第4部 根を下ろす海、未来への船出
完成したネックレスを、澪は柔らかな布で丁寧に包み、作業場を出た。
カウンターの奥では、志乃がいつものように、黙々と自分の仕事をしている。澪は、深呼吸を一つして、その前に進み出た。胸の中では、達成感と同時に、わずかな緊張感がまだ残っていた。厳しい師に、自分のすべてを込めた作品を見せる瞬間。
「志乃さん……できました」
澪は、布包みをそっとカウンターの上に置いた。そして、ゆっくりと布を開いた。
現れたネックレスを見た瞬間、志乃の動きがぴたりと止まった。いつもは厳しく結ばれている口元がわずかに開き、その目が驚きに見開かれる。志乃は、しばし言葉もなく、ただじっと、そこに横たわる、不揃いでありながらも力強い輝きを放つネックレスを見つめていた。
やがて、志乃はゆっくりと手を伸ばし、ネックレスをそっと手に取った。それは、壊れ物に触れるかのように、しかし同時に、その重みと質感を確かめるような、熟練した職人ならではの手つきだった。
光にかざし、様々な角度から、細部まで丹念に観察している。澪が、あの欠けた部分にアコヤ貝の破片をどう繋いだのか。シーグラスや陶片、バロックパールといった異質な素材を、どのように調和させたのか。そして何より、この作品全体から放たれる、独特の輝きの源泉を探るように。
工房の中には、時計の針の音さえ聞こえないような、濃密な静寂が流れていた。澪は、固唾を飲んで、志乃の反応を待った。心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
どれくらいの時間が経っただろうか。志乃は、ふう、と長い息を吐き、ネックレスから顔を上げた。そして、澪の目を真っ直ぐに見据えると、その皺の刻まれた顔に、万感の思いを込めたような、深い笑みを浮かべて言った。
「……よう、やったな。澪」
初めて名前で呼ばれたことに、澪はハッとした。
「見事や」と志乃は続けた。その声は、静かだが、紛れもない称賛の響きを帯びていた。「傷も、歪みも、見事に景色に変えたな。……これは、もうあんたの婆さんの珠でも、ただの修理でもない。正真正銘、あんた自身の輝きや」
あんた自身の、輝き。
その言葉が、澪の心の奥深くに、温かく、そして力強く染み渡っていった。志乃が、認めてくれた。私の「心の聲」を、私の「景色」を、受け止めてくれた。
込み上げてくる熱いものを抑えることができず、澪の瞳からは、再び涙が溢れ出した。しかし、それはもう、自己肯定の喜びだけでなく、目の前の厳しくも温かい師への、深い感謝の涙だった。
「ありがとうございます……志乃さん、ありがとうございます……」
言葉にならない想いが、嗚咽となって漏れた。
志乃は、そんな澪を、ただ静かに、優しい目で見守っていた。その目元も、わずかに潤んでいるように見えた。彼女は、ネックレスをそっとカウンターの上に置くと、澪の肩に、不器用に、しかし力強く、ポンと手を置いた。
言葉は少なくとも、その手の温もりを通して、二人の間には確かなものが通い合っていた。師と弟子という関係を超えた、ものづくりに真摯に向き合う者同士の深い共感。世代を超えて、大切な想いを未来へと結んでいこうとする、静かで強い絆。
カウンターの上で、再生されたネックレスが、工房に差し込む柔らかな光を受けて、温かく、力強い輝きを放っていた。それは、過去と現在、そして未来を繋ぐ希望の光のように、美しく輝いていた。
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あのネックレスが完成してから数日が過ぎ、珠結工房には穏やかな時間が流れていた。澪は、以前と同じように工房の手伝いをしながらも、心の中では、これからの自分自身の生き方について、深く考えていた。そして、その答えは、もう揺らぐことはなかった。
その日の午後、作業の手を休め、二人でお茶を飲んでいる時だった。澪は、意を決して口を開いた。
「志乃さん、あの……私、決めました」
志乃は、湯呑みを持ったまま、黙って澪の顔を見た。その目は、澪が何を言おうとしているのか、すでに見通しているかのようだった。
