第2部 心の景色、珠(たま)の囁き
本日2話、明日2話で完結です。
規格外の真珠を選り分ける作業は、澪にとって日課となっていた。
最初は途方に暮れるばかりだったハネ珠の山も、毎日触れているうちに、少しずつその表情の違いが見分けられるようになってきた。
震えていた指先は、いつしか一つ一つの珠の微妙な凹凸や温度を確かめるように、滑らかに動くようになっていた。完璧な円ではない、歪んだ珠。均一な色ではない、複雑な虹色を宿した珠。その一つ一つが持つ個性に、澪は知らず知らずのうちに引き込まれていた。
その日も、澪がカウンターで黙々と作業を続けていると、ふと背後に人の気配を感じた。振り返る前に、志乃が隣に立ち、澪の手元をじっと覗き込んでいることに気づいた。澪は、無意識に背筋を伸ばした。
志乃は、澪が色別に分けようとしていた珠の山の一つを、指先で軽くかき混ぜた。そして、中からクリーム色がかった、やや歪んだ形の珠を一つ、つまみ上げた。
「……あんた、デザイナーやったんやろ?」
唐突な問いかけに、澪は「え……あ、はい」とぎこちなく答えた。志乃が自分の過去についてどこまで知っているのか、澪にはわからなかった。
「やったら、こういう珠の値打ちが、何で決まるかくらいは知っとるか?」
志乃は、手に持った珠を澪の目の前に差し出しながら言った。
「えっと……大きさ、とか、形、色……でしょうか」
澪は、教科書的な知識を思い出しながら答えた。
「まあ、それもあるわな。けどな、一番大事なんは、『巻き』と『テリ』や」
志乃は、指の上の珠をゆっくりと回転させながら続けた。
「『巻き』ゆうんは、この真珠層の厚さのことや。核の上に、貝がどれだけ時間をかけて真珠層を巻いてくれたか。これが厚いほど、珠に深みが出る」
その言葉とともに、志乃は自分の作業場で使っているらしいルーペを澪に手渡した。「これで、よう見てみ」
澪がおそるおそるルーペで珠を見ると、表面が滑らかに見えても、非常に細かな層が重なっているのがわかった。
「そして、『テリ』。これが珠の命やな」
志乃はルーペを覗き込む澪に語りかける。
「真珠層が厚うて、きめ細かく巻かれとると、内側から湧き上がるような、こっくりとした艶が出る。それが『テリ』や。ええテリの珠はな、こうやって覗き込んだら、自分の顔がはっきり映るもんや」
澪は、志乃に言われるまま、他のいくつかの珠もルーペで観察した。確かに、珠によって輝き方が全く違う。ぼんやりと光を反射するだけのものもあれば、まるで内側に光源があるかのように、複雑で深みのある光を放つものもある。
「じゃあ……こういう、エクボとか、傷があるものは……?」
澪は、表面にくぼみや筋が見える珠を指して尋ねた。デザイナーとしては、それは欠点であり、価値を下げるものだと教えられてきた。
志乃は、澪が指した珠の一つを手に取ると、それをしばらく無言で見つめた。そして、ふっと息をつくように言った。
「まあ、世間一般では『キズ』やな。これがあると、値打ちは下がる。せやけどな……」
志乃は言葉を切ると、その珠を澪の目の高さまで持ち上げた。
「わしはな、これをただの『キズ』とは思わん時もある。これも、その珠が持っとる『景色』の一つやと思ておる」
「景色……ですか?」
澪は、思わず聞き返した。傷が、景色?
「そうや。景色や」
志乃は、強い光を宿した目で澪を見据えた。
「考えてもみい。真珠は、海の中で、生きた貝が時間をかけて育むもんや。完璧な環境ばかりやない。貝だって生きとるんやから、体調のええ時も悪い時もある。海が荒れる日もある。そういう中で、懸命に真珠層を巻いていくんや。その過程でできたもんが、こういうエクボやったり、シワやったりするわけやな」
志乃は、指の上の珠を愛おしむように撫でた。
「人間かて同じやろ。傷一つない、つるつるの人生なんてありゃせん。できた傷も、歪みも、その人が生きてきた証、その人だけの『景色』やないか?」
「傷も……景色……」
澪は、その言葉を、まるで初めて聞く外国語のように、口の中で繰り返した。
その瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃が、澪の全身を貫いた。
傷。欠点。失敗。自分がこれまで、どれだけそれらを恐れ、避け、隠そうとしてきたことか。デザインを盗まれ、会社に裏切られたという深い傷。自信を失い、空っぽになってしまった自分。それらはすべて、消し去りたい過去であり、恥ずべき欠点だと思い込んでいた。
しかし、志乃の言葉は、全く違う視点を提示していた。傷は、欠点ではなく、景色なのだと。それがあるからこそ見える風景があり、生まれる個性があるのだと。
自分の心の中にある、あの醜いと思っていた傷跡も、見方を変えれば、自分だけの「景色」になるのかもしれない。そう思った瞬間、固く閉ざされていた心の扉が、ほんの少しだけ、ぎ、と音を立てて開いたような気がした。
