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第1部 潮風(しおかぜ)の吹く浜辺へ

全四部。

毎日12時過ぎに予約します。


 蛍光灯の白い光が、磨かれた会議室のテーブルに冷たく反射していた。その光は、結城澪ゆうき みおのすぐ目の前で広げられたデザイン資料にも容赦なく降り注ぎ、鮮やかなはずの色をどこか無機質なものに変えていた。

 資料の中央には、彼女が心血を注いで描き上げたネックレスのデザインがあった。

 ――いや、正確には、あったはずのデザイン、だった。


「――というわけで、今回のコレクションのメインビジュアルは、早川さんのこのデザインで決定とさせていただきます」


 上司の声が、やけに遠く聞こえた。まるで厚いガラスを一枚隔てているかのようだ。澪は顔を上げることができなかった。

 視線はテーブルの一点に固定され、指先は膝の上で硬く握りしめられていた。冷房が効きすぎているのだろうか、指先だけでなく、身体の芯から冷え切っていくような感覚があった。


 早川奈緒美はやかわ なおみ。澪の三年先輩にあたるチーフデザイナー。

 彼女は今、上司の隣で、満足げな、しかしどこか計算された謙虚さを装った笑みを浮かべているだろう。その表情を想像するだけで、胃の奥が焼けつくような感覚がした。


 テーブルに広げられたデザイン画。それは、澪が長い時間をかけて練り上げ、ようやく形にしたものだった。

 幼い頃、伊勢に住む祖母が庭で大切に育てていた小さな木の実――「時じくのかくの木の実」と呼ばれる、非時香菓ときじくのかぐのこのみをモチーフにしたデザイン。常世とこよの国に生るという、永遠の命をもたらすと伝えられる伝説の果実。

 祖母が語ってくれた物語のかけらを、現代的なジュエリーとして再生させようとした、澪自身のルーツに繋がる、いわば魂の一部のようなデザインだった。


 その繊細な曲線、中心に配した小粒のパールの配置、葉脈を模した細工。すべてが、数日前に奈緒美にアドバイスを求めて見せた、澪自身のスケッチブックにあったものと酷似していた。

 いや、酷似という生易しいものではない。中心のパールの種類が変えられ、チェーンのデザインがわずかに変更されているだけで、コンセプトも、フォルムも、紛れもなく澪が生み出したものだった。


「素晴らしいわ、奈緒美さん。この発想、どこから来たの?」


 別の部署の役員が、感嘆したような声を上げる。


「ありがとうございます。……そうですね、古い文献を調べているときに、ふとインスピレーションが……」


 奈緒美の声が滑らかに続く。その言葉を聞きながら、澪の頭の中は真っ白なノイズに覆われていくようだった。アドバイスを求めたとき、奈緒美は言ったのだ。「面白いけど、少し地味じゃない?商品化は難しいかもね」と。

 あの時の、値踏みするような、それでいて興味を隠しきれない瞳を、澪は思い出していた。信じた自分が、愚かだったのか。


 上司が決定を告げたとき、澪は声なき声で「それは私の……」と叫ぼうとした。しかし、喉はカラカラに渇き、唇は震えるだけで、何の音も発することはできなかった。代わりに、激しい動悸が胸を打ち、呼吸が浅くなる。


 会議が終わるまでの時間は、永遠のように長く感じられた。解散の声がかかり、人々が席を立つ音、談笑する声が、鈍いノイズのように澪の耳を通り過ぎていく。誰も、澪の異変には気づかない。あるいは、気づかないふりをしているのか。

 会社は、売れるデザイン、話題になるデザインを求めている。それが誰によって生み出されたものなのか、そのプロセスに不正があったのかどうかは、二の次なのだ。その冷たい現実が、氷のように澪の心を突き刺した。


 奈緒美が澪のそばを通り過ぎた。一瞬、視線が合った気がした。その瞳には、かすかな嘲りと、優越感が浮かんでいたように見えた。すぐに逸らされたその目に、澪は全身の力が抜けていくのを感じた。


 自分のデスクに戻る足取りは、まるで鉛を引きずっているかのようだった。パソコンのモニターには、作業途中だった別のデザインデータが表示されている。しかし、もう何も考えられない。

