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遠里小野の榎津寺

榎津寺があったとされるところにも行ってみようと、東に向かって、なるべく川べりを歩いて行った。

川沿いには家が建ち並んでいて、川はよく見えなかった。

カーブを描く堤防の緑がときどきだけ垣間見られた。遠里小野橋などで見るのとは少し違う大和川の姿だった。

ゆるい上りの道だった。そのまま川べりを進みたいところだったけれど、新興住宅地になって、行き止まりとかも多くて途中で断念。最近できた住宅地と見え、きれいな新しい建物の横の小さな公園はヨーロピアン調だったりした。すっかり変わっちゃっているけれど、まあこのあたりに寺があった模様。

榎津寺跡の説明板も新興住宅地の中にあった。行基が建立に関係すると言われるけれど、何も分かっていない、みたいなことが書かれてあった。見つかった瓦は7世紀終わり頃からのものだったって。

行基(668~749)は聖武天皇の奈良の大仏づくりを任された人。そんな大きな仏像をつくるなんて経験もなく、失敗続きだったから、多くの渡来系の匠と大きな公共事業を成功させていた僧、行基を頼ったんだな。

散歩を始めた頃には名前も知らなかったけれど、あちこちに名を残していて、今ではすっかりおなじみになった。あちこちにお寺を建て、池を改修し、港を整備するなどした人。

伝説的な人だからあちこちに伝承が残っていて、なにがどこまで本当なのかも分からないけれど、近場で言うと、

西成郡津守村に善源寺(西成区?)、住吉郡に沙田院(住吉区?)、住吉郡御津に呉坂院(住吉区?)、西成郡御津村に大福院(中央区?)、西成郡津守村に難波度院など(西成区?)

をつくったのは記録に残っていて、確かとされている。

行基が生まれたのは、天智天皇の頃。

遣唐使として唐に渡り、三蔵法師の弟子になった渡来系(船氏)の道昭(629~700)という人がいて、この人を師に持つ。そして行基も渡来系。日本に帰化した父をもつ。父親は高石あたりに関係の深い渡来人、西文氏。

船氏は応神天皇の時代に渡来してきた百済の王族の子孫で、野中寺(羽曳野市)に関わっていると言われている。同族に藤井寺の葛井氏や津氏もいて、みんなで飛鳥時代の頃(7世紀あたり)、東除川(の島泉あたり)~古市間などの物流を担っていたのじゃないかとも言われている。

当時、そこには立派な大溝(水路)があって、都の飛鳥方面への物流などに使われていたのかな? そんな船氏の出の道昭は、池の改修など、公共事業も行っていた人。当時、国家も公共事業を行っていたのだろうけれど、ごく一部だったのかな? 僧が橋を架けたり、池を造ったりの工事を行っていた。それを手伝うことは徳を積むことで、みんなでこぞって手伝いに集まっていたとかかな? 行基も道昭に影響を受けたといわれている。


行基が子どもの頃には天智天皇は亡くなり、壬申の乱(天智天皇の息子VS.天智天皇の弟)があって、673年、勝利した弟が即位(天武天皇)。

680年、道昭は天武天皇の勅願で和泉に往生院を建立。

ずっと前に歩いた往生院あたりはずいぶん遠かった。泉南あたりにあって、近辺で他に記憶に残るのは、海会寺(7C半ば~後半に建設)跡や林昌寺(銅鐸も見つかっているお寺)、その近くの大きくて素敵な楠、素敵だった長慶寺、藤の花、そして波太神社。

辺鄙とも思える場所だった。そんなところに、天武天皇の勅願で有名なお坊さんが建てたとかいう寺が現れて、当時のわたしが感じたのは、突飛だなあって戸惑い。けれど今は、少しわかる気もする。

海会寺跡があるのは、当時の南海道の南端くらいで、このあたりまでは天皇の力が及んでいた・・・のかな。そこに大和朝廷に関係の深い豪族が寺と屋敷を構えて住んでいたらしい。南の守りを担っていた豪族だったのだろうな。そんな要所に天武天皇が寺を建てさせた。

天武天皇は壬申の乱で自分の側に立って活躍した豪族たちに寺社を建てたり、社地を与えたりしたみたいで、そこにいた豪族もまた天武天皇側についた人たちだったのだろうな。

近くの波太はた神社はツヌコリを祀る神社だ。和泉地方の古い時代のドンで、先駆けて機織りや製鉄を行っていたのだろう一族の頭。

その子孫には県犬養氏などがいる。

壬申の乱のとき、県犬養氏は天武天皇側についていたそうだ。その波太神社と海会寺との間に往生院は建てられている。


684年、行基10代の時、大地震が起きる。南海トラフ巨大地震だったと思われるそうだ。

この年、橘諸兄誕生。母は県犬養美千代、父は美努王なる人。

行基が20歳になる頃には天武天皇も亡くなって、その妻が即位(持統天皇)。

天武天皇&持統天皇の唯一の男子である草壁皇子が次期天皇になるはずが、若くして亡くなってしまう。そこで草壁皇子の息子(15歳)が即位。この頃、行基30歳。

けれど10年ほどして若き天皇は病死。その息子(後の聖武天皇)は幼少で、その子までのつなぎとして、天皇が何人か即位。

その間、政務を行っていたのは、藤原不比等(中臣鎌足の子で、聖武天皇の祖父)や長屋王(草壁皇子の甥)だったみたい。

この頃、行基は迫害を受けている。当時、おえらがたにとっては仏教は、格式高いもの。それを市中にまきちらす行基たちがいまいましかったみたい。

藤原不比等と県犬養美千代が再婚。美千代が産んだ娘、光明子は、後の聖武天皇に嫁いでいる。


723年、長屋王が三世一身法を立法。三世一身法は、灌漑施設を新設して開墾した場合は三代、灌漑施設を改修して開墾した場合は一代、その土地を私有できることを定めた法律だった。

