第3部 私の聲(こえ)、私の輝き
台風が過ぎ去り、数日が経った、よく晴れた日の早朝。空気がまだひんやりと澄み切っている中、澪は一人、伊勢神宮の内宮へと向かっていた。
浜辺で拾った漂着物たちが、祖母の家で静かに彼女の帰りを待っている。あの日感じた「これなら作れるかもしれない」という確かな衝動。それを、もっと揺るぎないものにしたかった。そして、新しい一歩を踏み出す前に、この神聖な場所で心を清めたいと思ったのだ。
まだ観光客の姿もまばらな時間帯、宇治橋の前に立つ。
俗界と聖界を分けると言われるこの橋を、澪は一歩一歩、ゆっくりと渡り始めた。檜造りの橋の感触が足裏に伝わる。
欄干から下を覗くと、五十鈴川の清らかな流れが見えた。台風の後とは思えないほど水は澄み、川底の石がくっきりと見える。その清冽な流れが、まるで澪を招き入れているかのようだった。
橋を渡り終え、玉砂利が敷き詰められた神苑を進む。手入れの行き届いた松の緑が目に鮮やかだ。そして、自然と足は、五十鈴川のほとりにある御手洗場へと向いていた。
石畳の段差を下り、川岸へ。しゃがみこんで、そっと五十鈴川の流れに手を浸した。
ひやり、とした水の冷たさが、心地よく肌を刺す。その冷たさは、眠っていた感覚を呼び覚ますように、身体の芯まで染み渡っていくようだった。せせらぎの音が、耳に優しく響く。それは、ただの水の音ではなく、遠い昔から流れ続ける、清浄な旋律のように感じられた。
澪は、両手で水をすくい、静かに口を漱いだ。そしてもう一度、手のひらで水を受け止め、自分の心の中にある淀みや迷いを、この清らかな流れに預けるように、ゆっくりと手を清めた。水の冷たさが、指先から腕へと伝い、心の中の靄が、少しずつ晴れていくような気がした。
御手洗場を後にし、再び玉砂利の参道を進む。一歩足を踏み出すたびに、じゃり、じゃり、と心地よい音が響く。
周囲には、天を突くような杉の巨木が鬱蒼と茂り、深い静寂が支配していた。木々の間から差し込む朝の光が、まるでスポットライトのように、苔むした岩や地面を照らし出している。
空気はひんやりと湿り気を帯び、濃密な木の香りが漂っていた。都会の喧騒とは全く違う、悠久の時間が流れる、神聖な空間。ここにいるだけで、自然と背筋が伸び、心が鎮まっていくのを感じた。
やがて、正宮へと続く石段の前にたどり着く。ここから先は、写真撮影も許されない、最も神聖な領域だ。澪は、石段の下で立ち止まり、白い御幌が風に揺れる正宮に向かって、静かに頭を垂れた。
何か具体的な願い事をしたわけではない。ただ、今日この場所に来られたことへの感謝と、これから進もうとしている道への決意を、心の中で静かに捧げた。
手を合わせ、顔を上げた時、不意に、熱いものが込み上げてきて、澪の瞳から涙がはらはらと零れ落ちた。それは、悲しみや苦しみの涙ではなかった。
五十鈴川の水で清められ、神域の厳かで清浄な空気に触れたことで、心の奥底から湧き上がってきた、素直で、純粋な感情の雫だった。まるで、固く閉ざされていた心の蓋が、ようやく開かれたかのように。
涙と共に、一つの確かな思いが、澪の中で形を結び始めていた。
――正直に、あろう。
――自分の心に、正直に。
――そして、これから生み出すものに対して、真摯に向き合おう。
誰かの評価を気にしたり、過去の傷に囚われたりするのではなく。ただひたむきに、誠実に。祖母が日記に綴った想い、志乃さんが語ってくれた「珠の声を聞け」という言葉。それらが、この場所で、澪自身の決意として、深く、強く、心に刻まれた。
涙が乾く頃には、澪の心は、澄み切った青空のように晴れやかになっていた。迷いは消え、進むべき道が、まっすぐ目の前に開けているように感じられた。
清々しい気持ちで、再び玉砂利の参道を歩き、宇治橋を渡る。日常の世界へと戻る橋の上で、澪は振り返り、内宮の森に向かって、もう一度、深く一礼した。その足取りは、来た時とは比べ物にならないほど、軽く、確かだった。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
内宮で心を清め、新たな決意を固めた翌日、澪は早朝まだ暗いうちに祖母の家を出た。向かう先は、二見浦。
あの夫婦岩の間から昇るという、荘厳な日の出を見るためだった。祖母が日記に綴り、幼い頃に話してくれた、特別な光景。新しい始まりを迎えるために、どうしてもこの目で見ておきたかった。
前日、工房で志乃に「明日、二見の日の出を見に行こうと思うんです」と話した時、意外な答えが返ってきた。
「……そうか。ほんなら、わしも久しぶりに行ってみるか」
いつもは工房に籠もっていることが多い志乃が、自らそう言ったことに澪は驚いたが、嬉しくもあった。
約束の時間より少し早く着くと、海岸にはすでに志乃の姿があった。まだ夜の気配が色濃く残る中、海に向かって静かに佇んでいる。隣に並ぶと、志乃は「……来たか」と短く呟いただけだった。
