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まとめ5

息長氏や阿倍氏について調べていると、スクナヒコナの名がたびたび出てきた。

息長氏はまだ分かる。というか、息長氏とスクナヒコナは、なにか関わりがあるのだろうな、という印象をもっている。

息長氏と関係が深いという忍坂に祀られる生根神社の祭神はスクナヒコナだし。

けれど阿倍氏はなんだろう・・・。

阿倍氏が住んでいた阿倍野の近くの桑津天神社に祀られるのはスクナヒコナで、阿倍氏の早期の本拠地らしき伊賀の敢國神社に祀られるのは、阿倍氏の祖の大彦命とスクナヒコナ。

スクナヒコナは一時、農業、酒造、医薬などの神さまとして流行(?)したみたいだし、その頃に合祀されたとか、元の神にとってかわったとかいうだけの話なのかもしれない。実際に敢國神社のスクナヒコナは、近辺に祀られていたのが後に合祀されたようだし。

けれどこんな話もあった。

近江八幡にはササキ神社(式内社)が鎮座していて、ササキ氏の祖、大彦命が祀られている。そして共に祀られるのがここでもスクナヒコナ。スクナヒコナは古代から祀られていて、後に大彦命も祀られるようになったんだとか。

息長氏だけじゃなく、阿倍氏もまたスクナヒコナに関わりのある氏族なのか、阿倍氏がひろがっていった土地は、元々、スクナヒコナに関わりのあるところだったケースがあるのか。

気になって、いろいろ調べた。

息長氏も、阿倍氏も、あまりに古くてよく分かっていないようなのだけれど。


まず息長氏ね。

10代崇神天皇の異母兄弟に彦坐王がいた。わたしは「ひこざおう」と呼んでいたけれど、本当は「ひこいますのみこ」だって。

この人の妻の一人が、天御影あめのみかげ神の娘、息長水依ヒメ。

彦坐王はオケツヒメの妹(オケツヒメ2)も妻にしていて、その息子が山代大筒木真若王。

名に「筒木」とつくし、綴喜(今の京田辺市)に居住していた、もしくは関わりが深かったのだろうな。綴喜つづき筒木つつきね。

山代大筒木真若王の息子がカニメ(カジメ)雷王。この人も別名に「ツツキ」がつく。

その子孫は朱智と名乗り、仁徳天皇の頃、綴喜に朱智すち神社(元は朱智天王社)創建。カニメ雷王とアメノホアカリが祀られている。

鎮座地は綴喜というか、西隣の交野かたの(イカガシコオの子孫、肩野かたの物部の本拠地)との境の山中。

息長水依ヒメと彦坐王との孫娘(ヒバス姫)が11代垂仁天皇の皇后になったのはこの頃?

垂仁天皇の重臣はイカガシコオ。母方の祖父が大彦命で、父方の祖母がイカガシコメ(イカガシコオの妹)。


カニメ雷王の息子が息長宿禰王。

息長宿禰王は近江の坂田郡の日撫神社に祀られているそうだ。

近江の坂田郡って、息長だったところだそう。息長川(天野川)が伊吹山から流れてきていて、その流域あたりが息長で、ここが息長氏の発祥地になるのかな。

彦坐王の妻の一人の息長水依ヒメもここの人?

日撫神社は神功皇后の創建と伝わり、スクナヒコナも祀られている。

息長宿禰王はアメノヒボコ(新羅の王子)の末裔の葛城タカヌカ姫なる人を妻にして、生まれたのが息長タラシ姫(後の神功皇后)。


それまでは綴喜(綴喜郡田辺、今の京田辺市)にいたけれど、神功皇后の父の代に息長に行って、息長を名乗るようになったのかな。

尾張氏(アメノホアカリ系)が住んだ尾張おわり、そして綴喜つづきは同じ発想でつけられた、なにか関係のある地名のような気もするなあ、とジョーク半分に思った。

綴喜にはカニメ雷王がアメノホアカリと共に祀られているし。

大和から近江に行く途上に綴喜(や宇治)がある。まずは綴喜に、それから近江(息長)に進出していったのかな?

息長に鎮座する日撫神社を、神功皇后は三韓征伐の後、創建したことになっている。

・・・けれど神功皇后が云々というのは、途中から言われるようになったことみたい。元々は火撫直なるアチノオミの一族が祖を祀ったのではないかともいわれているみたい。けれどそれも、日撫神社の「日撫」と新選姓氏録にある「火撫」が同じ読みってことだけを根拠に言われているみたい。

火撫直は新選姓氏録の河内国と和泉国の欄に記載がある。新選姓氏録は平安時代に作成されていて、右京、左京、山城国、大和国、摂津国、河内国、和泉国についてしか述べられていないから、近江国のことはよく分からない。

同じ「火撫」でも、後ろに「直」がつくか「宿禰」がつくか「連」がつくかなどで全く違う氏族だってことがパターンだし、近江には日撫(火撫)なる大物がいて、製鉄における火の管理をしていたとかだったのかも。その元で働いていたのが火撫直で、その技を買われて各地に散ったとかかも。

もしくは「ひなてる」だったのが「ひなで」になったのかも。ひなてるはアメノホヒの息子、建比良鳥たけひらとり(別名たけひなてる)のこと?