「私、東京には戻りません」
澪は、真っ直ぐに志乃の目を見て言った。
「この伊勢に、残りたいんです。そして、もし……もし許されるなら、これからもこの珠結工房で、志乃さんのもとで、真珠のこと、ものづくりのことを、もっともっと学ばせていただきたいと思っています」
一気にそこまで言うと、澪は一度言葉を切り、息を吸い込んだ。
「そして、いつか……まだ先のことになるかもしれませんが、ここで学んだこと、私が見つけた『ありのままの輝き』を大切にするような、自分のブランドを立ち上げたいんです。それが、今の私の夢です」
緊張で、少し声が震えたかもしれない。けれど、澪は自分の気持ちを、正直に、すべて伝えた。伊勢という土地への愛着、珠結工房という場所への感謝、そして、志乃という師への深い敬意を込めて。
志乃は、しばらくの間、何も言わずに、じっと澪の言葉を聞いていた。その表情からは、どんな感情も読み取ることは難しい。やがて、志乃はふっと視線を落とし、湯呑みの中の緑色のお茶を見つめた。
「……そうか」
長い沈黙の後、志乃は静かに呟いた。
「あんたが、そう決めたんなら……」
志乃は顔を上げ、再び澪を見た。その目には、驚きよりも、むしろ納得のような色が浮かんでいた。そして、ほんの少しだけ、寂しさのような影もよぎったように見えたが、それはすぐに消えた。
「この工房がな」と志乃は続けた。その声は、どこか遠くを見つめるような、深い響きを持っていた。「もし、あんたの新しい海になるんやったら……わしは、もう何も言うことはないわ」
新しい海。かつて海女として生きた志乃ならではの、それは温かく、そして力強い受諾の言葉だった。澪が、この工房を拠点として、未知の世界へと漕ぎ出してゆくことを、志乃は静かに受け入れ、そして、応援しようとしてくれているのだ。
「ありがとうございます……!」
澪の胸に、再び熱いものが込み上げてきた。
「ただし」と志乃は付け加えた。その目には、いつもの厳しさが戻っている。
「半端な覚悟なら、承知せんからな。ここで学ぶいうことは、生半可なことやない。自分のブランドを立ち上げるいうんは、もっと大変なことや。その覚悟は、あるんやな?」
「はい!あります!」
澪は、迷いなく、力強く答えた。
志乃は、ふっと息をつくと、わずかに口元を緩めた。それは、澪が工房に来てから見た中で、一番優しい笑顔だったかもしれない。
「まあ、ええわ。焦らんでもええ。ゆっくり、一歩ずつ進んでいったらええ」
志乃の言葉には、安堵と、そして確かな希望の色が滲んでいた。澪の決意は、志乃が一人で抱えていた工房の未来への不安に、一条の光を投げかけたのかもしれない。後継者という形ではないかもしれないが、新しい風が、この古い工房に吹き込もうとしている。その予感が、二人を包んでいた。
師弟でありながら、どこか同志のような、あるいは、未来を共に紡いでいくパートナーのような、新しい関係性が、この瞬間、確かに始まった。
窓の外では、秋の陽射しが穏やかに降り注いでいた。澪の伊勢での新しい人生が、今、静かに、しかし確かな希望と共に、根を下ろそうとしていた。
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伊勢での生活は、静かに、しかし確実に澪の中に根を下ろし始めていた。珠結工房での学びは深く、日々新しい発見がある。
志乃との間にも、言葉数は少ないながら、互いを理解し合う温かい空気が流れていた。自分の場所を見つけたという安堵感と共に、澪は、ここで得た経験や想いを、誰かに伝えたいという気持ちが自然に湧き上がってくるのを感じていた。
迷った末、澪は一つのブログを開設することにした。タイトルは「伊勢・珠結便り」。大げさなものではなく、日々のささやかな記録と、ものづくりを通して感じたことを綴る、個人的な場所にするつもりだった。
最初の投稿は、少し緊張しながら、言葉を選んで書いた。