志乃は、澪の表情の変化を読み取ったのか、それ以上は何も言わなかった。ただ、手にしていた珠を箱に戻すと、「まあ、そういうこっちゃ。あとは自分で考えなはれ」とだけ言い残し、静かに作業場へと戻っていった。
一人残された澪は、目の前にあるハネ珠の山を、改めて見つめ直した。一つ一つの珠が持つ、いびつな形、不均一な色、そして小さな「キズ」。それらが、先ほどまでとは全く違って見えた。欠点ではなく、個性として。傷ではなく、その珠だけが持つ、唯一無二の「景色」として。
澪は、そっと一粒のバロックパールを手に取った。その複雑な凹凸が生み出す陰影と、そこから放たれる柔らかな光沢。それは、完璧な球体にはない、不思議な魅力と力強さを秘めているように感じられた。
「傷も、景色……」
もう一度、その言葉を呟いてみる。それは、まだか細い光だったが、澪の心の中に、確かな温かさをもって灯り始めていた。
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ハネ珠の選別作業を始めてから一週間ほど経った頃、志乃は作業場から一枚の柔らかな鹿革のセーム革と、小さな容器に入った白い粉を持ってきた。そして、選別された珠の中から、比較的形が整っているが、まだ少し輝きが鈍いものをいくつか選び出すと、澪の前に置いた。
「今度は、これを磨いてみい」
志乃は、セーム革に白い粉を少量つけ、珠を優しく、しかし確かな手つきで磨く手順を、無言で示してみせた。キュッ、キュッ、とリズミカルな音が工房に響く。磨かれた珠は、見違えるように艶やかになった。
「……やってみ」
短く言い、志乃はまた自分の作業場へと戻っていった。
澪は、見よう見まねで、恐る恐る最初の珠を手に取った。ひんやりとした感触。セーム革に白い粉をつけ、教わった通りに、優しく、円を描くように磨き始める。最初は力加減がわからず、ぎこちない動きになった。
シュッシュッ、キュッキュッ。布と真珠が擦れる、乾いた音が静かな工房に響く。澪は、目の前の一粒に意識を集中させた。他のことは何も考えないように。ただ、指先の感覚と、繰り返される動きに没頭しようとした。
どれくらいの時間が経っただろうか。
最初はバラバラだった思考が、単調な作業を繰り返すうちに、次第に静まっていくのを感じた。東京での出来事、未来への不安、自分を責める声。それらが、まるで遠い世界の出来事のように、意識の表面からゆっくりと沈んでいく。
心が、凪いだ水面のように静かになっていく。ここには、ただ、自分と、目の前の珠と、磨くという行為だけが存在していた。
磨き進めるうちに、手のひらの中の珠が、微かに熱を帯びてくるのを感じた。そして、くすんでいた表面が、少しずつ、本当に少しずつ、内側から光を放ち始めるのがわかった。鈍い鉛色だった光沢が、柔らかな乳白色の輝きへと変わっていく。その変化は、まるで眠っていたものが、ゆっくりと目を覚ます過程を見ているかのようだった。
ふと、磨き上げた珠の表面に、自分の顔が映り込んでいることに気づいた。
最初は、歪んでぼんやりとした影のようだったが、さらに磨き続けると、少しずつ輪郭がはっきりとしてくる。そこに映っていたのは、疲れと不安に強張っていた東京での自分の顔ではなく、少しだけ眉間のしわが和らぎ、どこか無心になったような、穏やかな表情の自分だった。
次に澪が手に取ったのは、少し歪んだ形をした、表面に微かなエクボがいくつか見える珠だった。これも、磨けば輝くのだろうか。澪は、半信半疑のまま、同じように磨き始めた。
磨いても、エクボが消えるわけではない。歪んだ形が、完璧な球体になるわけでもない。しかし、磨き続けるうちに、珠全体が、驚くほどの「テリ」を放ち始めたのだ。
深い、内側から湧き上がるような、複雑な光。そして、不思議なことに、あれほど気になっていたエクボや歪みが、その輝きの中に溶け込み、欠点ではなく、むしろその珠だけの個性的な表情、まさに「景色」として見えてくるのだった。
その瞬間、澪の中で、何かが弾けた。
はっ、と息を飲む。
この珠のように。
傷があっても、歪んでいても、磨けば、こんなにも強く、美しく輝けるのかもしれない。
欠けた部分を無理に埋めなくても。完璧な形にならなくても。
この珠が、その傷や歪みを抱えたまま、自身の内なる光を解き放っているように。
私も、私のままで、もう一度、輝ける日が来るのかもしれない。
そう思った途端、熱いものが込み上げてきて、視界が滲んだ。涙が、一筋、頬を伝って手の甲に落ちる。それは、悲しみの涙ではなかった。絶望の中で見つけた、ほんの小さな、しかし確かな希望の光に対する、感動と安堵の涙だった。
自分の傷も、欠点も、消し去るのではなく、受け入れて、磨いていけば、それはいつか、自分だけの「景色」として輝き出すのかもしれない。志乃の言葉が、知識としてではなく、実感として、澪の全身に染み渡っていくのを感じた。