東の空が、ほんのりと明るくなり始めていた。藍色の空の縁が、次第に紫色を帯び、やがて柔らかなピンク色へと滲んでいく。
海は、深い静寂の中に横たわり、寄せては返す波の音だけが、単調なリズムを刻んでいた。空気はひんやりと澄み、潮の香りが濃く漂っている。沖には、夫婦岩が、注連縄で固く結ばれ、シルエットとなって浮かび上がっていた。
二人の間に、言葉はなかった。ただ、じっと、空と海の変化を見つめる。世界が、息をひそめて、太陽の登場を待っているかのようだった。
やがて、水平線と空の境目が、燃えるようなオレンジ色に染まり始めた。その瞬間、夫婦岩の少し右手の辺りから、眩い光の点が現れた。最初は小さな点だった光が、みるみるうちに力強さを増し、黄金色の輝きを放ちながら、ゆっくりと、しかし確かな力で、空へと昇り始める。
太陽が姿を現したのだ。
その光は、圧倒的だった。闇を一掃し、空を、雲を、そして海面を、燃えるような金色と朱色に染め上げていく。
夫婦岩のシルエットが、神々しい光の中にくっきりと浮かび上がり、まるで巨大な鳥居のように見えた。海面には、光の道がまっすぐに伸び、きらきらと輝いている。自然が織りなす、荘厳で、息をのむほど美しい光景だった。
澪は、その力強い光を全身に浴びながら、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。昨日までの迷いや不安が、この圧倒的な光によって、跡形もなく消え去っていくようだった。暗闇は必ず終わり、新しい朝が来る。この太陽のように、力強く、輝かしい未来が、自分にも待っているかもしれない。いや、自分で切り開いていくのだ。
「正直に、真摯に」
内宮で立てた誓いが、この光の中で、さらに強く、深く、魂に刻まれる。もう迷わない。自分の信じる道を、自分の足で歩いていこう。
ふと隣を見ると、志乃もまた、皺の刻まれた顔を上げて、眩しそうに、しかし真っ直ぐに、昇りゆく太陽を見つめていた。その横顔には、いつもの厳しさとは違う、何かとても穏やかで、満たされたような表情が浮かんでいた。
吾郎さんと共に見た、かつての日の出を思い出しているのだろうか。それとも、工房の未来に、この光のような希望を見出そうとしているのだろうか。
その時、志乃がわずかに澪の方へ顔を向け、二人の視線が合った。言葉はなかった。けれど、その瞬間に、確かに心が通い合った気がした。同じ光を見つめ、同じように心を動かされた者同士の、静かで、深い共感。それは、未来に向けた、言葉にならない約束のようにも感じられた。
やがて、太陽は完全に姿を現し、空高く昇り始めた。黄金色の光が、海面と、浜辺に立つ二人を、平等に、そして温かく照らし出す。波の音が、祝福の音楽のように聞こえた。
希望に満ちた、新しい一日が、今、始まった。澪は、隣に立つ志乃と共に、その眩しい光の中に、しばらく立ち尽くしていた。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
二見浦の海岸で浴びた、荘厳な日の出の光。その力強い温もりは、祖母の家に戻ってからも、まだ澪の身体の芯に残っているようだった。未来への希望と、揺るぎない決意。心が、久しぶりに軽やかで、澄み渡っているのを感じる。
気持ちを落ち着けようと、澪は再び、祖母の日記帳を手に取った。
あの日発見したデザイン画や、志乃さんとの友情が綴られたページを、愛おしむように指でなぞる。そして、パラパラとページをめくっているうちに、以前読んだ時には特に気に留めなかった短い一文に、ふと目が釘付けになった。
それは、祖母が何か大切なものを失くしたか、あるいは手放した時のことについて書かれたらしき、短い記述の最後に添えられていた言葉だった。
『――珠がなくなった時が、自由になる時なのかもしれない』
「珠がなくなった時が、自由になる時……?」
澪は、その言葉を声に出して繰り返した。以前読んだ時は、ただの諦めの言葉か、あるいは何か比喩的な表現だろうと、深く考えずに読み飛ばしていた。しかし、内宮での禊を経て、日の出の光を浴びた今の心には、その言葉が全く違う意味を持って響いてきたのだ。
自由になる時。それは、失うことによる喪失や諦めではないのではないか?
もしかしたら、祖母は、形あるもの、完璧な状態であることへの執着から解放されることを、「自由」と呼んだのではないだろうか。
あのネックレス。一粒欠けた、アコヤ真珠のネックレス。
あの「なくなった珠」にこだわり、元の完璧な形に戻すことだけを考えていた自分。それは、過去への執着であり、失われたものへの囚われだったのかもしれない。
祖母の言葉は、こう言っているのではないか?
珠がなくなったこと、つまり、何かが欠け、不完全になったこと。それを受け入れた時こそ、人は初めて、「こうでなければならない」という形への執着から解放されるのだ、と。
そして、その先にある「自由」とは?
