まとめ4(允恭天皇から)
19代允恭天皇は、氏姓の乱れを正したそうだ。有力な豪族たちでごたごたしていたのを正そうとし始めたのかも?
皇后は忍坂大中姫で、息長さんとかに関りが深いと思われる人(母も息長の人)。
允恭天皇は従兄弟(またはおじ)にあたる葛城さん(ソツヒコの子か孫)を殺害。大物の葛城氏の排除が始まったのかな。
皇后との間には男子が5人いて、かなりごたごたがあった。
まず長男(木梨さん)は、同母妹との近親相姦が元で流刑になり、後に自害したか殺されたかしている(後に雄略天皇になる五男、オオハツセによって)。
三男が即位して安康天皇に。
祖父、仁徳天皇には桑津に住まわせた妻(髪長姫)がいたけれど、この人は大草香皇子なる男子と草香ハタビ姫って女子を産んでいる。
安康天皇はこの大草香皇子を誤解が元で処刑してしまったらしい。そして大草香皇子の妻を自分の皇后にした。皇后には眉輪王っていう幼少の息子がいたのだけれど、この眉輪王が、実の父は新しい父に殺されたということを知って、暗殺を決行。6歳とかだったみたいなのだけど。
オオハツセは、天皇暗殺の共犯者として兄たち(次男と四男)を疑ったかなにかで、兄の一人(次男)を殺害。
もう一人(四男)の坂合さんは眉輪王と一緒に逃げたそう。そして葛城ソツヒコの孫(葛城円)のおうちへ。
眉輪王、坂合さん、円さんみんな焼き殺されたそうだ。すべて(眉輪王による暗殺の部分も)裏で糸を引いていたのはオオハツセだと推理されている。
そして一人残ったオオハツセが即位(雄略天皇)。
葛城円の娘(葛城韓姫)は雄略天皇の妻になり、葛城氏の5つの屯倉は雄略天皇のものになったそう。
力ある者が他の人の土地や娘や命を奪う、そんな時代だったんだな。雄略天皇は物部、大伴、平群など武力系の人たちを重用していたし、四の五の言わせない武力も手にしたんだな。
吉備、播磨、伊勢にも兵を送り、勢力を削いでいるそうだ。
都は桜井の方にあったのかな(不明)。
河内は物部氏や凡河内氏(息長氏と同じアマツヒコネの血をひく。アメノホヒ系もいたらしい)に任されたみたい。
王家の港は住吉津で、雄略天皇の時、呉坂(呉人のための道)をつくってシハツ道とつなげたのだって。シハツ道は住吉津の南あたりから東に向かう道と思われ、今の長居公園あたりにあったのだろうと言われている。言い伝えでは、矢田(大阪市東住吉区)の圓明寺あたりでシハツ道と西除川が交差していたそうだ。川の東には天神山。天神山って散歩しているとよくあるけれど、大阪にもかつてはあったんだな。
上陸した人々は、そこを通って行ったんだな。
皇后は叔母の草香ハタビ姫。仁徳天皇と髪長姫との間の娘。眉輪王の父の妹ね。
けれど子はなく、葛城韓姫が産んだ皇子が次期天皇に(清寧天皇)。
お墓は丹比の高鷲に。
当時、大阪に難波吉士なる氏族がいて、大彦命の子孫だそう。
草香ハタビ姫に関わっていたのかもしれない日下部氏も大彦命の子孫(大彦命の子のサホヒコの子孫)で、雄略天皇の同母兄の坂合さんに関わっていたのかもしれない坂合部氏もまた大彦命の子孫だって(坂合部宿禰はアメノホアカリ一族)。
清寧天皇は子がないまま死去。
次の天皇のなり手がいなくなってしまった。雄略天皇は自分の兄弟はじめ、有力な皇子たちを次々亡き者にしていたらしい。(これもいろんなごたごたがあったのを雄略天皇一人に集結してしまったのかも?)
危険を感じて身を隠した人もいた。
そして天皇のなり手がいないよ~となっていた時、名乗りを上げた人がいた。
雄略天皇によって殺害された、雄略天皇の従兄弟の息子たち。二人は播磨に身を隠していたらしい。
彼らが23代、24代天皇に。
近江・美濃グループと同じくらいの力をもちながら、神功皇后の時に皇子たちを倒されてしまった播磨グループが、悲劇の皇子の子どもたちをかくまっていたのかな。
24代天皇(仁賢天皇)は、自分たちの父を殺した雄略天皇の娘を皇后にして25代天皇や手白香皇女をもうけた。
けれど25代は若くして死亡。
またも天皇のなり手がなくなり、親戚の中から探されることに。アマテラスの子孫でなければならなかったのね。
最初は丹波の人に白羽の矢がたったそうだ。でも拒否られた。
あまり天皇になりたがる人がいないのも気になるところだなあ。よほど強い後ろ盾がなければ、危険なだけの時代だったのかな。
次には越前(福井県)にいたオホドに白羽の矢がたった。オホドは、雄略天皇の母、忍坂大中姫(応神天皇の血をひく)の同母兄のひ孫。
越前は近江・美濃からいったら近所かな(すぐ北)。当時は越前、越後と分かれていない越(高志)だった時代。大彦命が四道将軍として派遣され、子孫が住んだあたりかな。
もっと昔にはアメノホアカリの子の天香山命(越後の開拓神)が二田天物部と共に向かったというところ。
行ったこともないけれど、尾張氏(天香山命の子孫)と大彦命の子孫たちが築いていた勢力があったのかな?