澪は、磨き上げた、傷のある美しい珠を、手のひらでそっと包み込んだ。その温かな光沢が、凍てついていた彼女の心を、少しずつ溶かし始めていた。
作業場の暖簾の隙間から、志乃がじっと澪の様子を見守っていた。その眼差しは、厳しさの中に、微かな温かさを宿しているように、澪には感じられた。しかし、志乃は何も言わず、静かに自分の仕事に戻っていった。
澪は、滲む視界の中で、もう一度、手のひらの珠を見つめた。そして、新しい珠を手に取り、再び、磨き始めた。キュッ、キュッ、という音が、希望のリズムのように、静かな工房に響き続けた。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
その日の作業を終え、澪は磨き上げた数粒の真珠を、小さな布の上に並べて志乃に見せた。昨日、感情が溢れて涙を見せてしまった手前、少し緊張していたが、志乃は特にそのことには触れず、ただ黙ってルーペを手に取り、一粒ずつ丁寧に検分していった。
「……まあ、ええやろ。昨日よりは、手の動きがようなっとる」
厳しい評価が多い志乃にしては、珍しく肯定的な言葉だった。澪は、ほっと胸をなでおろした。
志乃はルーペを置くと、ふと、作業場の壁に掛けられた古い道具に目をやった。そこには、使い込まれて黒光りするヤットコや、柄の木の色が変わったタガネなどが、整然と並べられている。
その中の一つ、ひときわ年季の入った、真鍮製の古いルーペを手に取ると、志乃は懐かしむように、その表面を指でそっとなぞった。
「これはな、うちの人が……吾郎さんが、若い頃からずっと使いよったルーペや」
ぽつり、と志乃が呟いた。澪が工房に通い始めてから、志乃が亡くなった夫について自ら語るのは、これが初めてだった。澪は、息をひそめて、その言葉の続きを待った。
「あの人はな、口数の少ない人やったけど、仕事には厳しかった。特に、珠を見る目にはな」
志乃は、ルーペをそっと作業台の上に置いた。その仕草には、深い愛情と尊敬の念がこもっているように見えた。
「口癖のように言うとったわ。『珠の声を聞け』てな」
「珠の……声……?」
澪は聞き返した。
「そうや」と志乃は頷いた。「ただ磨くんやない。ただ穴を開けて、金具を付けるんやない。その珠が、どうなりたいか、どう輝きたいと思とるか、その声によう耳を澄ませ、てな。形がいびつでも、多少キズがあっても、それぞれの珠に、一番ええ輝き方がある。それを見つけてやるのが、職人の仕事や、てよう言うとった」
志乃の言葉は、澪の心にすとんと落ちた。それは、以前聞いた「傷も景色」という考え方と、深く通じ合っているように感じられた。技術だけではない、素材そのものへの敬意と対話。デザイナーとして、忘れかけていた大切なことを、改めて教えられた気がした。
「この工房もな、最初は二人で始めたんや」
志乃は、窓の外の、穏やかな二見浦の海に目をやりながら、遠い日を思い出すように語り始めた。
「わしが海女で採ってきたもんや、養殖の手伝いでもらったわずかな金貯めてな。あの人も、他の工房で修行しながら、夜中にここで道具叩いて……。そりゃあ、苦労もしたわ。ええ珠が採れん年が続いたり、作ったもんがなかなか売れなんだり。もう、暖簾を下ろそうかと思うたことも、一度や二度やなかった」
普段は感情をあまり表に出さない志乃の口から語られる過去の苦労話は、澪にとって意外なものだった。しかし、その声には悲壮感はなく、むしろ、どこか誇らしげな響きさえあった。
「けどな、二人で乗り越えてきたんや。納得のいく珠ができた時の喜び、初めてお客さんが『綺麗やね』言うて買うてくれた時の嬉しさ……。そういうのがあったから、続けてこれたんやろな」
志乃の目元が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。日焼けした顔に刻まれた皺が、その語る人生の深みを物語っている。
澪は、ただ黙って志乃の言葉に耳を傾けていた。初めて聞く、珠結工房の歴史。そして、五十鈴吾郎という、今はもういない職人の息遣い。
この静かな工房が、ただの仕事場ではなく、志乃と吾郎、二人の人生そのものが詰まった場所なのだということを、ひしひしと感じていた。そして、志乃が一人でこの場所を守り続けていることの重みも。
「珠の声を聞け……」
澪は、その言葉を心の中で繰り返した。それは、真珠職人だけでなく、ものづくりに関わるすべての人間にとって、根源的な問いかけのように思えた。自分は、素材の声を聞いていただろうか。自分の作りたいものだけを押し付けてはいなかっただろうか。
志乃が語り終えると、工房には再び静寂が戻った。しかし、それは以前の張り詰めた静けさとは少し違っていた。共有された記憶と、亡き人への想いが、空間に温かい余韻を残している。
師と弟子、というにはまだ早いかもしれないが、二人の間に、確かに何かの繋がりが生まれたような、そんな穏やかな空気が流れていた。