それは、失われたものを嘆き悲しむ自由ではない。過去の形を追い求める自由でもない。
それはきっと、「自分の手で、未来を創造する自由」なのだ。
なくなった場所は、空白ではない。新しい何かを生み出すための、可能性の空間なのだ。そこに、過去の模倣ではない、今の自分が信じる価値、今の自分が見出した美しさを、自分の手で結び直していく。それこそが、本当の意味での「自由」なのではないか。
そう考えた瞬間、まるで目の前の霧が晴れるように、進むべき道がはっきりと見えた。腑に落ちる、という感覚。きっとこれが、祖母がこの言葉に込めた想いなのだ。そして、それは時を超えて、今の自分に向けられたメッセージなのだと、強く確信した。
「そうか……そういうことだったんだ……」
澪は、深く息をついた。心が、すとんと軽くなるのを感じる。
決意が固まった。
あのネックレスの、失われた一粒を探し出すのではない。
あの欠けた場所に、私の手で、新しい光を結び直すのだ。
浜辺で拾った、波に磨かれたシーグラス。色とりどりの陶片。欠けた貝殻。工房で出会った、歪んだバロックパール。あの「傷も景色」として輝いていた珠たち。
それらを使って、祖母のネックレスを、今の私の手で「再生」させよう。
それは、単なる修理ではない。祖母の生きた証と、その想いを受け継ぎながら、私が伊勢で見つけた「ありのままの輝き」を加えて、新しい物語を紡ぎ出すこと。過去と未来を結び、祖母の自由と、私の自由を重ね合わせること。
具体的なデザインのイメージが、頭の中に鮮やかに浮かび上がってくる。それは、完璧ではないけれど、温かく、力強く、そしてどこまでも自由な輝きを放つ、新しいネックレスの姿だった。
澪は、日記帳をそっと閉じ、窓の外に広がる伊勢の空を見上げた。もう、過去の傷に怯える自分はいない。創造への恐れもない。あるのは、自分の心に正直に、真摯に、ものづくりに向き合いたいという、力強い意志だけだった。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
祖母の家で、澪は机に向かっていた。
目の前には、あの欠けたアコヤ真珠のネックレスと、浜辺で拾い集めた色とりどりのシーグラスや陶片、貝殻が並べられている。そして、広げられたスケッチブックには、新しいネックレスのデザイン案が、確かな線で描かれ始めていた。
祖母の想いを受け継ぎながら、伊勢の自然がくれた「不完全な美」を結び合わせる。その作業は、澪の心を静かな興奮で満たしていた。もう迷いはない。ただ、自分の心に正直に、真摯に、この形を生み出したい。
その時、テーブルの上に置いていたスマートフォンが、控えめな着信音と共に震えた。画面に表示されたのは、東京で勤めていた会社の、数少ない好意的な元同僚の名前だった。
一瞬、心臓が小さく跳ねた。東京からの連絡。それは、まだ澪の心にかすかな影を落とす。しかし、深呼吸を一つして、澪は通話ボタンをタップした。
「もしもし、澪? 元気にしてる?」
電話の向こうから、懐かしい声が聞こえてきた。当たり障りのない近況報告を交わした後、元同僚は少し声を潜め、本題に入った。
「あのさ……ちょっと聞いただけの話なんだけど……早川さんのこと、何か聞いた?」
早川奈緒美。その名前に、以前のような動悸は起こらなかった。ただ、静かに「ううん、何も」と答える。
「そうなんだ。なんかね、大変なことになってるみたいで……」
元同僚は、言葉を選びながら、奈緒美が社内で窮地に立たされているらしいことを断片的に伝えてきた。
どうやら、澪のデザイン盗用とは別の件で、彼女のこれまでのやり方に問題があったことが明るみに出たようだった。降格されたのか、あるいは会社を辞めることになるのか、詳しいことはまだわからないが、かつての勢いは完全に失われているという。
その話を聞きながら、澪は自分でも驚くほど冷静だった。
以前の自分なら、その知らせに少なからず心を揺さぶられただろう。溜飲を下げる気持ち、あるいは、僅かながらも同情を感じたかもしれない。しかし、今の澪の心は、凪いだ海のように静かだった。
「そうなんだ……」
澪は、ただそう相槌を打った。そこに、喜びも、怒りも、憐れみもない。早川奈緒美という存在は、もう自分とは違う世界にいる、遠い過去の人なのだと感じられた。
彼女がどうなろうと、今の自分の人生には何の影響もない。自分の心は、今、目の前にある創造と、伊勢での穏やかな時間、そして未来へ向かう希望で満たされているのだから。
「……まあ、澪にはもう関係ない話かもしれないけど、一応知らせておこうと思って」
