まとめ2(イクさんから)
いろいろ歩いてきた中で、わたしは勝手に想像している。
弥生時代、大阪湾岸にはイクさん(仮称)ってドンがいたのじゃないか。
高魂命(タカミムスビ)ーイクタマ(伊久魂命)-天押立命-スエツミミ-??-剣根命(葛城氏の祖)
という系図があって、そのイクタマあたりの人たち。
剣根命は神武天皇の時に葛城国造になったというから、神武天皇の時代の人。
イクさんは大物で、イクさんと血縁になってみんな大物になっていったんじゃないか。
葛城氏だけじゃなく、たとえば剣根命の娘がアメノホアカリの子孫の天忍人(か、その息子)と結婚して、その子孫が尾張氏や津守氏になったという話もあった。
剣根命のおじいさん、スエツミミの娘はコトシロヌシ(オオクニヌシの息子?)の子も産んでいる(その子孫がオオタタネコ)。
集落の中だけで婚姻していたのじゃあ血が濃くなっていくばかりだし、どんどん他の集落とまじりあっていったのだろうな。
長原に古くから住んでいた人々、出雲から上陸した人々、いろいろまじりあって、イクさんが生まれたのかも?
天皇家も、関西にやって来て最初のうち、オオクニヌシの子孫とかと姻戚になっていっている。
周辺の氏族たちも同様で、そしてやがて尾張氏とか、葛城氏とかになっていったのかな。天皇家はそんな彼らとも姻戚に。
6代孝安天皇の母は尾張氏で(同母兄に天足彦命。天足彦命の子孫には猪甘氏など)、8代孝元天皇の母は磯城県主の娘。
磯城県主は神武天皇に下った先住民、オトシキの子孫。この一族は物部たちとも関係を深めていたみたいで、それと関係あるのかな? 9代開化天皇の母はイカガシコオ(物部氏の祖)のおば、ウツシコメ。
ウツシコメはニギハヤヒの子孫。開化天皇の同母兄が大彦命(阿倍氏の先祖)。
ウツシコメの姪っ子にイカガシコメがいて、イカガシコメも9代天皇の妻になって子を産んでいる。それがヒコフツオシマで、そのひ孫が葛城ソツヒコだって。
剣根命の子孫に荒田彦がいて、ヒコフツオシマの孫(武内宿禰)と荒田彦の娘との間に生まれたのが葛城ソツヒコ。葛城ソツヒコにもニギハヤヒの血が混じっていたんだな。イカガシコメの孫の孫になる。
武内宿禰は、多くの氏族の祖として有名な人だ。この人の多くの妻が産んだ子たちがいろんな氏族になったとされている(葛城の他、蘇我、平郡、巨勢など)。その武内宿禰も、天皇家、ニギハヤヒ一族、イクタマ一族の血をひく人だったんだな。
9代天皇は父の妻の一人だったイカガシコメを皇后にして、10代崇神天皇が誕生。
崇神天皇の異母兄弟にタケトヨハヅラワケ(ヨサミ氏の祖)や、彦坐王(母は天足彦命の孫オケツヒメ)。
彦坐王の妻の一人に天之御影主(アマツヒコネの子孫で、製鉄王)の娘(息長水依ヒメ)がいる。母の妹(オケツヒメ2)も妻にしていて、それで生まれたのが山代大筒木真若王、そのひ孫が神功皇后。オケツヒメはワニ氏(の元)の娘らしくて、天足彦命の孫ってことは尾張氏の血もひくってことだな。
崇神天皇の皇后は大彦命の娘。妻には尾張氏の娘もいる。
アメノホアカリの子孫とか、ニギハヤヒの子孫とかと姻戚になりながら、天皇家は大きくなっていったのね。というか、聖徳太子の時代、天皇家はほぼ蘇我氏だったみたいに、この頃、天皇家はほぼ尾張氏や物部氏(の元)だったのかも。
当時、有力者は大和と河内、両方に勢力地を持っていた感じがする。天皇家も大和に宮をもちつつも、西の低地の河内にも行宮をおいたりしている。安心感のある奥地、大和と、港のある、新開地、河内って感じだったのかな? 巨大だった河内湾は流れてきた土砂で勝手に埋め立てられて、新しい土地がどんどんうまれていっていただろうし、そこにも有力者は勢力を広げていったのかな。
10代崇神天皇もまた河内に桑間宮をおき、ヨサミ池を造成。
各地に将軍(四道将軍)を送ってもいる。一人は伯父で舅の大彦命、一人は彦坐王の息子(甥になるのかな)。
一人は大伯父の吉備津彦(7代天皇の息子)で、製鉄が盛んだった吉備に送られている。
もう一人は大彦命の息子。東海に派遣され、その子孫が後に阿倍氏になった。
そして11代垂仁天皇の母は大彦命の娘(ミマキヒメ)。異母兄弟にトヨキイリヒコ。
12代景行天皇の母はヒバス姫(彦坐王と息長水依ヒメとの孫娘)。同母兄にイニシキイリヒコ。
イニシキイリヒコは和泉に高石池とチヌ池(狭山池も?)を造りに行った人だ。和泉に宮をおいて剣を1000もつくり、忍坂へ、後に移して石上神社(天理市)へ。石上神社は武器庫だったかもしれないそうだ。最終的にそこを任されたのは物部氏。
大阪湾岸はイクさん(仮称)王国だったけれど、南のほう(和泉鳥取あたり)にはツヌコリ王国があった、と勝手に思っている。ツヌコリ一族は古くから製鉄や機織りも行っていた進んだ人たち(一族には鳥取(捕鳥)氏もいる)で、彼らに剣をつくってもらったとかだろうか?