澪は、作業台の上に置かれた吾郎の古いルーペに、そっと視線を送った。そのレンズを通して、彼は一体、どんな珠の声を聞いてきたのだろうか。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
その夜、工房から祖母の家に戻った澪は、昼間の志乃の話が頭から離れなかった。「珠の声を聞け」という亡き吾郎の言葉、そして、志乃と吾郎が二人で築き上げてきた珠結工房の歴史。
自分の知らないところで、二人の間には深く、強い絆と物語があったのだ。そして、その物語の中に、自分の祖母・咲子もいたのかもしれない、という予感がしていた。
もっと祖母のことを知りたい。そして、祖母と志乃さんの関係を。そんな思いに駆られ、澪は改めて祖母が使っていた部屋を見回した。前回訪れた時は、ただ埃と静寂に圧倒されるばかりだったが、今は少し違う気持ちで、そこに残されたものと向き合うことができた。
鏡台の横に置かれた、小さな桐の箪笥。その一番下の引き出しをそっと開けてみると、古いアルバムや手紙の束に混じって、一冊の古びた手帳が目に留まった。濃い緑色の布張りの表紙は、角が擦り切れ、少し色褪せている。澪が生まれるよりも、ずっと前のものだろう。
息をのみ、震える指でその手帳を手に取った。表紙を開くと、一枚目のページには、インクの色が少し薄くなった、しかし丁寧で丸みを帯びた文字で、「昭和四拾五年」と記されていた。祖母の日記帳だった。
黄ばんだページを一枚、また一枚とめくっていく。そこには、澪の知らない若い頃の祖母の、日々の出来事や思いが、瑞々しい言葉で綴られていた。天気のこと、畑仕事のこと、近所の人とのやりとり。そして、頻繁に登場するのが、「志乃ちゃん」という名前だった。
『今日は志乃ちゃんと、浜でワカメを採った。二人で夢中になって、気づけば籠いっぱい。帰り道、夕日が綺麗で、海がキラキラ光って、思わず二人で笑い出した。志乃ちゃんがいると、どんな仕事も楽しくなる』
『志乃ちゃんが、海女の仕事で少し身体を痛めたらしい。心配で見舞いに行くと、「これくらい平気や」と笑っていたけれど、顔色が悪かった。早く良くなりますように』
『夜、縁側で志乃ちゃんと将来の話をした。いつか、自分たちの手で、この伊勢の海の美しさを形にできるような仕事がしたいね、と。志乃ちゃんは真珠を見る目が確かだし、私は……絵を描くのは好きだけど、それだけじゃなあ。でも、二人でなら、何かできるかもしれんね、と約束した』
日記の中の祖母と志乃は、まるで姉妹のように親密で、互いを深く信頼し合っていた。海と共に生きるたくましさと、未来へのささやかな夢。澪は、自分の知っている優しい祖母の姿の奥に、こんなにも生き生きとした情熱を秘めた若い女性がいたことを知り、胸が熱くなった。
ページをめくる手が、ある記述の上で止まった。
『今日は志乃ちゃんと、相差の石神さんにお参りに行った。「女性の願いを一つだけ叶えてくれる」というので、二人で真剣にお願いしてきた。志乃ちゃんは「咲ちゃんが幸せになれますように」と。私は……恥ずかしいけど、「志乃ちゃんと、いつか二人で、自分たちの珠のお店が持てますように」とお願いした。叶うといいなあ』
石神さまへの願い。二人の共有した夢。その純粋さに、澪は思わず涙ぐんだ。志乃さんは、あの頃の夢を、吾郎さんと共に叶えたのだろうか。そして、祖母は……。
日記の後半のあるページに、一枚の紙が挟まっているのを見つけた。それは、日記帳の紙よりも少し厚手の上質な紙で、鉛筆で描かれたスケッチだった。
息をのむ。
そこに描かれていたのは、繊細な線で表現された、ネックレスのデザイン画だった。中心には、柔らかな曲線で描かれた木の実のようなモチーフがあり、そこから滴るように、数粒の真珠が配置されている。
それは、紛れもなく、澪が祖母から聞いた「時じくのかくの木の実」を思わせるデザインだった。盗まれた自分のデザインの原型が、確かにそこにあった。
さらに、別のページからは、もう一枚、小さなデザイン画が出てきた。それは、アコヤ真珠を一粒だけ使った、シンプルなペンダントトップのデザインだった。
貝殻の螺旋を思わせるような、有機的な曲線を持つ銀の台座が、真珠を優しく包み込んでいる。決して華美ではないが、洗練されていて、作り手の温かい眼差しが感じられるデザインだった。
祖母が、自分でデザインを描いていたなんて。澪は、その事実に強い衝撃を受けた。祖母もまた、自分と同じように、形を生み出すことへの情熱を持っていたのだ。それは、澪自身の創造性のルーツを垣間見たような感覚だった。
祖母と、志乃さん。そして、自分。真珠という糸が、世代を超えて、確かに繋がっている。自分が、あの灰色のオフィスから逃げるようにして伊勢に来たのは、単なる偶然ではなかったのかもしれない。まるで、見えない力に導かれるように。
澪は、日記とデザイン画を胸に抱きしめた。そして、バッグの奥にしまってあった、あの桐箱を取り出した。
