庚申街道1
7月の初めだったけれど、雨が降って凉しい日があった。その翌日、朝は涼しくて、久しぶりの散歩に出てみた。暑さも多少ましじゃないかな、と、近場の阿倍野へ。
庚申街道を歩いてみようと思って。
庚申街道は四天王寺の庚申堂から松崎、桃ヶ池、田辺、中野、湯里、住道矢田、瓜破、それから長吉川辺で古市街道(平野街道)と合流する道。庚申街道として定着する前は、葛井寺道とか呼ばれていたらしい。阿倍野界隈と藤井寺を結ぶ道だったのね。
その道は葛井寺や阿倍寺の建てられた頃からあったのかな?
阿倍寺も葛井寺も白鳳時代の創建で、葛井寺は行基が開いたと伝わるそうだ。渡来系の葛井氏の氏寺だったのでは、とも言われている。
暑さ対策で、歩く時間はできるだけ短くしようと、阿倍野には電車で向かった。
庚申街道としては四天王寺の南の庚申堂からのスタートだけれど、そのあたりは何度も歩いたし、工藝高校あたりからスタートするつもり。
電車を降りて間もなく日が照りはじめ、ずいぶん暑かった。
それに、散歩も久しぶり過ぎてなにか忘れ物をしているような気がする・・・と思ったら、おかあさんが朝ご飯を食べるのを忘れていた。
えー大丈夫?と思ったけれど、歩いているとあまりお腹がすかないんだな。登り坂が続くとかじゃなければ。
チン電(阪堺電車上町線)を阿倍野停留所で降りると、そこはあべの筋の真ん中で、信号を西に渡ればあべのベルタ、東に渡れば前に歩いた阿倍野廃寺跡あたり。
東に信号を渡り、そのまま直進して、少し路地の感じのする道に入っていった。少し上りの道だった。前に歩いて分かったけれど、このあたりも気をつけて歩いてみれば、けっこう高低差を残している。
今度は緩い下り道になって、左手にはハルカス。
これも散歩していて知ったことには、踏切や電柱にはそれぞれ名札などついていて、古い地名が書かれていたりする。ここで見た電柱には「カンアベクマ」とあった。
つきあたりは松崎公園。ハルカスのすぐそばだということを忘れるような、静かで、しっとりとした、隠れ家みたいな公園だった。
近所のおうちの犬が、ひとりで散歩にやってきていた。飼い主は軒先で用事をしていて、なんだかのどかな田舎みたい。
かつては路地ばかりの片田舎だった雰囲気を残していて、素敵。そういえば松崎は、阿倍寺のあったあたりだった。
けれど変わっていくのだろうなあ。空き家も多くて、既に更地になったところも多くて、マンションとかがそのうち建つのだろう。
松崎公園前を南下して行った。狭い路地道で、昭和の感じを残していて、白長竜神なんかが祀られていた。
路地を抜けたら、いきなり高速道路が上を走る広い道路だった。
そんなにひらけている感じはしなかった。道路には植樹され、歩行者用と自転車用のレーンがあって、人通りは少ないし、高速道路で日陰だったし、快適だった。
この高速沿いの道を東(南東)に進んでいった。
最初の信号でちょっと寄り道。高速の高架下をくぐってすぐ右折、またすぐを左折。そこに玉菊稲荷が祀られていた。
玉菊稲荷は阿倍王子神社飛び地境内神社だって。
阿倍王子神社となにか関係が?と、説明を読んでみた。
ここには苗代田池なる灌漑用の池があったそうだ。のどかで、貸しボートもやっているようなところだった。そこに昭和11年、池の守護神として近所の小松さんが稲荷を祀った。
稲荷って、お金をいくばくか払ったらたてられる鳥居と同じで、お金をいくばくか払ったら自宅や会社にも勧請できるシステムで、昭和初期の頃にか大流行したそうだ。散歩していても時々出会う、「正一位」とある小さな神社。
ところが稲荷をたてて翌年には池が埋めたてられ、住宅地になっていった。都市化していって稲荷の土地の固定資産税も高くなり、阿倍王子神社の飛び地神社にしてもらったそうだ。
今ではちょっと想像できない田舎の話みたいだった。稲荷を建てた小松さんのおかげで、そんな時代があったことを教えてもらった。
高速の下の道に戻り、このまま南東に行くと桃ヶ池。東の工藝高校のところから庚申街道を歩くつもりだったので、ここは東へ。
高速の下をくぐってそのまま直進すると、前にも歩いた旧道っぽい下りの道を進み、すぐがあびこ筋だった。あびこ筋を渡るとすぐに工藝高校があって、このまま東に進む上り道は前回歩いた。今回は工藝高校の手前を右折。ここが庚申街道。下高野街道歩きなどでも何度も歩いた道。
庚申街道(葛井寺道)も下高野街道も、よく使われていた道のうち、庚申堂⇔葛井寺の最適ルート、阿倍野⇔高野山の最適ルートをそう称しただけのようだから、何度も歩いているこの道は、この近辺のメインストリートだったのだろうな。