 指一本、動かす気力も湧いてこなかった。オフィス全体が、灰色の濃淡でできた無機質な箱のように感じられた。窓の外には、同じようなビルが立ち並び、空は排気ガスで霞んでいる。ここで何をしていたのだろう。何を目指していたのだろう。


 込み上げてくるのは、怒りよりも、深い、深い絶望感だった。そして、声にならない叫びが、胸の奥で渦巻いていた。

 それは、盗まれたデザインへの執着だけではない。信じていた先輩への裏切り、真摯に向き合ってきた仕事への冒涜、そして、それに気づきながらも何もできなかった自分自身への不甲斐なさ。すべてがないまぜになって、息を詰まらせる。


 ――ここには、もういられない。


 その思いだけが、灰色のもやの中で唯一、確かな形を持っていた。


 ‡ ‡ ‡ ‡ ‡


 どれくらいの時間、デスクの前で動けずにいたのだろうか。澪は、まるで金縛りにあったかのように硬直していた身体を、ほとんど無意識の力で無理やり引き剥がすようにして立ち上がった。

 周囲の同僚たちの視線を感じたが、もうどうでもよかった。私物が入ったトートバッグを掴むと、彼女はよろめくような足取りでオフィスフロアを後にした。

 エレベーターの下降する無機質な動き、一階ロビーの人工的な明るさ、自動ドアが開いた瞬間に流れ込んできた生ぬるい外気。そのすべてが、現実感を欠いた映像のように、ただ澪の網膜の上を滑っていくだけだった。


 帰り着いたアパートの部屋は、静まり返っていた。しかし、その静寂は安らぎをもたらすどころか、かえって澪の耳の奥で鳴り続ける会議室でのざわめきを増幅させるようだった。

 彼女は、壁に立てかけてあったスーツケースを引きずり出すと、衝動的に、しかしどこか機械的な手つきで、下着や数枚の着替えを詰め込み始めた。

 何をどれだけ入れたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、何かをせずにはいられなかった。この息苦しい場所から、一刻も早く遠くへ行かなければ。その思いだけが、彼女を突き動かしていた。


 どこへ? その問いは、彼女の頭には浮かばなかった。いや、浮かんだのかもしれないが、考えることを放棄していた。

 スマートフォンの画面を無心でタップし、「夜行バス」「東京発」と打ち込む。画面に表示された行き先の中から、指が自然に吸い寄せられた地名があった。


「伊勢」


 祖母、咲子さきこが暮らした町。幼い頃、夏休みになるたびに訪れていた場所。脳裏に、強い陽射しと、濃い緑の匂い、そして祖母の優しい笑顔が、一瞬だけ陽炎のように揺らめいた。

 気づけば、澪はスマートフォンの画面を睨みつけ、表示された一番早い時間のバスを予約していた。支払い方法の選択も、確認ボタンのタップも、まるで他人事のように、指が勝手に動いていた。


 スーツケースを引きずり、バスターミナルへと向かう。

 週末の夜の喧騒、行き交う人々の楽しげな声、車のヘッドライトの洪水。それらすべてが、今の澪にとっては耐え難い刺激だった。俯き、足早に人混みを抜け、指定された乗り場へとたどり着く。表示された「伊勢・鳥羽行き」の文字が、ぼんやりと滲んで見えた。


 バスに乗り込むと、指定された窓際の席に深く身を沈めた。

 狭いシートが、まるで自分のための小さな繭のように感じられた。発車の時刻が来て、バスはゆっくりと動き出す。エンジンの低い振動が、シートを通して身体に伝わってきた。

 窓の外では、煌びやかな東京の夜景が、後ろへ、後ろへと流れていく。

 あの灰色のオフィスも、奈緒美の顔も、上司の声も、すべてがあの光の中に溶けて消えていくような錯覚を覚えた。だが、それは安堵ではなかった。むしろ、自分自身が、根こそぎ何かを奪われ、空っぽの抜け殻になって流されていくような感覚だった。