東京での挫折には具体的に触れなかったが、人生の転機を経て伊勢に辿り着いたこと。珠結工房と志乃さんとの出会い。そして、祖母の形見のネックレスを再生させた経緯。完成したネックレスの写真を数枚載せ、そこに込めた想い――浜辺で拾った漂着物や規格外の真珠を使ったこと、「不完全さの中にある美しさ」「傷も景色」という気づきについて、正直な言葉で綴った。
『完璧でなくてもいい。傷があっても、欠けていても、そのもの自身が持つ内なる光、ありのままの輝きを大切にしたい。それが、私がここで見つけた宝物です』
ブログを公開した後、しばらくはほとんど反応はなかった。それでいい、と澪は思っていた。これは、まず自分自身のための記録なのだから。
しかし、数週間が経つ頃から、少しずつ変化が現れ始めた。どこからかブログを見つけてくれた人たちから、ぽつり、ぽつりとコメントが届くようになったのだ。
「ネックレス、とても素敵です。コンセプトに感動しました」
「私も似たような経験をして、自信を失っていたので、澪さんの言葉に勇気づけられました」
「不完全な美、という考え方、心に響きます」
温かい共感の言葉は、澪の心をじんわりと温めた。自分の経験や想いが、顔も知らない誰かの心に届いている。その事実は、澪に大きな励みと、自分のやっていることへのささやかな自信を与えてくれた。
さらに、澪のブログを通して、珠結工房そのものに興味を持つ人も現れ始めた。
「二見浦に行った際には、工房に立ち寄ってみたいです」「志乃さんの作られる真珠についても、もっと知りたいです」といったコメントや、少数ながら工房に直接問い合わせの電話が入ることもあった。志乃は「物好きもおるもんやな」とぶっきらぼうに言いながらも、どこか嬉しそうに見えた。
そんなある日、澪の心を一瞬凍りつかせるコメントが届いた。それは、明らかに東京時代の澪を知る人物からのものと思われた。匿名ではあったが、その文面には、棘のある皮肉と、過去の出来事を揶揄するようなニュアンスが含まれていた。
『傷だの再生だの綺麗事言ってるけど、結局、仕事から逃げただけじゃないの?』『前の会社でのこと、忘れたとは言わせないよ』
そのコメントを読んだ瞬間、澪の心臓は嫌な音を立てた。反射的に、怒りと羞恥心、そして恐怖が込み上げてくる。以前の自分なら、きっと深く傷つき、ブログを閉じてしまったかもしれない。
しかし、澪は違った。数分間、じっと目を閉じて呼吸を整えた。そして、冷静さを取り戻すと、そのコメントに対して、感情的にならず、しかし毅然として返信を書いた。
『コメントありがとうございます。過去には、ご指摘のような辛い経験があったことも事実です。ですが、私は伊勢という場所で、素晴らしい人々や、ものづくりとの出会いに恵まれ、今は自分の足で、新しい道を歩み始めています。このブログでは、そこで得た気づきや喜びを、正直に綴っていきたいと思っています。ご理解いただけると幸いです』
返信を投稿した後、澪はすっと心が軽くなるのを感じた。もう、過去の亡霊に怯える必要はない。自分は前を向いているのだ、という確かな実感。それは、伊勢での経験がもたらした、澪自身の成長の証だった。
ブログを通して、澪の言葉は、ささやかな波紋のように、少しずつ、しかし確実に広がり始めていた。それは、単なる情報発信ではなく、澪自身が過去を乗り越え、他者と繋がり、社会との接点を再び紡いでいくための、大切なプロセスとなっていた。
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澪が伊勢に流れ着いてから、季節は静かに、しかし確実に巡っていった。
工房の窓から見える二見浦の海の色が、夏の名残の深い藍色から、秋の澄んだ青へ、そして冬の厳しい鉛色へと変わり、やがて春の柔らかな光を映すようになるまで。神宮の森は、鮮やかな紅葉に彩られたかと思えば、厳しい寒さに耐え、そして再び瑞々しい新緑に包まれた。
季節の移ろいは、澪がこの土地に根を下ろし、自分の時間を刻み始めていることを、静かに教えてくれるようだった。