既に天皇家は「剣1000本、よろしく」といえるくらいの立場だったのか、吉備津彦経由などでゲットした吉備の、もしくは、製鉄王なる人の子孫がオジさんとかにいただろうし、その製鉄のノウハウをツヌコリ王国のノウハウとわけあったのか、池をつくることと引き換えにだったのか、イニシキイリヒコ自体と引き換えにだったのか・・・
ツヌコリ王国からはツヌコリの子孫(曾孫?)の天湯川タナが柏原あたりにやって来て、そこで製鉄を行っていたふしがある(柏原市に天湯川田神社が鎮座する)。
天湯川タナとイニシキイリヒコ、和泉のドンの長男と大和のドンの長男とが交換(?)されたのかもしれないな、なんて思う。
13代成務天皇の母は美濃の八坂入姫(景行天皇のいとこで、尾張系?)。同母兄弟にイオキイリヒコ(息子は応神天皇の舅になるホムタ)。
八坂入姫は二人目の皇后で、一人目は播磨稲日大郎ヒメ(吉備津彦の弟、ワカタケヒコの娘)。その播磨某の産んだ異母兄にオオウスとコウス(ヤマトタケル)がいる。
播磨某の妹も景行天皇の妃になっていて、生まれたのが、彦人大兄命(大江王)。この人の娘(大中姫命)は14代仲哀天皇に嫁いで忍熊王らを産むことになる。忍熊王らは神功皇后(仲哀天皇の皇后)と敵対することになる皇子たち。
12代景行天皇の終わり頃から13代成務天皇にかけては近江に宮があったそうだ。
成務天皇についてはあまり分かっていないようで、14代天皇になったのはこの人の息子ではなく、甥っ子にあたる仲哀天皇。父はヤマトタケル、母は垂仁天皇の娘で、同母妹に布忍入姫。
もしかすると播磨某の実家が強力になって勢力をひろげ、以前からの勢力グループの成務天皇は近江や美濃に退いていた、とかかな? ただの想像だけれど。そして14代には播磨グループとも関わりのある(祖母が播磨某)仲哀天皇が即位したとか?
仲哀天皇は天皇になる前にだろうな、大中姫命と結婚して忍熊王らをもうけている。
けれど天皇になって、22歳くらいだった息長タラシ姫を皇后に(神功皇后)。
近江や美濃には彦坐王の子孫がいて、勢力をもっていたみたい。神功皇后も彦坐王の子孫。
近江・美濃グループ(イクタマ一族、アメノホアカリ一族、ニギハヤヒ一族など、古くから天皇家と関係が深かったグループのうち、近江や美濃を本拠地にしていた人たち)と、吉備・播磨グループ(吉備津彦の血もひいているし、吉備も入れてみた)の力がまた拮抗してきたのかな。
数年後、仲哀天皇は急死して、妊婦ながら神功皇后は三韓征伐へ。
帰国すると、播磨で挙兵した忍熊王らと戦いに。忍熊王らは劣勢になり、住吉や宇治、大津に逃げ、結局、破れて亡くなった。神功皇后は自分の産んだ息子、ホムタワケを次期天皇に(応神天皇)。
神功皇后に協力したアメノホアカリ一族が住吉大社の社家となったのかな。
勝手に想像するに、当時、榎津あたりにはアメノホアカリ一族が(七道に住んでいたっていう)、住吉津あたりには播磨某に味方する勢力がいたのかな? けれど播磨某は負けたので、勝利した神功皇后が住吉津をゲットして、味方のアメノホアカリ一族を七道から呼び寄せたのかも。
その後、応神天皇は幼少だし、神功皇后が政治を行っていたようなのだけれど、葛城ソツヒコをてなずけることができていない感じがする。近江・美濃グループの代表的な人が葛城ソツヒコで、その力は神功皇后がどうこうできるようなものではなかったのかも。
葛城ソツヒコは何度も朝鮮半島に渡っていて、当時の遺跡と思われる葛城の南郷遺跡群には多くの渡来系技術者たちの工房などがあり、葛城ソツヒコ関係の遺跡と考えられているみたい。
葛城ソツヒコが祀られている志紀(大阪市平野区の志紀長吉神社)からは、当時は北に大和川が流れていたのかな。その先に、草香江(河内湾が土砂の堆積などで小さくなってきて湖みたいになったのが草香江)があったのかな。ソツヒコは草香江に港をもっていて、そこから出航していたのかも。