元同僚の気遣うような声に、「ありがとう。でも、もう大丈夫だから」と澪は穏やかに答えた。そして、短い挨拶を交わして電話を切った。
通話を終えた後、澪はしばらくスマートフォンの画面を見つめていた。そして、意を決したように、連絡先のリストを開いた。スクロールしていくと、「早川奈緒美」の名前が現れる。そこに指を置き、一瞬の躊躇もなく、「連絡先を削除」のボタンを押した。画面から、その名前が消える。
さらに、もう連絡を取ることはないであろう、会社の上司や、好意的ではなかった他の同僚たちの連絡先も、一つずつ、丁寧に削除していく。それは、過去の人間関係を物理的に断ち切る行為だった。
そして、机の引き出しの奥にしまい込んでいた、古い名刺入れを取り出した。中には、以前の会社のロゴが入った、自分の名刺と、交換したいくつかの名刺が残っている。澪は、それらをすべて取り出し、迷うことなく屑籠へと捨てた。
すべての作業を終え、澪は窓を開け、伊勢の新鮮な空気を深く吸い込んだ。まるで、心の中につかえていた最後の澱が、すっきりと洗い流されたような気分だった。過去への執着も、恨みも、もう何もない。完全に自由になったのだ、と感じた。
視線は、自然と机の上のスケッチブックに戻る。そこには、未来への希望が、確かな形となって描かれ始めていた。澪は、晴れやかな気持ちで鉛筆を手に取った。もう、何も彼女の創造を妨げるものはなかった。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
過去との訣別を果たし、心が晴れやかになった澪は、その足で珠結工房へと向かった。胸には、再生させるネックレスのイメージと、それを自分の手で形にしたいという確かな決意があった。
工房に着くと、志乃はいつものように作業場で黙々と手を動かしていた。澪は深呼吸を一つすると、カウンター越しに声をかけた。
「志乃さん、あの……お願いがあるんですが」
志乃は顔を上げ、訝しげな表情で澪を見た。
「あのネックレス……祖母の形見のことです。私、あれを、修理するんじゃなくて、新しい形で再生させたいんです」
澪は、一気に言葉を続けた。
「失くした珠を探すんじゃなくて……。あの欠けた場所に、私が伊勢で見つけたもの……浜辺で拾ったシーグラスや貝殻、それから、工房にあるハネ珠を使って、新しい光を結び直したいんです。私の手で」
真剣な澪の言葉に、志乃は目を瞠った。しばらくの間、澪の顔をじっと見つめていたが、やがて、その口元に、ふっと微かな笑みが浮かんだように見えた。それは、驚きと、どこか面白がるような、そして期待するような色が混じった、複雑な表情だった。
「……ほう。あの珠を、あんたの手で結び直すか」
志乃は腕を組み、ふむ、と顎に手を当てた。
「面白いやないか。あんたがそう決めたんなら、やってみい。工房の材料も、使うてええ。ただし」
志乃は、そこで言葉を切り、鋭い目で澪を見据えた。
「中途半端なもんは、許さんで」
その言葉には、いつもの厳しさが戻っていたが、澪にはそれが、志乃なりの励ましのように聞こえた。
「はい!」
澪は、力強く頷いた。
その日から、澪のデザイン作業が本格的に始まった。祖母の家に持ち帰った漂着物と、志乃に許しを得て工房から分けてもらった規格外の真珠たち。それらを机の上に広げ、澪はスケッチブックと向き合った。
まずは、主役となる祖母のネックレス。その上品なアコヤ真珠の連なりを丁寧にスケッチする。そして、欠けた一粒分の空間。ここに、どんな光を結び合わせるか。
拾ってきたシーグラスの、波に洗われた柔らかな形。陶片の持つ、鮮やかな色彩とかすかな模様。貝殻の、自然が生み出した螺旋や曲線。そして、工房のバロックパールたちの、一つとして同じものはない、個性的な輝き。
「珠の声を聞け……」
吾郎さんの言葉を思い出しながら、澪は一つ一つの素材と対話するように、じっと見つめ、手に取り、その質感や形を確かめた。それぞれの素材が持つ「景色」を、どうすれば一番美しく見せられるか。どう組み合わせれば、互いを引き立て合い、新しい物語を紡ぎ出すことができるか。
アイデアが浮かぶと、夢中で鉛筆を走らせた。シーグラスを銀で縁取り、欠けた部分に繋げてみる。小さな貝殻をいくつか連ねて、アコヤ真珠とリズムを作る。バロックパールを大胆に配置し、ネックレス全体に有機的な動きを与えてみる。スケッチブックのページは、様々な試みで埋まっていった。
しかし、デザインがある程度形になってくると、澪の中に、新たな迷いが生じ始めた。
これで、本当にいいのだろうか?
このデザインは、本当に「私」のものなのだろうか?