珠結工房での日々は、澪にとってかけがえのない学びの時間となっていた。真珠の見分け方、加工の技術は、志乃の厳しい指導のもとで着実に身についていった。銀を叩く音、石を削る感触、真珠に穴を開ける際の集中力。それらはもう、澪の身体の一部となっていた。志乃との間にも、多くを語らずとも分かり合える、穏やかで深い信頼関係が築かれていた。
祖母のネックレスを再生させた後も、澪の創作意欲は尽きることがなかった。
工房の片隅にある自分の作業スペースで、澪は新しいデザインを生み出し続けていた。モチーフとなるのは、この伊勢志摩の豊かな自然と文化だった。
海女たちが魔除けとして身につけるという「セーマン・ドーマン」の星と格子の模様。五十鈴川の清らかなせせらぎが生み出す水面のきらめき。神宮の森の、苔むした古木の荘厳さ。それらを、浜辺で拾った漂着物や、個性豊かなバロックパール、そして志乃が選んでくれる上質な真珠と組み合わせ、澪は自身の哲学である「ありのままの輝き」を形にしていった。
完璧ではない、けれど温かく、力強い。そんな彼女の作品は、少しずつ、しかし確実に、独自のスタイルを確立しつつあった。
工房での制作だけでなく、志乃との穏やかな時間も増えていった。ある冬の日には、志乃に連れられて、鳥羽の相差にある現役海女の小屋を訪ねた。囲炉裏で焼かれる採れたてのサザエやアワビをご馳走になりながら、逞しく朗らかな海女さんたちの話に耳を傾ける。
厳しい海の仕事と、その中で培われた知恵や絆。それは、澪にとって新鮮な驚きと感動の連続だった。また、地元の小さな春祭りには、志乃と一緒に準備を手伝い、夜には揃いの法被を着て、ささやかな神輿を担いだりもした。汗を流し、地域の人々と笑い合う中で、自分がこの土地の一員として受け入れられていることを実感した。
おかげ横丁を歩けば、「あら、澪ちゃん、久しぶり!」と赤福の田中さんが笑顔で声をかけてくれる。ひもの屋のおじさんは、「今日はええカマスが入ったぞ!」と威勢がいい。
最初は戸惑っていた、こうした気さくな交流も、今では澪にとって日常の風景となっていた。都会で着ていたような飾り立てた服は、いつしか箪笥の奥にしまい込まれ、動きやすく、洗いざらしのシンプルな服装を好むようになっていた。伊勢の穏やかな空気の中で、澪自身も、以前よりずっと自然体で、柔らかい表情をするようになっていた。
もちろん、制作に行き詰まることもある。ふとした瞬間に、東京での苦い記憶が蘇らないわけでもない。けれど、今の澪には、それらに飲み込まれてしまう脆さはもうなかった。目の前には、信頼できる師と、豊かな自然、そして温かい人々がいる。そして何より、自分の手で何かを生み出す喜びと、それを続けるための確かな場所がある。
季節が巡るように、澪の時間もまた、伊勢の地でゆっくりと、豊かに流れていく。それは、失われたものを取り戻す時間ではなく、新しい自分として、この場所で生きていくための、かけがえのない時間だった。
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春が過ぎ、初夏の気配が感じられるようになった頃、澪は一つの決意をしていた。伊勢市内で定期的に開かれている、手作り品を持ち寄る小さなクラフトマーケット。そこに、自分の作品を出展してみようと思ったのだ。
工房で作りためたジュエリーたちが、少しずつ形になってきたこと、そして、ブログを通して寄せられる温かい声に背中を押されたこともあった。何より、自分の手で生み出したものを、直接誰かに届けたい、という気持ちが強くなっていた。
「……ほう、市に出すか。ええ心がけやないか」
澪の決意を聞いた志乃は、意外にもあっさりと賛成してくれた。「ただし、珠結工房の名前を出すからには、恥ずかしいもんは出せんぞ」と釘を刺すことは忘れなかったが、その口調には、どこか期待する響きがあった。
材料の仕入れや値付けについて相談すると、ぶっきらぼうながらも的確な助言をくれ、ディスプレイに使う古材や貝殻なども、「工房の隅に転がっとるやつ、好きに使え」と言ってくれた。