中には、一粒欠けたアコヤ真珠のネックレスが、静かに横たわっている。このネックレスは、祖母と志乃さんの友情の証だったのだろうか。それとも、祖母の叶わなかった夢の断片なのだろうか。
欠けた一粒の謎はまだ解けない。けれど、このネックレスが、ただの形見以上の、深い意味を持っていることだけは、確信できた。
祖母から受け継いだもの、そして、自分がこれから紡いでいくべき物語。その輪郭が、この静かな家の中で、少しずつ見え始めてきた気がした。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
祖母の日記とデザイン画を発見した翌日、澪は少しだけ気分を変えたくて、伊勢神宮の内宮へと向かうバスに乗った。
目的は、参拝というよりも、その門前に広がる「おかげ横丁」や「おはらい町」の賑わいに触れてみたかったからだ。祖母の日記に描かれていた、日々の暮らしの息遣い。それを、この伊勢の町で少しでも感じてみたかったのかもしれない。
宇治橋前のバス停で降り、鳥居をくぐらずに、そのままおはらい町へと続く石畳の道を進む。
平日の昼間だというのに、通りは多くの人々で賑わっていた。修学旅行生らしい集団、杖をついたお年寄りのグループ、外国からの観光客、そして地元の人々。様々な言葉と笑顔が飛び交い、活気に満ち溢れている。
道の両側には、切妻・入母屋・妻入り様式の古い木造建築が軒を連ね、まるで江戸時代に迷い込んだかのようだ。
軒先には色とりどりの暖簾が揺れ、香ばしい匂いが漂ってくる。伊勢うどんの甘辛い出汁の香り、焼きたての餅の匂い、香ばしいひものの匂い。それらが混じり合って、食欲をそそる。
澪は、その賑わいの中に身を置きながら、ゆっくりと歩を進めた。東京の雑踏とは違う、どこか懐かしく、温かい喧騒。最初は少し戸惑いを感じていたが、周囲の人々の楽しそうな表情を見ているうちに、強張っていた澪の心も、ほんの少しだけ緩んでくるのを感じた。
歩き疲れて、おかげ横丁の一角にある赤福の店に入った。五十鈴川に面した縁側の席に腰を下ろし、名物の赤福餅とお番茶のセットを注文する。川面を渡る風が心地よい。
「姉ちゃん、一人で来たんか?」
不意に、隣の席に座っていた年配の女性が、人懐っこい笑顔で話しかけてきた。日除けの麦わら帽子を目深にかぶった、地元の人らしい快活な雰囲気の女性だった。
「あ、はい……」
突然話しかけられ、澪は少し身構えた。東京では、見知らぬ人に話しかけられることなど滅多になかったし、ましてや個人的なことを聞かれるのは苦手だった。
「そうかそうか。伊勢は初めてけ?」
「いえ、祖母がこちらに住んでいたので、子供の頃は……」
「へえ、そうなんやな!じゃあ、久しぶりのお伊勢さんやな。ゆっくりしていきないよ」
女性は、にこにこと笑いながら言うと、特にそれ以上は詮索せず、自分の赤福餅を美味しそうに頬張り始めた。
その女性こそ、後に顔なじみになる赤福の店員、田中佳代さんだったが、その時の澪は知る由もなかった。ただ、そのあっけらかんとした、押し付けがましくない親切さが、澪の警戒心を少しだけ解きほぐした。
赤福の店を出て、再び横丁を散策する。ひもの屋の店先では、威勢の良いおじさんが、うちわでパタパタと風を送りながら、網の上で魚を焼いていた。香ばしい匂いに誘われて足を止めると、おじさんが大きな声で言った。
「おっ、姉ちゃん、ええ匂いやろ!これ、今朝獲れたアジやで!ちょっと食うてくか?」
有無を言わさぬ勢いで、焼きたてのひものを一切れ、爪楊枝に刺して差し出される。澪は思わず受け取り、口にした。
「……!美味しいです」
パリッとした皮の香ばしさと、ふっくらとした身の旨味。思わず素直な感想が口をついて出た。
「せやろ!」とおじさんは満足げに笑った。
「伊勢の海の幸は最高やで!」
その後も、伊勢うどんの店で、相席になった地元のおばあさんと短い言葉を交わしたり、真珠を扱う土産物店で、店員さんに商品の説明を丁寧にしてもらったり。
出会う人々は皆、どこかおっとりとしていて、飾らない笑顔を向けてくれた。そこには、東京で感じたような、常に誰かと比較されたり、値踏みされたりするような、ピリピリとした空気がなかった。
もちろん、すれ違う人の中には、様々な事情や悩みを抱えている人もいるのだろう。けれど、この場所には、人々を自然に受け入れ、心を少しだけ軽くさせるような、温かい空気が流れているように感じられた。
おかげ横丁を後にする頃には、澪の心は、来た時よりもずっと軽くなっていた。祖母が生きたこの町の日常。その温かさに触れたことで、凍てついていた心が、少しだけ溶け出したような気がした。
まだ、自分の進むべき道ははっきりと見えないけれど、この伊勢という場所が、少しずつ、自分にとって特別な場所になり始めていることを、澪は感じていた。
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工房での日々が積み重なるにつれ、澪の目は、以前にも増して、そこに転がっている素材たちの声を聞き取ろうとしていた。
