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まとめ6(おまけ)

県犬養美千代が大山崎に創建した神社が「自玉手祭来(玉手より祭り来たる)酒解神社」で、玉手ってどこだろうと気になっている。

県犬養美千代が祀ったからには、ツヌコリに関わるところだったんじゃないか。

県犬養氏(ツヌコリの子孫)の発祥地は岸和田市の箕土路(元は犬飼村で、近くに天の川が流れていた)かも、といわれているけれど、後に玉手に移ったとかじゃないか。


玉手は、もしかしたら玉手山(柏原市)の一帯だろうか?

ツヌコリ一族の天湯川タナが柏原に祀られていて(天湯川田神社)、そこは大県郡鳥取郷だったと思われるところ。

同じ柏原市に田辺があり(玉手山の東のほう)、ここには古墳時代の頃かな、田辺史や田辺宿禰が住んでいた模様。この田辺って、玉手が変化したのじゃないかとわたしは勝手に思っている。タマテ⇒タナベね。

この田辺宿禰もツヌコリの子孫。

そして柏原の田辺さんは、後に綴喜郡田辺(今の京田辺)に移った模様。

綴喜つづきはツヌキ、ツヌのから変化したのだとしたら、全国にひろがっていったツヌコリの子孫は元々綴喜にもいたのかも。


それとも玉手は、もしかしたら玉手島(大阪市)の一帯だろうか?

住吉大社のすぐ北の大海神社や生根神社(祭神はスクナヒコナ)が鎮座するのは、元は玉手島だったところだそう。

近くには玉手山と呼ばれる山もあった(今の帝塚山あたり)。

東には田辺があり、ここも田辺宿禰に関わるのか?とされるところ。近くには同じくツヌコリの子孫の多米連に関わるのか?とされる多米神社もあった。

更に東には喜連(平野区)があり、ここに息長川が流れていたという話がある。

息長氏も住んでいたそう(フィクションかも)。仲哀天皇(父はヤマトタケル)の異母兄弟が息長氏で、喜連に婿入りしたんだとか。母はどなたか不明だけれど、ヤマトタケルを父にもつ息長田別王。

その孫が息長真若中ヒメで、応神天皇の妻に。そしてワカヌケフタマタが誕生。

息長田別王は14代仲哀天皇の時代の人。仲哀天皇の皇后が神功皇后(オキナガタラシヒメ)で、その父が息長宿禰王、弟が息長ヒコ王、そのあたりの人ね。


ヤマトタケルにはおじいちゃんになる垂仁天皇の皇后がヒバス姫(息長水依ヒメと彦坐王との孫娘)で、ヒバス姫は12代景行天皇(ヤマトタケルの父)やイニシキイリヒコを産んだ。

イニシキイリヒコは1000の剣をつくり、忍坂(息長氏に関係が深いとされる)に納めた。

イニシキイリヒコの宮があったとされるのは和泉鳥取、ツヌコリ一族のふところだな。

わたしは天皇家の息子イニシキイリヒコとツヌコリ王国の息子(天湯川タナ)が交換(?)されたのかも、とか思っていたのだけれど、別の見方をすれば、ここでツヌコリ一族と息長氏が関係を(さらに)密にしたのかな。

そんなこんなで、ツヌコリ一族も近くに住む玉手島(東には息長氏も住む)だったところと忍坂に生根神社が鎮座するのかな。

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