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モブの俺が、誰かの“現実”になるまで

 黒川透――くろかわ・とおる。

 出席番号は真ん中あたり、身長も平均、成績も平均。誰かに覚えられるほどの特徴は、たぶんない。


 教室の端、窓際から二つ内側。そこが俺の席だ。

 陽は当たるけど、視線は当たらない。ちょうどいい。


 クラスには主役がいる。声の大きい奴。いつも輪の中心にいる奴。運動部のエース。文化祭の実行委員。

 そういう連中が光を集めて、世界は回っていく。


 俺は、回る世界の外周にいる。


 別に不満があるわけじゃない。

 目立てば、面倒が増える。期待も増える。失敗も増える。

 だから、静かな場所で、静かに息をしているのが一番安全だ。


 ……そう思っていた。あの日までは。


 放課後。

 教室が少しずつ空になっていく時間帯は、俺が一番好きな時間だった。


 机の上に置いた参考書を閉じ、鞄に入れる。

 周囲の会話は遠く、誰も俺を呼ばない。

 それが、いつもの日常。


「黒川」


 背中から、名前を呼ばれた。


 反射で肩が跳ねた。

 俺の名前を知っている人間は、クラスの名簿を読む以外にほとんどいない。呼ぶ理由も、なおさら。


 ゆっくり振り向く。


 そこに立っていたのは――雪村澪だった。


 黒髪をきっちりまとめた優等生。姿勢が良くて、目線がまっすぐで、いつも感情が見えない。

 制服の着こなしも乱れなく、成績は学年上位。先生からの信頼も厚い。


 そして、たぶんクラスで一番「触れちゃいけない空気」を纏っている。


「……なに?」


 声が思ったより小さく出た。

 雪村は、俺の机の横まで来ると、ほんの少しだけ視線を落とした。


「時間、ある?」


「え……」


 ない、と言ってしまえば、この会話は終わる。

 でも、彼女の顔が――いつもと違った。


 冷たい仮面みたいな表情の裏に、ほんの薄い疲れがある。目の下の影が、妙に現実的だ。

 まるで、長い間息を止めていた人が、呼吸の仕方を忘れたみたいな。


「……少しなら」


 口が勝手に答えた。

 雪村は小さく頷き、言った。


「じゃあ……屋上、行こう」


 屋上。

 閉鎖されているはずだ。

 なのに、彼女は当然のようにそう言って、廊下へ出ていく。


 俺は少しだけ迷ってから、鞄を持って後を追った。


 屋上へ通じる扉は、確かに鍵がかかっていた。

 でも雪村は、制服のポケットから鍵を取り出し、迷いなく回した。


「……それ、どこで……」


「前の学級委員から借りた」


 借りた、の一言が軽すぎて、突っ込む気力が削がれる。

 扉を開けると、春の冷たい風が顔に当たった。


 フェンス越しに見える空は広い。グラウンドからは部活の掛け声が遠く響く。

 ここだけ、世界から少し切り離されたみたいだった。


 雪村はフェンスの近くまで歩き、風に髪を揺らしながら言った。


「ここ、誰も来ないから」


「……うん」


 沈黙。

 話を聞くために来たはずなのに、何を言えばいいかわからない。


 雪村は、しばらく空を見ていた。

 そして、ぽつりと呟いた。


「黒川ってさ」


「なに?」


「人の話、ちゃんと聞くよね」


 心臓が変なタイミングで跳ねた。

 俺が聞く? 誰の話を?


