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東高野街道を石清水八幡まで

北上していくと右手に野趣あふれる公園が見えて、行ってみるとうしろ谷公園だった。里山だった感じが残っていて、「竹の子とらないで」と書かれていた。

山が切り拓かれ、新興住宅地になったのだろうな。竹林も残っているけれど、新しい住宅でいっぱいだった。

街道に戻って続きの上り道を行くと、前方には円福寺の霊園。このあたりで大阪府を出て、京都(八幡市)に入ったようだった。交野から八幡まで、こんなに近いんだな。

すぐ右手は京阪国道が走っているようなところだったけれど、ちょっとした秘境の雰囲気だった。

墓地につきあたると、左手に進むのが東高野街道。達磨堂円福寺への入口もあって、行ってみると、山中のお寺の感のある、趣のある参道がはじまっていた。けれどお寺については何も語られず、「拝観お断り」とだけあった。

仁王像のいる南大門の横を通り、そのまま下りの道を行けたので、進んでいってみた。

ここも里山って雰囲気。里があり、田んぼがあり、お寺とは長閑な道で通じていたのだろう。寺と里の境目はあいまいで、みんな一緒に、カラスも一緒に共存していたんじゃないかな。

元はお寺はみんなこんな感じのところだったのじゃああるまいか。

円福寺には鎌倉時代の達磨大師像があるらしい。

達磨大師ってインド人かな、5世紀か6世紀ころにインドから中国に渡り、禅を伝えたとされる人。

王寺駅の南、片岡山に達磨寺があるそうだ。

日本書記にも書かれている話だそうだけれど、聖徳太子がこの地で行き倒れの人を助けたけれど、結局亡くなり、遺体は消えたのだって。

これが実は達磨大師だった、という話になっていて、さらには聖徳太子はその地に自ら彫った達磨像を安置し、それが達磨寺の始まりだという。

達磨寺は古墳の上に建っていて、それが消えた達磨大師の墓と伝わるそう。

達磨寺は興福寺によって焼かれ、聖徳太子の作だという達磨大師像も紛失。鎌倉時代につくりなおされた。けれど再び争乱の世になって、紆余曲折を経てここにおさめられたのだって。

ここまでくると、そういう話にいつの間にかなったんだろうな、と分かる。でも他のお寺のまことしやかな話でも、こんなふうに話がつくられていたりするのかな、

素敵な参道を戻り、東高野街道の続きへ。

竹林の中の下り道だった。寺の方向に向かう山道もあったけれど、みんな進入禁止のようだった。


バス通りとの交差点に出て、ここは普通の住宅地だった。

右手の京阪国道とバス通りとの辻は八幡洞ヶ峠交差点で、このあたりが河内と山城の境の峠だったのだろうな。

道々にあった東高野街道の説明で洞ヶほらがとうげは目にしていた。「洞ヶ峠を経て石清水八幡へ」、みたいに。けれど交差点はちょっと遠くて「洞ヶ峠」の文字は見なかったし、峠と呼ぶほどの高低もなくて、なにも気づかずスルーした。

上を道が走っていて、ここからは確かに下りの道だった。

左右は高台になっていて住宅が建ち並んでいた。地名も八幡福禄谷で、谷だったところなのかな?

右手は八幡安居塚あんごづか

山背国のうち、久世郡の竹淵郷と那羅なら郷、綴喜郡の有智うち郷が八幡市になっているそうだ。

木津川がかつてはこのあたりを流れていて、川の北が久世郡、南が綴喜郡だったのだって。

安居塚には古墳があったらしくて、それが安居塚だったのかな。

つきあたりまで北上すると左折。西寄りに北上していった。すっかり住宅街。

道が左に分岐するところで左側の道へ。左側は丘だったのだろうところで、墓地(中ノ山墓地)になっていた。このあたりに万称寺ってお寺があったみたいで、そこの墓地だったのかな?