完璧ではないからこそ放つ、唯一無二の輝き。志乃から教わった「傷も景色」という言葉、そして吾郎さんの「珠の声を聞け」という哲学。それらが、澪の中でゆっくりと、しかし確実に根付き始めていた。
その日、澪は選別を終えたハネ珠の箱を眺めていた。
歪んだバロックパール、優しいピンクの色むらを持つ珠、微かなエクボが星のように見える珠。隣には、志乃が何かに使おうとしたのか、切れ端になった銀線や、浜で拾ってきたらしい滑らかなシーグラス、小さな貝殻などが無造作に置かれている。
それらを眺めているうちに、澪の中で、むくむくと何かが生まれてくるのを感じた。あの、東京のオフィスで失ってしまったはずの感覚。何かを形にしたい、という強い衝動だった。
気づけば、澪はバッグから、伊勢に来てから何となく買っておいた小さなスケッチブックと鉛筆を取り出していた。工房の隅にある、窓際の小さな作業台。そこにスケッチブックを広げ、目の前にある素材たちをじっと見つめる。
そして、おそるおそる、鉛筆を走らせ始めた。
最初に描いたのは、いびつな形のバロックパールだった。その歪んだ形を、欠点として修正するのではなく、むしろそのユニークさを強調するように、柔らかな銀のラインで包み込む。
隣には、シーグラスの淡い青緑色を添えてみる。波に洗われ、角が取れた優しい形。真珠の有機的な輝きと、ガラスの持つ透明感が、互いを引き立て合うような気がした。
描き始めると、止まらなくなった。アイデアが、次から次へと溢れ出してくる。
あのエクボのある珠は、小さな星屑を散りばめた夜空のように見立てたらどうだろう。この細長い珠は、海岸に打ち上げられた流木と組み合わせたら面白いかもしれない。祖母が描いていた、あの貝殻の螺旋模様のデザインも、現代的にアレンジできるのではないか。
時間を忘れ、澪は夢中で鉛筆を動かした。紙の上に、新しい形が生まれ、線が繋がり、物語が紡がれていく。それは、途方もなく楽しく、満たされた時間だった。
そうだ、私はこれが好きだったんだ。デザインすることが、こんなにも心を高揚させるものだったんだ。忘れかけていた創作の喜びが、全身に蘇ってくる。
頬が紅潮し、目が輝いているのを、澪自身も感じていた。スケッチブックのページは、あっという間にいくつかのデザインで埋まっていった。
その日は、高揚した気持ちを抱えたまま、祖母の家へと帰った。夕食を済ませ、部屋で一人、再びスケッチブックを開く。昼間の興奮がまだ残っていて、もっとアイデアを深めたいと思ったのだ。
しかし、昼間描いたスケッチを改めて眺めているうちに、ふとした瞬間に、それは訪れた。
『面白いけど、少し地味じゃない?』
奈緒美の、あの値踏みするような声が、すぐ耳元で聞こえた気がした。
次の瞬間、目の前のスケッチが、急に色褪せて見えた。昼間はあんなに魅力的に思えたデザインが、稚拙で、独りよがりで、取るに足らないもののように感じられる。
『君のデザインは、悪くないけど……売れないんだよね』
かつての上司の、ため息混じりの声が蘇る。
『どうせ、私なんかが描いたって……』
心の奥底から、黒い靄のような自己否定感が湧き上がってきた。
『また誰かに利用されるだけかもしれない。また傷つくだけかもしれない。才能なんて、最初からないんだ』
過去のトラウマが、何の脈絡もなく、しかし鮮明な映像と音声、そして身体的な感覚を伴って、澪を襲った。会議室の冷たい空気、奈緒美の嘲るような目、会社に裏切られた時の絶望感。それらが一気に押し寄せ、澪の呼吸を浅くさせる。
鉛筆を持つ手が、カタカタと震え出した。描こうとしても、線が引けない。さっきまで溢れていたアイデアは跡形もなく消え去り、頭の中は恐怖と無力感でいっぱいになった。
「やめて……」
澪は小さく呻き、スケッチブックをパタンと閉じた。そして、両膝を抱えて、その場にうずくまった。せっかく見え始めた光が、また厚い雲に覆われてしまったような感覚。創作の喜びのすぐ隣には、こんなにも深い闇が、まだ口を開けて待っていたのだ。
蘇った才能は、同時に、癒えたはずの痛みを、容赦なく抉り起こした。澪は、暗い感情の渦の中で、ただ小さく身を縮こませるしかなかった。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
あの夜、過去のトラウマに襲われて以来、澪の心は再び重たい雲に覆われていた。
工房での作業にも、以前のような集中力は戻らず、どこか上の空で手を動かす日が数日続いていた。磨いている真珠の輝きも、心なしか鈍く感じられる。
志乃は何も言わなかったが、澪の様子の変化には気づいているようだった。
その日は、月末が近いせいか、志乃は珍しく作業場には入らず、カウンターで分厚い帳簿のようなものを広げ、難しい顔でペンを走らせていた。