「そう……かな」


「うん。聞いてるふりじゃない。……ちゃんと“そこ”にいる」


 その言い方が、妙に刺さった。

 俺が“そこ”にいる。

 存在感のない俺が。


 雪村は少しだけ笑った。笑ったというより、笑う形を思い出したみたいな表情だった。


「だから、お願いがある」


「お願い?」


 彼女は、俺の方を向かないまま続けた。


「今日は、何も言わなくていい。慰めなくていい。正論もいらない」


 風の音が一瞬強くなった。


「ただ……聞いてほしい」


 その言葉に、俺は理由もなく「はい」と言いそうになった。

 でも、聞くだけって何だ。そんなの、誰にでもできるだろう。俺じゃなくても――


「……なんで俺?」


 口に出してから、少し後悔した。

 雪村はゆっくり首を振る。


「他の人には、無理」


 あまりに断定的で、逆に怖い。


 彼女はようやくこちらを見た。

 視線が合った瞬間、俺は息を止めた。


 澪の目は、澄んでいて、冷たい。なのに、その奥に亀裂みたいなものがある。

 割れそうで、割れてほしくない。そう思わせる危うさ。


「私ね」


 雪村澪は、言った。


「最近、自分が何をしたいのか、わからなくなった」


 それは、想像していたよりずっと普通で、ずっと重い言葉だった。


「勉強も、部活も、進路も。全部、ちゃんとやってるはずなのに」


 彼女は制服の袖を握った。指先が白くなるほど。


「ちゃんとやってるのに、何も残らない。……私、何のために生きてるんだろうって」


 風が、彼女の髪を揺らした。

 でも、彼女自身は揺れなかった。揺れたら壊れると知っているみたいに、硬く立っている。


 俺は、言葉が出ない。


 ここで「大丈夫」と言うのは簡単だ。

 「頑張ってるよ」と言うのも簡単だ。

 でも、それは彼女が求めているものじゃない気がした。


 雪村は、ふっと息を吐いた。


「みんな、私のこと“優等生”って呼ぶでしょ」


「……うん」


「その言葉って、便利だよね。期待してもいい免罪符になる。失敗したら失望していい理由にもなる」


 唇だけで笑う。


「優等生なら、できるはず。優等生なんだから、泣かない。優等生なんだから、迷わない」


 彼女は、小さく首を傾けた。


「ねえ黒川。優等生って、どこまでやったら人間に戻れるの?」


 ――言葉が、胸に落ちた。


 俺は初めて、雪村澪を“遠い人”じゃなく、“すぐ隣の誰か”として見た。


 そして気づく。

 俺はこの瞬間、彼女の言葉を受け止める役を、すでに引き受けてしまっている。


「……わからない」


 正直に言った。


 雪村は少し驚いた顔をした。

 たぶん、綺麗な答えを期待していたわけじゃない。

 でも、誰かが“わからない”と言ってくれたことが、意外だったのかもしれない。


「そっか」


 澪は小さく頷いた。


「わからないよね。……私も、わからない」


 その言葉だけで、屋上の空気が少し軽くなった気がした。


 しばらく、俺たちは黙っていた。

 遠くからチャイムが鳴り、部活の声が強くなる。

 世界はいつも通り動いているのに、ここだけ時間が遅い。


 雪村が、ぽつりと言った。


「……黒川はさ」


「うん?」


「もし、私が明日、学校に来なかったら」


 喉がひゅっと鳴った。

 悪い想像が頭に浮かぶ。すぐに振り払う。


「どうしてそんなこと――」


「仮定。……仮定の話」


 澪はフェンスに指を置いて、遠くを見つめたまま言った。


「来なかったら……探す?」


 探す、という言葉が、妙に生々しい。

 俺は、息を吸って、吐いて、言った。


「……探すと思う」


 澪が、ほんの少しだけ目を細めた。


「……そう」


 それから、彼女は振り向き、俺の袖をつまんだ。

 触れられた場所から、熱が広がっていく。


「じゃあ、もう一つお願い」


「なに?」


 雪村澪は、ほとんど聞こえない声で言った。


「今日だけでいい。……帰るまで、一緒にいて」


 心臓が、変に速くなった。

 断る理由はない。

 でも、引き受けた瞬間、何かが変わる気がした。


 このまま進んだら、もう“モブ”には戻れない。

 そんな予感。


「……うん」


 そう答えた俺に、澪は一瞬だけ安心したような顔を見せた。


 そして、屋上の扉の方へ歩き出す。


 その背中を追いながら、俺は思った。


 ――俺はただ、話を聞いていただけなのに。

 ――どうしてこんなに、胸が苦しいんだろう。


 階段を降りる途中、澪のスマホが震えた。

 通知を見た彼女の指が、ほんの少し止まる。


「……どうしたの?」


 澪は画面を伏せて、短く言った。


「何でもない」


 嘘だ、と直感が言う。

 でも、俺はそれ以上踏み込めなかった。


 そのとき、廊下の曲がり角の向こうから、明るい声が聞こえた。


「――あれ? 黒川くん?」


 振り向くと、星野ひなたが立っていた。

 いつも笑っている、太陽みたいな子。

 けれど今は、その笑顔が少しだけ固い。


 ひなたの視線が、俺の隣にいる澪へ移る。

 澪もまた、無表情でひなたを見る。


 空気が、一瞬で張りつめた。


 ひなたは笑顔のまま、言った。


「黒川くん、今日……放課後、少しだけ時間あるって言ってたよね?」


 ――言ってない。

 俺はそんな約束をした覚えがない。


 でも、ひなたの声は優しくて、逃げ道を塞ぐみたいに自然だった。


 澪の指が、俺の袖を離さない。

 ひなたの瞳が、俺を見つめている。


 俺は、何も言えなかった。


 ただ、わかったのは一つだけ。


 この日から俺の“いつもの日常”は、もう戻らない。


(つづく)

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