当時は田畑や池の間の道だったのだろう。
道が2つに分かれて、右手に行くとあびこ筋。ここは左手へ。
そのまま西に進むと少し高台になったところに大きな旧家など。途中で右折して南下。文ノ里郵便局がある静かな道だった。
つきあたりはアーケードのある商店街(明浄通商店街)になっていたけれど、もうあまり商店はない。ここもおなじみ。左折して明浄学院高校の手前まで進んで右折して南下。
高速の下の道にたどり着いて、高速沿いに南東に進んでいくと桃ヶ池公園。
今回は公園はスルーして、そのまま高速沿いを進んでいった。
上で高速とJR(阪和線)の高架が交差していて、その下を通ると、ちょっと方向が分からなくなるのだけれど、そのまま直進して高速沿いを進む、その道の一本左手の道に進んでいった。
右手に千寿温泉。
このあたりで庚申街道のステッカー(?)を見た。車道(大阪狭山線)を過ぎるとお地蔵さんがいて、少し旧道らしい雰囲気に。「庚申街道」と書かれた行燈みたいなのも見つけた。旧家や、蔵や、白壁の塀(中は新築になっているけれど)なども残っていた。
庚申街道の説明があり、この先、今川沿いを南下していくとあった。昔のこのあたりの白黒写真も紹介されていて、田畑ばかりのところにぽつりぽつりと家があり、そこに舗装された道が通っていた。
近鉄電車(南大阪線)の高架下を通り、駒川を北田辺橋で渡った。
それからすぐ今川。ここからは庚申街道は今川沿いを南下。
今川沿いは大阪の桜の名所の1つで、川沿いは桜並木の遊歩道になっていた。前に今川公園あたりから北上していったことがある。ここはその途中で歩いたつくし公園。
この少し南に今川公園があり、その先はまだ歩いたことのない道だった。
春だったらきれいだったかなと思いつつ歩いたけれど、今川公園以南は以北と違って桜はそんなになかったかな。
暑さで疲れてきていて、休憩したかった。この近く(つくし公園の東)に福祉系のパン屋さんがあることを前回知っていたので、パンをゲット。長めの休憩をした。
元気になって再スタート。
今川公園は今川と鳴戸川との間の細長い公園で、その南にも2つの川の間に遊歩道が続いていた。
銀杏の実が緑色だった。いつも銀杏に気がつくのは、熟した黄色の、皮のぶよぶよした臭い時期。今の季節は小ぶりの緑で可愛かった。
すぐに中野町公園。この南西に駒川中野駅(大阪メトロ谷町線)。
中野町公園はいい感じだった。桜も多くて、川も素敵で、このあたりのおうちの人々の広い中庭のような雰囲気で、わたしたちは遠慮してスルー。
すぐの出口(今六橋)から出ていった。医師会の建物につきあたって左折。この道が庚申街道で、住宅街の中に続いていた。
桃ヶ池で別れた阪神高速松原線の下を通り、南港通を渡ったら、少し旧道っぽい道に。
もう少し行くと左手に中井神社。ここもなじみになったなあ。祭神は牛頭天王。
このあたり一帯がかつては田辺だったようで、田辺の西の神が山阪神社、東の神が中井神社だったそう。
そのまま進むと道がいくつかに分かれて、地蔵堂なんかもあった。南西に向かう道には「でんしゃのりば はり道」とあって、久しぶりのこの道へ。
今も中野鍼灸院があった。中野に空海の時代から続く鍼灸院。空海が布教のおり、当家に宿泊したとかで、お礼として鍼のノウハウを伝えてくれたのに始まるそう。
空海も歩いたかもしれないけれど、すっかり住宅密集地になっている旧道を南下。
地名は針中野で、これも中野鍼灸院からきているそうだ。車道(百済大橋通)を渡って、この右手に近鉄南大阪線の針中野駅。
ベーカリーフランドールなるパン屋さんを発見。せっかくだからパンをゲット。
南下を続け、すぐの南百済小学校の横を通った。このあたりはかつて南百済村だったところ。
奈良時代とかには摂津国百済郡だった。
奈良時代、白村江の戦いがあったけれど、これは、唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済(朝鮮半島にあった国)をどうにかできないかって戦い。もう国は滅び、それ以前から、百済の王子たちは日本に逃げてきていたみたい。けれど百済復興を目指し、日本からも出兵。王子も年長の者は戦いに。
天智天皇の時代、どなたが戦いに赴いたのかな。武の人たち(阿倍さんもいたみたい)が船で行ったのだろうけれど、惨敗。王子たちも悉く戦死してしまったのかな。
そんな中、日本に残って生き残った王子が、善光さん。