時折、小さく、しかし深い溜息をつくのが聞こえてくる。普段の厳しい姿とは違う、その疲れたような横顔に、澪は胸騒ぎを覚えた。
お昼休憩の少し前、澪が新しいお茶を淹れて志乃の前に置いた時だった。志乃は、帳簿から顔を上げることなく、ぽつりと言った。
「……今年も、あかんかったわ」
その声は、いつものような張りがなく、ひどくか細く聞こえた。
「え……?」
澪が聞き返すと、志乃はようやく顔を上げ、自嘲するような、力のない笑みを浮かべた。
「決算や。まあ、わかっとったことやけどな。今年も赤字や」
帳簿に並ぶ数字の意味は澪にはわからない。しかし、志乃の表情と声の調子から、状況が深刻であることは痛いほど伝わってきた。
「わしも、もう若うないしな……」志乃は、皺の刻まれた自分の手を見つめながら呟いた。「この工房かて、いつまで続けられるか……この先、誰が継いでくれる当てがあるわけでもなし」
その言葉は、澪の胸に重く響いた。いつも毅然として、一人でこの場所を守り続けているように見えた志乃が、初めて見せた弱音だった。
「それに……」と志乃は続けた。「最近は、こういう手間暇かけたもんより、安うて、手軽に見栄えのええもんばかりが求められるでな。ネットやらで、いくらでも綺麗なもんが買える時代や。昔ながらのやり方だけやと、もうあかんのかもなあ……」
そして、絞り出すような声で、志乃は言った。
「……このままやと、ほんまに、暖簾を下ろすしかなくなるかもしれん」
その言葉は、静かな工房の中に、ずしりと重く響いた。澪は、かける言葉も見つからず、ただ立ち尽くすしかなかった。珠結工房がなくなるかもしれない。志乃さんが、吾郎さんと二人で築き上げ、守ってきたこの場所が。その事実に、強い衝撃を受けた。
同時に、激しい無力感が澪を襲った。
今の自分に、何ができるだろうか。創作への意欲を取り戻しかけたと思った矢先に、過去の傷に囚われて、また一歩も前に進めなくなってしまった自分。志乃さんの苦労や工房の危機を知っても、何もできない。その不甲斐なさに、唇を噛みしめた。
しかし、無力感の底から、別の感情がむくむくと湧き上がってくるのを感じた。それは、怒りに似た、あるいは祈りに似た、強い思いだった。
このままではいけない。
この工房を、なくしたくない。
志乃さんの想いを、絶やしたくない。
そして、微かな声で、もう一つの思いが聞こえた。
私も、このままではいけない。
お世話になっているこの場所のために、何かしたい。何かできることがあるはずだ。たとえ今は、具体的な方法がわからなくても。トラウマに足を引っ張られて、うずくまっている場合ではない。
それはまだ、暗闇の中で手探りするような、漠然とした思いだった。けれど、自分の内側の問題だけでなく、初めてはっきりと、「外」にある大切なもののために何かをしたい、という気持ちが芽生えた瞬間だった。工房の未来と、自分自身の再生とが、澪の中で初めて結びついたのかもしれない。
志乃は、弱音を吐いたのが少しばつが悪かったのか、あるいはいつもの自分を取り戻そうとしたのか、「……まあ、愚痴っても仕方ないわな」と呟くと、パタンと大きな音を立てて帳簿を閉じた。そして、「さ、昼にするか」と、努めて明るい声で言った。
工房には、少し気まずく、重たい空気が流れていた。しかし、その重さの中に、何か新しい決意のようなものも、静かに生まれ始めていた。澪は、まだ俯いたままだったが、その瞳の奥には、先ほどまでとは違う、微かな光が宿り始めていた。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
工房に通い始めてひと月が過ぎようとする頃、南の海上から大型の台風が伊勢志摩地方へと進路を向けていた。
テレビのニュースは繰り返し注意を呼びかけ、空は鉛色の雲に覆われ始めていた。工房の窓の外では、風が唸りを上げ、二見浦の海は白く波立ち、不穏な様相を呈していた。
工房の中は、外の荒天とは対照的に、いつも通りの静けさが保たれていた。しかし、澪は落ち着かなかった。窓ガラスを叩く雨音、時折聞こえる風の咆哮が、胸の奥の不安を掻き立てる。こんな日に、海沿いのこの工房は大丈夫なのだろうか。
一方、志乃はいつもと変わらぬ様子で、黙々と作業を続けていた。その落ち着き払った姿に、澪は少しだけ安堵しつつも、不思議に思った。
「志乃さん……怖くないんですか? こんな台風……」
思わず尋ねると、志乃は作業の手を止め、窓の外の荒れる海に目をやった。
「まあ、慣れとるでな」と静かに言った。「海女やっとった頃は、こないな嵐、何度も経験したわ」
志乃は、遠い昔を思い出すように、ぽつりぽつりと語り始めた。海の上で天候が急変した時のこと、必死で岩場にしがみつき、嵐が過ぎるのを待ったこと。自然の圧倒的な力の前では、人間の力などちっぽけなものだと、何度も思い知らされたこと。