浜辺で見つけた感動、工房で学んだこと。それらに突き動かされて描いているけれど、それは結局、借り物のインスピレーションなのではないか? 自分の内側から、心の底から湧き上がってきた、本当の「心の聲」なのだろうか。
そして、もう一つの大きな影。祖母の存在。
引き出しの奥にある、祖母が描いたデザイン画。あの繊細で、温かい線。祖母のネックレスそのものが持つ、完成された美しさ。それらを意識するあまり、無意識のうちに、祖母のスタイルを模倣してしまっているのではないか? これは、祖母への尊敬なのだろうか、それとも、自分のオリジナリティへの自信のなさの表れなのだろうか。
「違う……これも、何か違う……」
澪は、描いたスケッチを、何度も何度も消しゴムで消した。気に入らずに、ページを破り捨てたことも一度や二度ではない。頭の中ではイメージが湧いているはずなのに、いざ形にしようとすると、何かがしっくりこない。産みの苦しみ。それは、東京でデザインをしていた時には感じたことのない、もっと根源的な問いを伴う苦しみだった。
工房で作業をしている時も、澪はデザインのことで頭がいっぱいだった。時折、志乃が澪のスケッチブックを黙って覗き込むことがあったが、特に口は挟まなかった。ただ、その眼差しは、澪の葛藤を見抜いているかのようだった。
自分の「心の聲」とは、一体何なのだろうか。祖母の模倣ではなく、借り物でもない、本当の自分自身の表現とは。澪は、その答えを見つけられないまま、試行錯誤を繰り返すしかなかった。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
スケッチブックの上での試行錯誤は、澪を袋小路へと追い込んでいた。描けば描くほど、「自分の声」が何なのかわからなくなる。このままでは埒が明かない、と感じた澪は、ある日、意を決して志乃に申し出た。
「志乃さん、デザインはまだ固まりきっていないんですが……先に、素材を加工する作業を始めてもいいでしょうか。手を動かすことで、何か見えるかもしれないと思うんです」
志乃は、デザイン画と格闘する澪の姿を黙って見ていたのだろう、特に驚いた様子もなく、「……そうか。それもええかもしれんな」と頷いた。「ただし、道具の扱いは慎重にせなあかんで。怪我でもされたら困るでな」
そう言って、志乃は澪を作業場へと招き入れ、基本的な道具の使い方と、特に火や刃物を扱う際の注意点を、いつになく丁寧に教えてくれた。
珠結工房の作業場は、カウンター奥の暖簾の向こうにあった。
決して広くはないが、壁一面に様々な種類のヤットコやタガネ、金槌などが整然と掛けられ、作業台の上には年季の入ったローラーやドリル、磨き機などが置かれている。吾郎さんが長年使い込んできたであろう道具たちは、静かな存在感を放っていた。
澪はまず、ネックレスの土台となる銀の加工から始めることにした。志乃に教わった通り、銀の板材を糸鋸で切り出し、それをバーナーで熱する。
ゴォォ、と音を立てて青白い炎が上がり、銀がみるみるうちに赤熱していく。その熱気が、顔まで伝わってきた。熱した銀を金床の上に乗せ、金槌で叩く。カン、カン、カン、と甲高い金属音が工房に響き渡った。
しかし、初めての作業は思うようにいかない。叩く力が弱すぎれば形にならず、強すぎれば歪んでしまう。熱しすぎて銀が溶け落ちそうになり、慌てて火から離す場面もあった。額には汗が滲み、腕はすぐに疲れて重くなった。
次に、浜辺で拾ってきたシーグラスや陶片の加工に取り掛かった。そのままの形も魅力的だが、デザインに合わせて少し形を整えたり、表面を滑らかにしたりする必要がある。回転する砥石にそっと押し当てると、キィィンという甲高い音と共に、白い粉塵が舞い上がった。
割ってしまわないように、神経を集中させて、少しずつ、少しずつ削っていく。ヤスリで角を落とし、耐水ペーパーで表面を磨き上げる。ざらざらとした感触が、指先で滑らかに変わっていく。それは地道で根気のいる作業だったが、素材が自分の手の中で少しずつ表情を変えていく様に、澪は不思議な充足感を覚えていた。
そして、最も緊張したのは、真珠に穴を開ける作業だった。
志乃が用意してくれた専用の小さなドリル。繊細な真珠を、割ったり傷つけたりせずに、正確な位置に穴を開けなければならない。澪は息を詰め、慎重に真珠を固定し、ドリルのスイッチを入れた。ウィーン、という微かな回転音。
祈るような気持ちで、ゆっくりとドリルを押し当てていく。数秒後、ドリルを離すと、真珠には綺麗に小さな穴が開いていた。思わず、安堵のため息が漏れた。
作業に没頭していると、時間はあっという間に過ぎていった。デザインの悩みも、過去の不安も、一時的に頭から消え去り、ただ目の前の素材と、自分の手先に意識が集中する。「今、ここ」にいるという感覚。それは、真珠を磨いていた時と同じ、静かで満たされた時間だった。
もちろん、失敗も多かった。銀線を思うような曲線に曲げられなかったり、ロウ付け(金属同士を接合する作業)がうまくいかず、焦がしてしまったり。そのたびに落ち込み、自分の不器用さに苛立ちも覚えた。
しかし、不格好ながらも銀のパーツが形になった時、削り出したシーグラスが思いがけない光を放った時、そして、繊細な真珠に無事に穴を開けられた時。そんな瞬間には、胸の奥からじわりと温かいものが込み上げてくるのを感じた。それは、ささやかな、しかし確かな達成感と喜びだった。
そして、何よりも大きな発見は、素材と直接向き合うことで、その「声」がより鮮明に聞こえてくるようになったことだ。
スケッチブックの上では捉えきれなかった、素材の持つ硬さ、柔らかさ、重さ、光の反射の仕方。それらが、手のひらを通してダイレクトに伝わってくる。「この陶片は、このざらつきを残した方が味わい深い」「このバロックパールは、この向きで吊るすと、一番生き生きと輝く」。デザイン画だけではわからなかった、素材自身の望む形が、少しずつ見えてくるような気がした。