墓地への広い石階段があって、開放的だったので上がって行ってみた。急坂で、たちまち見晴らしのいいところに上がっていた。

この道は公道でもあるのか、墓地の西に道は続いていた。わたしたちは途中で北に下っていった。

墓地の小山の北側はバス通りで、通りの向こうには池があって、釣り堀(鯉釣り池だって)をやっているみたいだった。田舎だったのだろうなあ。今や周辺は住宅密集地になっているけれど、池のあるさくら公園には緑が残っているみたいだった。


道を東に少し戻って、東高野街道の続きへ。

住宅街にリュック姿の人もいて、少しだけ観光客というかフィールドウォーカーかなもいるようだった。

左手に八角堂への階段が現れた。上ってみると小さな丘に建つ、少し安っぽいオレンジ色の建物だった。

元は石清水八幡に鎌倉時代に創建されたそうだ。

その後、倒壊したりしつつも再建され、明治時代まで存続していたけれど、神仏分離(神社と寺は分けなさいという法律ね)で石清水八幡の寺は無くなることになり、八角堂はここに移転。

この小高いところは古墳だそうだ。

4世紀頃の前方後円墳、西車塚古墳の上らしい。

「母泥之阿治佐波昆宝命の墓」みたいな石碑があった(読むのが難しい・・・)。「母泥」と思ったのだけれど、「丹波」なのかな?

朱智神社(京田辺)の祭神のカニメ雷王(神功皇后の祖先)のお母さんが丹波たにわのアジサワ姫と言ったけれど、なにか関係があるのかな。


細い南北のバス通りに合流して、バス通りの向こうは松花堂庭園や松花堂美術館のあるところの北の端だったみたい。

前に行った石清水八幡宮で知った松花堂庭園は、こんな市街地に移されたんだな(元々は山中にあった)。

他、ここには東車塚古墳もあったみたい。こちらも4世紀末から5世紀初めころの前方後円墳で、今は後円の部分だけが庭園の一部になって残っているのだって。

このあたりからは東高野街道の案内が道々あった。

泥松稲荷があり、京街道の道標があった。街道沿いとあって、虫籠窓とかの古い建物も多かった。左手に安心院。それから正法寺。

正法寺しょうぼうじはただものでない雰囲気を醸していて、思わず立ち止まった。

鎌倉時代初めの創建で、この地の志水さん(石清水八幡社家)の菩提所らしい。尾張大納言(尾張徳川家のことかな?)の母方が志水さんらしくて、その墓もあるらしい。山をバックにした山門が素敵だった。


思いのほか遅い時刻になっていて、先を急いだ。しかしここから石清水八幡までがけっこう遠かったなあ。しかも見所は他には特にはなかった。

右手に九品神社が現れたけれど、特別警戒中とかで閉ざされていたし。

神原バス停まで北上したら右折して、一本東側の道で北上。

ほぼ普通の住宅街だけれど世音寺があり、「宇治近道」と道標があった。

図書館があって道が左にカーブし、ここに志ばん宗(じばんそう)。名物のういろうはもちろん売切れ。

後で知ったことには、このお店の裏に頼風塚って墓があったみたい。

平安時代の初め、小野頼風よりかぜって人が八幡に住んでいたそう。京に恋人がいたけれど、足が遠のいていたのかな。恋人が訪ねてくると、頼風は他の女性と暮らしていた。恋人は衣を脱ぎ、川に身を投げて自殺。衣が朽ちて、女郎花おみなえしが咲いたのだって。

頼風が歩くと女郎花が避けるようになびいたとかで、頼風さんは悪かったな、と放生川に身を投げた。これも物語になっていて、たぶんノンフィクション。けれどここに頼風塚が、松花堂庭園に女性の女郎塚(ってことになっている塚)がある。

前方後円墳に中ノ山墓地、女郎塚、古くから墓の多いところだったんだな。

すぐにつきあたって北上。

左手に雰囲気のある道が現れ、前に石清水八幡宮を降りたところで寄った相槌神社だった。山に向かう道も見えた。

ここを北上していくと石清水八幡駅。東高野街道はこのあたりで京街道に合流して、ゴール。

京街道は江戸時代にできた幹線道路で、それまではこの道が京まで続き、大阪と京都(河内と山城)を結んでいたのだって。その合間に綴喜があったんだな。

相槌神社から石清水八幡駅そばまで雰囲気のある道が続き、寄り道したくなるところも多かったけれど、時間がなくて急ぎ足で駅へ向かった。

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