この頃、行基は50代。各地の有力者は行基集団の手を借りて、灌漑施設を新設していったのだろうな。

行基集団は、秦氏などの進んだ土木工事のノウハウをもつ人々を中心に結成されたプロ集団かな? 次々と大プロジェクトを成功させていった。

724年、聖武天皇即位。

725年、行基、和泉の久米田池造成に着手。橘諸兄が尽力したと言われている。

729年、長屋王(行基らを嫌っていた人)、自害。藤原不比等の息子たち(藤原4兄弟)が権力を握る。そして妹(異母妹)の光明子を皇后に。

737年、藤原4兄弟、疫病で次々と死去。代わって台頭してきたのが橘諸兄。

行基は政府からも認められ、天皇にも謁見、奈良の大仏をつくるにいたっては、相当頼りにされた。

749年、行基亡くなる。


榎津寺廃寺跡とされる場所で見つかった瓦は、7世紀終わり頃からのもの。

大和川をもっと東に行くと行基大橋がかかっていて、その近辺、天美あたりの阿麻美許曽神社や枯木にも行基にまつわる話が残っているらしかった。

寺があるからにはここにも豪族がいたのかな? 狭間川の河口部あたり(榎津)にあったからには、狭間川流域に住んでいた氏族だったのかな。

遠里小野のすぐ北西あたりは、住吉大社の津守さんのいたところ。

神功皇后(4世紀頃の人?)が創設した住吉大社に、七道に住んでいたアメノホアカリの子孫を連れてきて神主にしたのが津守さんだった。それなら七道はアメノホアカリ一族の住処で、そばの榎津はアメノホアカリ系の港だったのかな??

それとも難波大道も通っていたこのあたりはもうすっかり国のものだったのかな。


広めの公道を北上していった。地名は山之内だった。この東が我孫子(天皇家と葛城氏との血を引くヨサミアビコが住んだ)や庭井(ヨサミ池があった)や苅田。

変わりすぎていて分からなかったけれど、ここは以前にはちょっとこわいような道だったところ。このあたりから浅香にかけて、これからきれいになっていくのだろうな、という感じはしていた。けれど、こんなにきれいになるとはなあ。

山之内はナウマンゾウの足跡も見つかっているところ。この道のあたりでは弥生時代の集落跡も見つかっているそうだ。東にすぐのJR阪和線の向こうには弥生時代の墓の跡が。その後、いったん集落はなくなり、古墳時代に再び人が住み始めているのだって。

弥生時代後期はけっこうみんなが高地に移り住んだという時代。

緊張状態にあったかなにかで、大阪平野にいた人々は、東の山地に移り住んだのかな。

それから緊張状態が終わったかして、また平野に戻っていったのかな。それで有力氏族は東の山と西の川べとに本拠地を持っていたりするのかな。葛城氏も葛城山のほうと長吉(大阪市平野区)のほうとに、っていう具合に。


道は西寄りにカーブして、そのまま進むと遠里小野住宅横の公園だった。ここを北上。

暑かった。もっとうろうろして帰ろうと思っていたのだけれど、きつくなってきて、もう帰途につくことにした。

東には上り道になっていて、あびこ台地になっている我孫子方面だからかな。南海高野線を渡って西の遠里小野小学校の近くには、路地みたいな道に農神社があった。

小さな社なのは、トドロキ姫命神社に合祀されてしまったからみたい。

ここは熊野街道沿いあたりで、元はもう少し大きかったのかな? 玉垣には近くで見た〇野さんの名など。このあたりでは〇野さんの表札を多く見た気がした。北野さんとか西野さんとか。

地域の北に北野さん、西に西野さん、東に東野さん、富木なんかのあたりでも、そんな分布になっている気がした。

この北に上り道を行くと西方寺があり、その手前あたりには味のある、古い風格のおうちが建っていた記憶があったのに、空き地に変わっていた。ちょっとした丘にあって、遠里小野を独特の雰囲気に仕立てていたのにな。

このあたりは寺と地蔵が多かった。西方寺の東を北上すると、つきあたりに安養寺。井戸なんかもあった。古い時代の空気の残るところ。

安養寺の南側を東に進むとすぐ安楽寺で、前の道が熊野街道。街道沿いに南すぐの極楽寺は、本尊(毘沙門天)は元は榎津寺にあったと言われる平安時代のもの。楠木正成の父が参って子(正成)をもうけたといわれている。

楠木正成は橘諸兄の子孫を名乗っていたという。榎津寺に参ったのだろう父が、橘諸兄の、つまりは美努王と県犬養美千代の血を引く人だったのかな。

安楽寺前の少し古そうな道標には「左 阿倍野街道」とあった。熊野街道は阿倍野街道でもあったんだな。北上すると阿倍野、阿倍氏のいたところ。

熊野街道を北上して帰った。

マスクをしていない人も増えてきていた。パチンコ屋が一軒つぶれていた。

新しいお店もオープンしていた。おいしそうな焼肉屋さんがおいしそうなランチをはじめていた。

学生の姿を見るようになった。午前と午後、分散登校しているから変な時間にだけれど。子どもたちが普通に集まってマスクせずに遊びだしていた。

暑いものなあ。自粛生活も終わりかと思ったらこの暑さで、近場の散歩がまだまだ続きそうだった。

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