志乃は、澪の作業を時折、厳しい目で見守りながらも、手出しは最低限に留めていた。しかし、澪が本当に困っている時や、危険な作業の際には、的確な助言や手本を示してくれた。「焦るな。手先だけでやるな。身体全体で、素材を感じい」そのぶっきらぼうな言葉が、澪には何よりの道標となった。
デザインの根本的な悩みは、まだ解決したわけではない。しかし、炎と銀、土と水、そして真珠という、形あるものと直接向き合う時間の中で、澪は何か確かな手応えを感じ始めていた。自分の手で、何かを生み出すことの喜びと、厳しさ。その両方を、身体全体で受け止めながら。
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炎と銀、土と水、そして真珠。素材と格闘する日々の中で、澪の手元には、少しずつネックレスを構成するパーツが集まり始めていた。叩き出した銀の有機的な曲線、波に磨かれたシーグラスの柔らかな輝き、穴を開けられたバロックパール。一つ一つは、確かに魅力的だった。
しかし、それらを最終的にどう組み合わせ、一つのネックレスとして結び合わせるか、という段階に来て、澪の手は再び止まってしまった。
スケッチブックに描いたデザイン案はいくつかある。けれど、どの組み合わせもしっくりこない。パーツを並べてみても、ただ素材が散らばっているだけで、そこに一つの意志ある形、一つの物語が見えてこないのだ。技術的な問題ではない。もっと根本的な、表現の核心に関わる部分で、迷いの霧が深まっていた。
その日も、澪が作業台の前でパーツを並べ替え、ため息をついていると、背後から静かな声がかかった。
「……手が、止まっとるな」
志乃だった。いつの間にかすぐ後ろに立ち、澪の手元を、そしてその表情を、鋭い目で見つめていた。志乃は、澪が形にし始めた銀のパーツの一つを、指先でそっと持ち上げた。そして、それを様々な角度から眺めると、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、問いかけた。
「……なあ、あんた。この珠や、この形は、本当にあんたの心の聲なんか?」
心の聲。その言葉に、澪の心臓がどきりと跳ねた。
「これを見てもな」と志乃は続けた。手にしたパーツを、そして作業台に散らばる他の素材たちを指しながら。「あんた自身の景色が、わしにはまるで見えてこんぞ。綺麗に作ろうとしとるんはわかる。けどな、それだけや。あんたが、何を伝えたいんか、さっぱりわからん」
志乃の言葉は、的確に澪の核心を突いていた。図星を指され、澪は顔が熱くなるのを感じた。反論する言葉など、何も思い浮かばない。
結局、自分はまだ、表面的な美しさや、借り物のアイデア、あるいは祖母の影を追いかけているだけなのではないか。自分の内側にあるはずの、本当の声から目を背けているのではないか。その事実に、打ちのめされたような気持ちになった。
これこそが、自分が越えなければならない、最大の壁なのだと痛感した。
うつむいてしまった澪に、志乃は意外な言葉を続けた。それは、いつもの厳しい口調とは違う、どこか遠い目をした、静かな語り口だった。
「……わしにもな、覚えがあるわ」
志乃は、壁に掛けられた古い道具の一つ、特に使い込まれた様子のヤットコを手に取った。
「若い頃、吾郎さん……いや、まだ一緒になる前やな、師匠に技術を教わっとった頃。少しずつ手がようなってきて、褒められたい一心で、そりゃあ綺麗なもんを作ったんや。自分でも、完璧や、思うた」
その時のことを思い出すのか、志乃の口元に、かすかな苦笑が浮かんだ。
「けどな、師匠に見せたら、なんて言われたと思う?」
志乃は、澪の目を見た。
「『志乃、これは綺麗やけど、心が動かん』てな。『お前の顔が、これっぽっちも見えてこん』て、厳しく言われたわ」
その時の悔しさ、情けなさ。技術だけでは人の心は決して打てないのだと思い知らされた、若い日の痛み。志乃の語る声には、その時の感情が、ありありと滲んでいた。それは、師としての厳しい教えというよりも、同じ道を歩む者としての、痛みを伴った告白のようにも聞こえた。
「手先だけで作ったもんはな、所詮、手先だけの、薄っぺらいもんにしかならんのや」志乃は、ヤットコをそっと元の場所に戻した。「あんたも、自分の弱さや、見せとうない部分から、目を背けとるんやないか?」
そして、志乃は再び澪に向き直り、諭すように言った。
「自分の心と、よう向き合いなはれ。そして、珠の声、素材の声にも、もっと深く、耳を澄ませ。小手先の器用さで誤魔化すな。あんただけの景色を、たとえそれが不格好でも、傷があったとしても、正直に、形にするんや。それができん限り、あんたの作るもんは、誰の心にも届かんぞ」
志乃の言葉の一つ一つが、澪の心に深く、重く突き刺さった。厳しい指摘。しかし、その奥には、澪の可能性を信じ、本気で向き合おうとしてくれている師の愛情が感じられた。それは、痛みと共に、しかし確かな道しるべとなる言葉だった。
自分の弱さ。見せたくない部分。正直な心。そして、素材の声。
もう一度、根本から、自分自身と、そして自分が作ろうとしているものと、向き合わなければならない。
澪は、顔を上げることができなかった。しかし、心の中では、志乃の言葉を繰り返し反芻していた。それは、これから越えなければならない壁の高さを改めて示すと同時に、その壁を越えるための、唯一の方法を示唆しているようにも思えた。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
志乃の言葉は、重く、鋭く、澪の心に突き刺さったままだった。「あんた自身の景色が見えん」――その指摘は、あまりにも的確で、反論の余地もなかった。工房の作業場にいることがたまらなくなり、澪は「少し、考えさせてください」とだけ告げて、外へ飛び出した。
あてもなく、バスに乗り、気づけばまた、二見浦の海岸に立っていた。台風一過の晴れやかな空の下で漂着物を見つけた、あの浜辺。しかし今日は、澪の心と同じように、空には灰色の雲が垂れ込め、海は重たい鉛色をしていた。
ザアア、ザアア……と寄せては返す波の音を聞きながら、澪は砂浜を一人、歩き続けた。
私の心の聲とは、何なのだろう?