な~にも分かっていないだけに、勝手にいろいろ想像できちゃうな。


わたしにとって綴喜は、これまで「ツヌコリの子孫たちが住んだところ」だった。

綴喜(筒木)は本当はツヌキ(筒城)だったのじゃないかと思うくらい(実際に「筒城」とも書いた)。ツヌのコリ(王)、ツヌの城、ツヌキは古くからツヌコリ一族が住んでいたところだったのじゃああるまいかって。

奈良時代、綴喜に住んだ橘諸兄(葛城王)は県犬養美千代の最初の夫(ミヌ王)との息子だった。県犬養はツヌコリの末裔。

綴喜郡田辺に住んでいたと思われる田辺宿禰もツヌコリの末裔。

彦坐王の子孫たちも住んでいたんだな。

ツヌキというからにはツヌコリ一族が先だったんじゃないかと勝手に思う。

ツヌコリ一族が既に住んでいる綴喜に山代大筒木真若王やカニメ雷王も住み、子孫たちは、そのままツヌコリ一族と共に生きる人あり、近江に北上し、息長で生きる人あり、だったのかな。

息長にはアメノヒボコの子孫たちが住んでいたともいわれるみたい。

息長に関係の深そうな息長水依ヒメの父親が天御影神であるからには、天御影神にも関わりの深い場所だったのかな。


天御影神はアマツヒコネの子孫で、7代天皇の頃に三上山(滋賀県野洲市)に降臨したと伝わるらしい。琵琶湖の南、野洲川が流れる東の山。

そこには天之御影命(天御影神)を祀る御上神社があり、近くでは銅鐸が24個見つかっているのだって。

子孫は三上を名乗ったそうだ。

天御影神について他にはほぼ分かっていないみたいで、いろんな説があるみたい。オオクニヌシと鳥取神との間の息子だとか、坂戸がどうとか。

奥さんについても不明で、娘が息長水依ヒメって名をもつ理由も不明。

坂戸って、和泉で知った二田氏と同じく天物部(あめのもののべ)にいたみたい。ニギハヤヒの降臨のとき、一緒にやって来た多くの人の中に5人の「みやつこ」がいて、それが二田さんや坂戸さんだったそう。坂戸さんの本拠地は羽曳野市の尺度(喜志のすぐ北)。

ニギハヤヒの降臨に伴ったとされている人々は、わたしは、古くから石器の流通、鉄器の流通に関わっていたニギハヤヒ一族(物部氏)の、流通網の中にいた仲間たちだったのかも、と勝手に思っている。石器(後には鉄器)をつくる集落や、使う集落や、運ぶ人々、そんな仲間らが天物部とされる人たちだったのかもしれない。

喜志はサヌカイト製石器の作り手のいた村だったし、その流通に携わったのが坂戸氏だったのかな。

二田ふただ氏は池上曽根遺跡のすぐ近くの二田にいて、アメノホアカリの子の天香山命(越後の開拓神)と共に越に行った氏族。

残りの造は、大庭、舎人、ユソだって。

大庭さんは堺の大庭寺(池上曽根遺跡の東、5kmくらいのところ)で知った人たち。カミムスビの子孫のアマツマラ(倭鍛冶の祖)の子孫、大庭氏が住んでいたってところだった。

アマツマラと天御影神は同一人物だという説もあって、先祖のアマツヒコネは別名をハタツミというという説もあるみたい。

出雲(いずも)に波多というところがあって、波多はた神社もあって、その祭神がハタツミらしい。

そして和泉(いずみ)のツヌコリが祀られる神社も波太はた神社。

なにか匂う・・・。


そしてウツシコメの母が坂戸由良都ヒメって人なのに気がついた。ずっとウツシコメの父親にしか注目していなかったからなあ。

天御影神の6世孫で、三上氏の一族だった。

ニギハヤヒ一族と三上氏は姻戚を重ねているらしく、それで生まれたのがウツシコメ・ウツシコオやイカガシコメ・イカガシコオ。ニギハヤヒの子孫と、この坂戸由良都ヒメとの間に生まれたのが、ウツシコメ、ウツシコオ、オオヘソキ(イカガシコオとイカガシコメの父)。