オホドは即位して継体天皇に。6世紀初めのことだったみたい。
都は樟葉、筒城、弟国、それから大和へ。
真の継体天皇陵といわれる今城塚古墳が築かれた。
そこで力士の埴輪を見て衝撃を受けたのだけれど・・・改めてまとめてみると、野見宿禰の時代からけっこう経っているなあ。今の力士と変わらない力士像がつくられていても、そうおかしくもないように思えてきた。
今城塚古墳のある三島(高槻、茨木あたり)は百舌鳥・古市古墳群に負けないくらい古墳の多いところ。早い時期から水稲が行われ(安満遺跡)、銅鐸が大量生産され、有力者もいて(3C後半の安満宮山古墳)、神功皇后の頃にはアメノホアカリ系が席巻していたのかな。
淀川をはさんで枚方があって、淀川をさかのぼれば近江。
継体天皇の皇后は仁賢天皇の娘の手白香皇女。雄略天皇の孫でもある。
皇后は息子を一人産み、後に欽明天皇(29代)に。
けれど継体天皇が亡くなったときはまだ少し若輩だったのかな、尾張氏の娘が産んだ息子がつなぎでか、27代天皇に(安閑天皇)。
皇后は仁賢天皇の娘(母はワニ系)。すでに老齢で、4年で死去した。
この天皇の時、犬養(犬飼)部がおかれたそうだ。
海犬養は海神ワタツミの子孫、安曇犬養は「海神大和多羅の三世孫ホコツクの子孫」とかで、葛城稚犬養はアメノホアカリ系? そして県犬養はツヌコリの子孫。
安閑天皇陵と言われる古墳が高屋(羽曳野市)にあって、いろんな珍しい宝物が見つかっているってことだった(ガラス製のお椀とか)。船で海外に渡る人々が周りにいたのだろうな。
それから同母弟が28代天皇に(宣化天皇)。
皇后は仁賢天皇の娘(手白香皇女の同母妹)。皇后が産んだ皇子の子孫が多治比嶋。アメノホアカリ系の丹比氏のいた丹比に住んで多治比氏になったみたい。
大臣に蘇我稲目がいた。
宣化天皇も老齢だったようで、短い治世に終わった。
そして29代欽明天皇が即位。まだ若く、この人の治世は長かった。
欽明天皇は推古天皇のお父さんだ。随分近代になってきたなあ。
皇后は宣化天皇の娘。
欽明天皇が即位した直後くらいに(540年)、大伴金村は百済(聖王)に与して任那を百済に割譲したとかで物部氏に糾弾されて失脚。住吉に隠居したのだって。
その頃、百済と交易していたヨサミアビコ一族は、百済の聖明王から観音像を贈られた。それを祀ったのが住吉区のあびこ観音になった(50年くらい経った607年、聖徳太子がその像を安置する観音寺を創建)。
聖明王は善光寺に祀られることになる仏像も天皇に贈り、これが公的な仏教伝来とされている(552年?)。
555年 吉備に白猪屯倉を置く。
559年 欽明天皇が任那の復興を願い、応神天皇(誉田天皇)陵の前に誉田八幡を祀る(誉田八幡宮)。
562年 新羅により任那が滅ぼされる。欽明天皇は新羅を討とうとするけれど失敗。
569年 白猪屯倉に百済王族の子孫が派遣される。これが後の葛井氏。
なんだろう、とっても国際的だし、離れた吉備も手中にしている様が分かる。
欽明天皇の頃には仏教の公式な伝来の他、蘇我氏の台頭、物部氏との戦いなどがあった。
けれど急にそういうことになったわけじゃなく、以前からの流れだったのだろうな。
有力な氏族がいて天皇家と結びつき(蘇我氏みたいに)、邪魔な勢力は排除され(物部氏みたいに)、公式じゃなくても仏教などいろんな物事が日本に入ってきていたのだろうな。
これから蘇我氏は自分たちの血をひくものを天皇にしたり、天皇を殺したり、いろいろあって、結局は滅びる。記録にしっかり残っているそれらのことが、記録にないだけで、もっと以前から繰り返されていたのだろうな。