善光さんは百済王の名をもらい、初めは摂津のこのあたりに住んでいた。他にも多くの百済からの移民が住み、ここは百済郡に。
百済王氏はその後、枚方(百済王神社のあたり)に移り、そのうち百済郡の地名もなくなったのかな。けれど明治22年、地名に「百済」が復活した。百済郡だったあたりに、北百済村と南百済村が誕生。それももう廃止されたけれど、今も学校や公園や橋に「百済」の名が残っている。
なにも知らずに歩けば、きっと大阪市のなんでもない住宅密集地。
けれど実は面白い歴史をいっぱいもっているんだなあ。このすぐ西は鷹合で、酒君塚公園があった。高台になっているのは古墳(酒君塚古墳)だからで、4世紀末のその古墳は、伝・酒君の墓。
仁徳天皇のとき、紀角宿禰なる人が百済に派遣された。百済の王族が礼を欠いていて、そのことで百済の王を責めたそうだ。百済の王はおわびにか、その王族を葛城ソツヒコにつけて日本に送った(紀角宿禰はまだ百済に残っていて、日本と半島を行き来していたソツヒコに引き渡したのかな?)。その王族というのが酒君。
日本に送られた酒君は、同郷の錦織さん(石川錦織首コロシ)の元に逃亡。その後、天皇に許された。
それから2年ほどしてかな、ヨサミのあびこが天皇に珍しい鳥を進呈。天皇は酒君にその鳥(鷹だった)の飼育を任せ、百舌鳥野で鷹狩りを楽しむようになった。
鷹の飼育を行う村を鷹甘といい、それが今の鷹合なのだって。
酒君塚古墳は田辺古墳群に属するそうだ。かつてこのあたり(今川の西の一帯)には古墳がいっぱいあったそうだ。
南百済小学校の西側の道を南下していった。
庚申街道は葛井寺道でもあるのだし、ここが百済郡だった頃、葛井氏がいたかもしれない葛井寺とも往来が頻繁にあったのかな。葛井氏も百済の王の末裔といい、古い時代(応神天皇の頃?)に日本にやって来たのだとか。
また地蔵がいた。
このあたりにも小川が流れていて、今川公園あたりで今川に合流していたとかじゃないかな、という感じがした。
左手になにか文字が入っていたっぽい古そうな道標があって、そちらに向かっていった。
道は右手にカーブして南下。少し不思議な感じのする道だった。
信号のある狭い車道(緑橋通)に出て、道路の向こうには湯里住吉神社の鳥居がたっていた。注連縄の鳥居は、車道がなければ素敵だっただろうな。緑橋通を渡ると、神域って感じがちゃんとあった。四角く切り取られてしまっているけれど、かっては村と共にあったのだろうなあって感じの神社だった。
ここは湯里で、この東、今川の向こうは喜連。その南が瓜破。
湯里の南は照ヶ丘矢田で、照ヶ丘矢田にある圓明寺あたりでシハツ道と西除川が交差していたということだった。川の東には天神山があり、神スムヂ神社が鎮座していたそうだ。
湯里の人々も神スムヂ神社を氏神にしていたのだって。
それもそのはず、圓明寺はここから南にほんの300mほどの長居公園通を渡ってすぐのところ。
知っていたら足を伸ばしたのだけれどな。そんなに近いと思わずスルー。
長居公園通が、シハツ道が通っていたというあたりで、今来た道のあたりに流れていた感じのした小川っていうのが、かつての西除川だったのかな。
西除川は天野山から流れ、狭山池を経由してさらに北上。今は河内天美あたりで向きを西に変えて大和川に注ぐけれど、大和川が堺に向かって流れていなかった時代にはここを流れていたんだな。
すぐそばの照ヶ丘矢田だったけれど、摂津国住吉郡から、河内国丹比郡に変更になって、ここ湯里(住吉郡のままだった)の人々は自分たちの新たな氏神として住吉大社から住吉神を勧請。湯里住吉神社が創建されたらしい。
神社の東も西も下りになっていた。東には今川が流れているし、西には駒川、というか、西除川が流れていたし。
神社の南の道には、急に涼しい風が吹いていた。時間的なものじゃなくて場所的なものだという気がした。神社の木々の木陰になっていて、けれどそれだけじゃない感じ。空気がここだけ違っているんだ。
神社の南のつきあたりには地蔵堂があって、村の旧道の感じがした。西にはすぐ湯谷山覚林寺があり、ここに湯里について説明が書かれていた。
このあたりはかつて湯屋島と呼ばれていたのだって。温泉が湧いたからなんだとか。
湯屋島というからには島だったのかな。今川と西除川はかつてはほぼ一緒になった川幅の広い川で、そこに浮かんだ島だったのかも。
庚申街道はこれからまだ南下していく。けれど散歩はここまでとして、すぐ西の長居公園で休憩してから帰るとしよう。暑いから、たくさんは歩かないように、最初からここまでと決めていた。