出展当日までの一週間は、あっという間だった。新作のピアスやブローチをいくつか仕上げ、一つ一つの作品に込めた想いを綴った小さなカードを用意する。ディスプレイには、志乃がくれた古材と、浜辺で拾った流木や大きな貝殻を使った。
素朴だけれど、伊勢の自然の温もりが感じられるようなブースにしたかった。準備を進めるほどに、期待と同時に不安も募る。本当に自分の作品に興味を持ってくれる人はいるのだろうか。一つも売れなかったらどうしよう。
そして、マーケット当日。会場となった公園の広場には、朝早くから色とりどりのテントが並び、活気に満ちていた。陶器、木工品、布小物、焼き菓子……。様々なジャンルの作り手たちが、自慢の品々を並べている。訪れる人々も、熱心に作品に見入ったり、作り手との会話を楽しんだりしていて、会場全体が温かい空気に包まれていた。
澪は、割り当てられた小さなスペースに、心を込めて作ったジュエリーたちを並べた。再生させた祖母のネックレスは非売品として中央に飾り、その周りに、シーグラスのピアス、バロックパールのペンダント、海女の模様をモチーフにした銀のブローチなどを配置する。深呼吸を一つして、澪は自分の「船出」を見守るように、ブースの後ろに静かに立った。
午前中は、なかなか足を止めてくれる人も少なく、澪は少し心細さを感じていた。他のブースの賑わいを横目で見ながら、やはり自分には早すぎたのかもしれない、と思い始めた時だった。
一人の若い女性が、澪のブースの前で足を止め、熱心に作品を見始めた。特に、淡い水色のシーグラスを使ったピアスに惹かれているようだった。
「これ……すごく綺麗ですね。このガラスは……?」
女性が、少し恥ずかしそうに尋ねてきた。
「あ、これは、二見の浜辺で拾ったシーグラスなんです。波に洗われて、こんな優しい形になって……」
澪が説明すると、女性は「へえ……素敵」と目を輝かせた。そして、しばらく迷った後、「これ、ください」と、はっきりした声で言った。
「え……?」
澪は、一瞬、自分の耳を疑った。初めて、自分の作品が売れたのだ。
「あ、ありがとうございます!」
慌ててピアスを丁寧に包みながら、澪の声は上擦っていた。お金を受け取る手が、わずかに震える。
「実は……」と女性は続けた。
「澪さんのブログ、読ませていただいてるんです。今日の出展も、ブログで知って来ました」
「えっ、そうなんですか!」
「はい。私も、ちょっと仕事で辛いことがあって……。でも、澪さんのブログを読んで、特に、傷ついた経験から新しいものを作り出しているっていうところに、すごく勇気をもらって……。このピアスも、なんだか、見ているだけで優しい気持ちになれる気がして」
女性は、そう言うと、はにかむように微笑んだ。
その言葉は、澪の胸を熱くした。自分の作品が、自分の言葉が、顔も知らない誰かの心に届き、支えになっている。お金を稼ぐこととは全く違う次元の、深い、深い喜び。作り手として、これ以上の幸せがあるだろうか。
「……ありがとうございます。そう言っていただけて、本当に嬉しいです」
澪は、心からの感謝を込めて言った。
その女性を皮切りに、ぽつりぽつりと、澪の作品に興味を持ち、購入してくれる人が現れた。「このバロックパールの形、面白いね」「伊勢らしいモチーフで素敵」と、人々はそれぞれの視点で作品の魅力を語り、そして選んでいった。その度に、澪は購入してくれた人と短い言葉を交わし、作品が誰かの日常の一部となっていくことへの、温かい感動を覚えた。
一日が終わる頃には、用意した作品の半分ほどが、新しい持ち主のもとへと旅立っていた。売れ残ったものもあったけれど、澪の心は、満ち足りた充実感でいっぱいだった。自分の作品が、確かに誰かの心を動かす力を持っている。その確信が、何より大きな自信となった。かつて東京で「売れない」と評価された過去の傷は、もう完全に癒えているのを感じた。
夕暮れの光の中で、ブースを片付けながら、澪は空を見上げた。今日一日が、自分の人生にとって、忘れられない「小さな船出」になったことを、確信していた。