「海が荒れとる時はな、無理したらあかんのや」志乃は、澪の目を見て言った。「漁に出たい気持ちをぐっと堪えて、ただじっと、凪を待つ。それができん者は、海に呑まれてしまう。待つ勇気、いうんも、海で生きる者には大事なことなんや」
凪を待つ勇気。その言葉は、澪の心に深く染み込んだ。
焦り、不安、自己嫌悪に駆られて、前に進もうともがいていた自分。もしかしたら、今の自分に必要なのは、無理に進むことではなく、静かに時を待ち、自分の内なる声に耳を澄ませることなのかもしれない。志乃の言葉は、工房の経営難や、澪自身の心の苦境にも、静かに響いていた。
その夜、台風は最も勢力を強め、伊勢地方を直撃した。
祖母の家で一人、澪は激しい風雨の音に怯えながら、眠れない夜を過ごしていた。古い家がきしみ、窓ガラスがガタガタと音を立てる。
ふと、志乃さんのことが心配になった。あの海沿いの工房で、一人で大丈夫だろうか。何度か工房に電話をかけてみたが、繋がらなかった。停電しているのかもしれない。いてもたってもいられなくなり、澪はレインコートを羽織ると、嵐の中を飛び出した。
タクシーを呼び、恐る恐る二見浦へ向かう。道中、街灯は消え、風で飛ばされた物が散乱していた。工房に近づくと、周囲は真っ暗だったが、工房の窓だけには、ランプのような頼りなげな灯りが灯っているのが見えた。
澪は、車のライトを消してもらい、少し離れた場所から、そっと工房の様子をうかがった。窓越しに見えたのは、ランプの灯りの下に、一人、静かに椅子に座っている志乃の姿だった。
何かを縫っているのか、あるいは、ただじっと座っているだけなのか、判然としない。しかし、その小さな背中には、嵐にも揺るがないような、静かで、強い覚悟のようなものが漂っていた。まるで、長年連れ添った船長が、嵐の中で船と運命を共にするように。あるいは、亡き夫・吾郎さんの写真や道具に、静かに語りかけているのかもしれない、と澪は思った。
「珠も人も同じや……待つしかないんや……」そんな声が聞こえたような気もしたが、激しい風雨の音にかき消されて、定かではなかった。澪は、それ以上近づくことはせず、ただその光景を目に焼き付けて、静かにその場を後にした。志乃さんは、大丈夫だ。そう確信できた。
翌朝、嵐は嘘のように過ぎ去り、空は抜けるように青く晴れ渡っていた。風はまだ少し強かったが、陽の光が眩しく降り注いでいる。澪は、いてもたってもいられず、二見浦の海岸へと足を向けた。
浜辺の光景は、一変していた。台風が、海の底から様々なものを根こそぎ運び去り、そして新たなものを打ち上げていたのだ。折れた流木、絡み合った海藻、そして、色とりどりの漂着物。
澪は、吸い寄せられるように、波打ち際を歩いた。足元には、波に洗われ、角が取れて丸くなったガラス片――シーグラスが、宝石のように散らばっていた。淡い水色、深い青、穏やかな緑、珍しい琥珀色。どれも、元は鋭利な破片だったはずなのに、長い時間をかけて波に揉まれるうちに、優しく、美しい姿へと変貌を遂げていた。
隣には、様々な模様の陶器の欠片があった。染付の藍色、赤絵の朱色。割れて、本来の形は失われているけれど、その小さな欠片の中に、かつて誰かに愛されたであろう器の記憶が、確かに宿っている。
そして、様々な形の貝殻。完璧な形を保っているものは少ない。どこかが欠けていたり、穴が開いていたり、表面が摩耗していたり。それでも、一つ一つが、自然が生み出した複雑な曲線と、繊細な色彩を持っていた。
澪は、それらを一つ一つ手に取った。どれも、壊れている。欠けている。完全ではない。
しかし、その「不完全さ」の中にこそ、抗い難い美しさと、力強さがあるように感じられた。破壊されたものが、海という大きな力によって洗い清められ、新たな姿となって、ここに「再生」している。
「傷も、景色……」
志乃の言葉が、再び鮮やかに蘇る。
そうだ。完璧である必要なんてないんだ。欠けているからこそ、美しいものがある。傷があるからこそ、語れる物語がある。
その瞬間、澪の中で、止まっていた歯車が、再びゆっくりと、しかし確実に動き出すのを感じた。
「これなら……作れるかもしれない」
声に出して呟いていた。トラウマに縛られ、完璧なものを作らなければ、という強迫観念に囚われていた心が、解き放たれていく。
目の前にある、この「不完全な」漂着物たち。この、ありのままの素材の美しさを、そのまま活かすようなデザイン。それなら、今の私にもできるかもしれない。いや、これこそが、私が本当に作りたかったものなのかもしれない。
澪は、心を強く惹かれたシーグラスや陶片、貝殻を、まるで宝物を見つけた子供のように、夢中で拾い集めた。ポケットがいっぱいになり、持っていたハンカチにも丁寧に包む。
太陽の光を浴びてキラキラと輝く漂着物を手に、澪は、久しぶりに心からの笑顔を浮かべていた。それは、再生への確かな予感と、再び創造へと向かう決意の光だった。
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