大彦命(母がウツシコメ)や崇神天皇(母がイカガシコメ)、肩野物部(祖がイカガシコオ)たちって、みんな天御影神の血を継いでいるんだな。

彦坐王(10代崇神天皇の異母兄弟)の妻の一人(息長水依ヒメ)が天御影神の娘で、ウツシコメ(8代孝元天皇の皇后)は天御影神の7世孫。

時代がおかしいから、天御影神っていうのは、代々名乗った名前なのかも。


あまり記録に残っていないけれど近江や綴喜でもいろんなドラマがあったのだろうなあ、と思った。

スクナヒコナが祀られると言ったって、流行で後に祀られるようになったとか、実のところはだれか分からない神をスクナヒコナにしちゃったとか(実のところ生根神社に祀られるのは「生根神」で、よく分からないからスクナヒコナにしちゃったみたい)、長い年月の間にはいろんなことがあって、記録に残ることを根拠に、なにかを簡単に述べることはできなくなっている。

それと同じで、氏族のことも、阿倍氏がどうの、息長氏がどうの、簡単に述べることなんかできないのだろうな。

ただ感じるのは、近江、綴喜、交野、そのあたりにもかなり力をもった人たちがいて、長い長い年月の間に、石器や鉄器などの交易も行い、姻戚にもなりながら結びつきを深くしていったのだろうなってことだ。

阿部氏(阿閉氏)の最初の本拠地っぽい伊賀の敢國神社の近くには服部川が流れていて、下っていくと木津川で、さらに下ると綴喜のあたり。伊賀の阿倍氏もまた、彼らに結びついていった人たちなのだろうな。

そして彼らが「近江・美濃グループ」になっていったのかも。

その中で天御影神は、少し抜きんでいたのかな。

だからこそそのひ孫にあたるヒバス姫が垂仁天皇の皇后になったのかな。「製鉄王」と呼ばれるからには、製鉄を行っていた人なのかな?


6代天皇の頃、三上山にやって来たのは何代目かの天御影神α。

娘(もしくは親戚)はニギハヤヒの子孫との間にウツシコメらを産み、ウツシコメは8代天皇の皇后になって大彦命(阿倍氏の祖)らを産んだ。

難波界隈には難波吉士なる一族がいて、彼らも大彦命の子孫だそう。イサチスクネ(忍熊王の腹心の部下で、一緒に入水したという人)の子孫でもある。推古天皇の時代の難波吉士磐金なる人は「鋼鉄業の祖」と呼ばれたみたい。それも、天之御影神の血を引いているってことが多少は関係しているのかも。

ウツシコメの孫にあたる彦坐王は、天御影主βの娘を妻に。その孫は11代天皇の皇后に。

初代の天御影神は、オオクニヌシと鳥取神との子孫だったのかな。

鳥取神のことはほぼ分かっていないみたい。ヤシマムチの娘で、オオクニヌシの妻になってトリナルミを産んだってこと以外。

けれどオオクニヌシの出身地の出雲のそばに鳥取(古くからたたら製鉄を行っていたところ)があるし、そのあたりにいた神だったのかな?

鳥取といえばツヌコリ(ツヌコリの子孫に鳥取氏がいて、和泉鳥取を本拠地にしていた)、ツヌコリといえばスクナヒコナ(鳥取氏の祖、天湯川タナが先祖を祀ったという神社にスクナヒコナが祀られているということだけからのイメージだけれど)。

出雲のオオクニヌシは、近畿にやって来て、近畿を統一(国造り)。国造りに当たっては最初、スクナヒコナが助けてくれた。けれどスクナヒコナは海の向こうに去ってしまい、オオクニヌシはオオモノヌシを三輪山に祀ることで国造りを完成。ただ後にアマテラスの使いが何度もやって来て、結局は国をアマテラスの子孫(天皇家)に譲ることになるのだけれど。

勝手に妄想した。オオクニヌシの国造りを手伝ったスクナヒコナは鳥取神やハタツミの関係者で、ともに近畿へ。途中でスクナヒコナは舟でオオクニヌシの元を離れて行ったけれど、去った先が和泉鳥取。そこで子をなし、その子が和泉のドン、ツヌコリとなった、とか・・・。

ツヌコリの一族は製鉄も行ったらしいのだけれど、それも鳥取と関わりのある人たちだったからかも。

そして子孫が綴喜にも進出していったのかも。


鳥取神とオオクニヌシの子(初代天御影神)の子孫も近畿にやって来たのかな。

子孫が喜志の近く(尺度)に住んで坂戸を名乗り、関係者(?)が泉北の和田あたりに住んで大庭を名乗り、近江の野須に行った子孫が三上を名乗ったのかも。

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