私だけの景色とは、どこにあるのだろう?
私は、本当は何を表現したいのだろう?
問いかけても、答えは返ってこない。頭の中には、志乃の厳しい言葉、祖母のデザイン画、東京での挫折、そして、うまく形にならない自分のデザイン案が、ぐるぐると渦巻いている。結局、私には才能がないのかもしれない。
誰かの模倣か、借り物のアイデアしか生み出せないのかもしれない。自己嫌悪の波が、寄せては返す現実の波のように、澪の心を打ち続けた。
どれくらい歩いただろうか。澪は、波打ち際に転がっている、白いものに目が留まった。それは、以前拾ったシーグラスや陶片とは違う、もっと有機的な形をしていた。近づいて、拾い上げてみる。
それは、アコヤ貝の、真珠層が付いた一片の破片だった。おそらく、真珠養殖の過程で捨てられたものか、あるいは、自然に打ち上げられたものか。手のひらに載せると、それは不格好に欠けていて、縁は鋭く尖っていたり、逆に摩耗して丸まっていたりした。完璧な球形の真珠とは似ても似つかない、ただの貝殻の欠片。
しかし。
澪がそれを、曇り空の下で手のひらを返すと、その破片の内側が、ふいに淡い虹色の光を放ったのだ。
ハッとする。
それは、決して強く主張するような輝きではない。けれど、欠けて、いびつな形をした、この貝殻の破片の内側には、確かに、あの美しいアコヤ真珠と同じ、神秘的で、奥深い真珠層の輝きが宿っていた。
欠けているから、輝かないわけじゃない。
不完全だから、価値がないわけじゃない。
むしろ、この破片は、その鋭い欠けや、いびつな形、表面に残る傷やざらつき、そのすべてを抱え込んだまま、自身の内なる光を、必死に、しかし凛として放っているように見えた。傷も、欠けも、すべてがその輝きの一部となって、唯一無二の存在感を形作っている。
その姿を見た瞬間、澪の中で、まるで稲妻に打たれたかのような、強い衝撃が走った。
これだ。
これが、私だ。
完璧じゃない。傷もある。欠けている。自信もなくて、すぐに迷ってしまう。
でも、それでいいんだ。それが、私なんだ。
そして、だからこそ……この光があるんだ!
探していた答えは、外にあったのではない。自分の中に、すでにあるものだったのだ。自分の弱さも、傷も、不完全さも、すべてひっくるめて、それが「私だけの景色」なのだと、ようやく気づいた。それを隠そうとしたり、完璧に見せようとしたりするから、苦しかったのだ。自分の「心の聲」が聞こえなくなっていたのだ。
「傷も、景色……」
志乃の言葉が、今、本当の意味で魂に響いた。涙が、また溢れてきた。しかし、それはもう、悲しみや悔しさの涙ではない。自分自身を、ありのままに受け入れることができた喜びと、解放感からくる涙だった。
そうだ、私が表現したいのは、完璧な美しさではない。
自然が生み出した、ありのままの形。
時間が刻んだ、不揃いな輝き。
傷や欠落さえも、そのものが持つ物語として、景色として、愛おしむことのできる美しさ。
祖母の手の皺。長い年月を生きてきた証である、あの深く温かい皺。浜辺で見た、貝殻の美しい螺旋模様。自然の造形の中にある、完璧ではないけれど、心惹かれる形。それらが、具体的なデザインのヒントとして、次々と頭の中に像を結び始めた。
澪は、手のひらの中の貝殻の破片を、強く握りしめた。そのひんやりとした感触と、内側に宿る確かな輝きが、澪に勇気を与えてくれる。
もう迷わない。
工房に戻ろう。
そして、今度こそ、私の心の聲に正直に、この手で、私だけの輝きを形にするのだ。
顔を上げると、いつの間にか雲の切れ間から太陽の光が差し込み、海面の一部がきらきらと輝いていた。まるで、澪の決意を祝福するかのように。
澪は、拾った貝の破片を大切にポケットにしまうと、確かな足取りで、工房へと向かって歩き出した。その表情には、迷いはなく、創造への静かで力強い意志がみなぎっていた。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
工房に戻った澪の瞳には、以前の迷いはもうなかった。その目に宿る確かな光を見て、志乃は何も問わず、ただ黙って頷き、作業場へと促した。澪は、拾ってきたアコヤ貝の破片を握りしめたまま、静かに暖簾をくぐった。
作業台の上に、改めて素材を広げる。