(その日の夕方、澪が工房に戻ると、志乃は「……どうやった?」とだけ、ぶっきらぼうに尋ねた。澪が今日の出来事を報告すると、志乃は「そうか。よかったな」と短く言い、ふいと顔を背けたが、その横顔は、どこか満足げに見えた。)
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初夏の柔らかな陽射しが、西の空を茜色に染め上げる頃、澪は一人、二見浦の浜辺を歩いていた。首には、自身の手で再生させたネックレスが、確かな重みと温もりをもって輝いている。
アコヤ真珠の優しい光、シーグラスの透明感、陶片の深い色合い、そして、あの虹色に光るアコヤ貝の破片。不揃いなパーツたちが結び合わされたそれは、今の澪自身の姿そのもののように感じられた。
潮風が、優しく頬を撫でていく。寄せては返す波の音は、まるで穏やかな子守唄のようだ。澪の心は、伊勢に来たばかりの頃の不安や焦燥が嘘のように、静かで、満たされていた。
東京での挫折、志乃さんとの出会い、工房での日々、創作の苦しみと喜び、そして、クラフトマーケットでの温かい交流。これまでの出来事が、走馬灯のように、しかし穏やかに胸をよぎる。
ふと、波打ち際に、きらりと光るものを見つけた。近づいてみると、それは手のひらに収まるほどの、美しい巻貝だった。完璧な形ではない。先端が少し欠けていて、表面には波に洗われた細かな傷がついている。
けれど、夕陽の光を受けて、その内側が淡いピンクと紫の真珠色に輝き、言葉にならないほどの美しさを放っていた。
澪は、その貝殻をそっと拾い上げた。そして、波が寄せてくる場所まで、ゆっくりと歩み寄った。サンダル履きの足元に、ひんやりとした海水が打ち寄せ、足首を優しく洗い清めていく。
それは、かつて内宮の五十鈴川で感じたような、清らかな禊の感覚だった。これまでの迷いも、痛みも、すべてがこの伊勢の海に受け入れられ、浄化されていくようだった。
澪は、拾った美しい巻貝を、両手でそっと包み込むように持ち上げた。そして、海に向かって、深く息を吸い込んだ。
「ありがとう」
小さな声で呟いた。それは、この貝殻を届けてくれた海へ、この場所へ、そして、ここで出会ったすべての人々への、心からの感謝の言葉だった。
そっと、貝殻を波打ち際に置く。すると、まるで合図のように、近くの岩場から一羽の海鳥が、力強く空へと飛び立っていった。白い翼が、茜色の空に高く舞い上がる。
それと同時に、寄せてきた波が、静かに貝殻を包み込み、海の中へとさらっていった。還るべき場所へ、還っていく。自然の大きな循環の中で、すべてが受け入れられ、繋がっているのだと感じた。
澪は、自分の胸元で静かな輝きを放つネックレスに、そっと指で触れた。祖母から受け継いだ想い、伊勢の自然がくれた恵み、そして、自分の手で紡いだ新しい物語。そのすべてが、ここに結び合わされている。
これから、どう生きていこうか。
その答えは、もう明確だった。
――私は、この伊勢の地に根を下ろす。珠結工房で学びながら、志乃さんと共に、この場所の物語を未来へと結んでいきたい。
――東京での経験も、傷も、否定しない。それも今の私の一部だから。必要なら、東京とも繋がりながら、ここで見つけた『ありのままの輝き』を、私のやり方で形にし続けていきたい。
――完璧じゃなくていい。不揃いでもいい。傷があってもいい。その中に宿る、本当の美しさ、強さ、そして温かさを、ジュエリーを通して伝えていきたい。それが、私が見つけた道だから。
具体的な意志が、静かに、しかし力強く、澪の心を満たしていく。
顔を上げると、夕陽が水平線に触れようとしていた。空と海が、金色と茜色に燃え上がり、世界全体が、祝福の光に包まれているかのようだった。
澪は、その光に向かって、ゆっくりと歩き出した。その足取りは、もう迷うことなく、希望に満ちて、確かだった。伊勢の海と空が見守る中、彼女の新しい物語は、今、始まったばかりだった。
(了)
いかがでしたでしょうか?
伊勢と二見が舞台のご当地ものを書いてみたいなとずっと考えていたのでチャレンジしてみました。
真珠は鳥羽というイメージが強いですけども。
それでは★評価を頂けますと幸いです。