が、静かに重くなる。
俺は、ただ話を聞いていただけのはずなのに。
気づけば、誰かの“居場所”になりかけている。
――そして、その場所から、もう簡単には逃げられない気がしていた。
(つづく)