祖母の形見である、一粒欠けたアコヤ真珠のネックレス。浜辺で集めた、波に磨かれたシーグラス、色とりどりの陶片、欠けた貝殻。そして、工房で選別した、いびつな形のバロックパールたち。以前は、それらを前にして途方に暮れることもあったが、今は違った。
一つ一つの素材が、まるで澪に語りかけてくるかのように、その「声」がはっきりと聞こえる気がした。
迷いはなかった。澪の手は、まるで導かれるように動き始めた。
まず、祖母のネックレス。その欠けた一粒分の空間。そこが、新しい物語の始まりの場所だ。澪は、浜辺で拾った、あの虹色の輝きを放つアコヤ貝の破片を、その空間にそっと当ててみた。ぴったりとはまるわけではない。けれど、その欠けた部分同士が、不思議と響き合うように感じられた。
銀線を熱し、叩き、曲げる。祖母の手の皺を思わせるような、あるいは貝殻の螺旋を模したような、自然で有機的なライン。その銀線で、アコヤ貝の破片を優しく包み込み、ネックレスの欠けた部分へと繋いでいく。それは、失われたものを完全に補うのではなく、欠落そのものを「景色」として受け入れ、新たな繋がりを生み出す試みだった。
次に、シーグラスや陶片。その形や色を最大限に活かすように、最小限の加工を施し、銀の縁取りをする。バロックパールは、そのユニークな形が最も美しく見える角度を探り当て、配置を決める。
叩く、削る、磨く、穴を開ける、繋ぐ。以前は戸惑い、失敗を繰り返した工程も、今は驚くほどスムーズに進んだ。
もちろん、技術的に完璧になったわけではない。けれど、心の中に迷いが消えたことで、指先が、身体が、素材と素直に対話できるようになったのだ。バーナーの炎も、金槌の音も、ドリルの回転も、すべてが創造のリズムの一部となって、澪を支えているようだった。
何時間も、何日も、澪は作業に没頭した。食事や睡眠も忘れがちになるほど、その時間は濃密で、満たされていた。疲労は感じたが、それは心地よい疲労だった。自分の内側から湧き上がる「心の聲」に従い、それを一つ一つ形にしていく喜び。それは、何物にも代えがたいものだった。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
最後のパーツを繋ぎ合わせ、磨き上げ、そっと作業台の上に置く。
一つのネックレスが、そこに完成していた。
それは、決して均整の取れたデザインではなかった。
アコヤ真珠の連なりの中に、虹色に光る貝の破片が大胆に組み込まれ、その周りには、淡い色のシーグラス、模様のある陶片、そして個性豊かなバロックパールが、まるで自然に寄り添うように配置されている。
それらを繋ぐ銀のラインは、時に力強く、時に繊細に、全体を有機的な一つの流れとしてまとめ上げていた。
完璧ではない。不揃いだ。しかし、そこには、温かく、力強い輝きがあった。それぞれの素材が持つ、異なる光や色、質感が、互いを打ち消し合うことなく、見事に調和し、一つの豊かな「景色」を作り出している。
それは、洗練されていながらも素朴で、どこか懐かしく、そして生命力に満ち溢れた輝きだった。まるで、伊勢の自然そのものを、手のひらに掬い取ったかのような。
澪は、完成したネックレスを、そっと手に取った。ひんやりとした感触と、ずっしりとした重み。光にかざすと、それぞれのパーツが、それぞれの場所で、それぞれの輝きを放っている。アコヤ真珠の柔らかな光、貝の破片の虹色のきらめき、シーグラスの透明な輝き、陶片の深い色合い、バロックパールの複雑な光沢。
それを見つめているうちに、澪の目から、静かに涙が溢れ落ちた。
それは、工房で真珠を磨きながら初めて癒やしを感じた時の涙とも、五十鈴川の清流に心を清められた時の涙とも違う、もっと深く、満たされた感情からくる涙だった。
自分の手で、自分の「心の聲」を、偽りなく形にすることができた。
傷つき、欠けていた自分自身を、この作品を通して、ようやく受け入れることができた。
深い、深い達成感が、身体の奥底から湧き上がってくる。それは、他者からの評価や成功とは無関係の、自分自身との対話の中で得られた、何にも代えがたい喜びだった。祖母への想い、志乃さんへの感謝、伊勢の自然への敬意。そのすべてが、この一つの形に結実したように感じられた。
澪は、完成したネックレスを胸に抱きしめ、しばらくの間、その温かな輝きと、内なる喜びを、静かに噛み締めていた。