 やがて車内の灯りが落とされ、完全な闇が訪れた。非常灯の頼りない緑の光だけが、前方の通路をぼんやりと照らしている。

 周囲からは、寝息や、時折響く寝返りの音、ビニール袋の擦れる音などが聞こえてくる。その中で、澪だけが、固まったように目を覚ましていた。


 眠ろうとしても、瞼の裏には会議室の光景が焼き付いて離れない。奈緒美の言葉が、嘲るような響きを伴って繰り返し再生される。

 会社のロゴマークを見るだけで感じた、かつての誇らしさや所属意識は、今はもう欠片も残っていなかった。代わりに、どす黒い裏切りの感情が、じわじわと胸の中に広がってくる。


 その苦しさから逃れるように、意識は自然と祖母の記憶へと向かった。

 伊勢の家の縁側で、一緒に冷たい麦茶を飲んだこと。庭の片隅にあった、あの不思議な名前の木の実。「時じくのかくの木の実、永遠に香る実い、食べたら年取らんのやに」と、悪戯っぽく笑った祖母の声。

 あのデザインは、祖母との大切な繋がりであり、澪自身のささやかな誇りだったはずなのに。その記憶すら、今は鋭い痛みを伴って胸を抉る。楽しかったはずの思い出が、失われたものの大きさを突きつけてくるかのようだった。


 なぜ、伊勢へ向かっているのだろう。祖母はもういない。あの家も、今は誰も住んでいないはずだ。行っても何があるわけではない。

 わかっているのに、バスは暗闇の中を走り続ける。まるで、見えない糸に引かれるように。


 窓の外を流れる景色は、いつしか高速道路の単調な光の列に変わっていた。サービスエリアの明かりが、時折、眠らない巨大な生き物のように闇の中に浮かび上がる。

 眠れないまま、澪はただぼんやりと、その光の軌跡を目で追っていた。孤独だった。周囲には多くの人がいるはずなのに、世界にたった一人取り残されたような、深い孤独感が身体を包んでいた。


 どれほどの時間が過ぎただろうか。空が白み始め、窓の外の景色が少しずつ輪郭を取り戻し始めた頃、澪はようやく、浅い眠りに落ちた。それは、安らかな眠りではなかった。悪夢と現実の狭間を漂うような、断片的で、ひどく疲れる眠りだった。


 バスは、夜のとばりを越えて、東の空が暁の色に染まり始める頃、伊勢へと向かっていた。澪を乗せたまま。彼女の意思とは関係なく、ただひたすらに。


 ‡ ‡ ‡ ‡ ‡


 夜行バスが伊勢市駅のロータリーに滑り込むと、澪は重い身体を引きずるようにしてタラップを降りた。

 早朝の空気はひんやりとしていて、東京の熱気とは違う、どこか湿り気を帯びた土と緑の匂いが微かに感じられた。

 まだ人影もまばらな駅前は、しんと静まり返っている。長時間の移動で強張った身体と、寝不足による鈍い頭痛を感じながら、彼女は自分が本当に伊勢に来てしまったのだという事実を、ぼんやりと認識していた。


 スーツケースのキャスターがアスファルトを転がる音だけが、やけに大きく響く。どこへ行くべきか、何をすべきか、全く考えがまとまらない。

 ただ、駅舎の向こう、木々が鬱蒼と茂る一角が、自然と澪の視界に入った。伊勢神宮の外宮げくう。幼い頃、祖母に手を引かれて何度も歩いた場所。足が、まるで吸い寄せられるかのように、そちらへ向いていた。


 表参道の広い道を横切り、火除橋ひよけばしを渡る。玉砂利を踏みしめる音が、しゃり、しゃりと静寂の中に響いた。

 早朝の境内は、清浄な空気に満ちている。高く聳える古木の間から差し込む朝の光が、神聖な斑模様を描き出していた。

 しかし、その清らかさも、今の澪のささくれだった心には届かない。ただ、巨大な何かに見守られているような、それでいて拒絶されているような、居心地の悪さを感じるだけだった。手順も作法も思い出せないまま、なんとなく正宮の前で立ち尽くし、深く息を吸い込んで、すぐにその場を離れた。


 外宮を出ると、記憶を頼りに祖母の家へと続く道を歩き始めた。駅からは少し離れた、緩やかな坂道の途中にあるはずだ。

 見慣れたはずの景色が、どこか違って見えた。新しい建物ができていたり、昔ながらの商店がシャッターを下ろしていたり。その変化が、自分がここからいなくなってからの時間の長さを、静かに物語っていた。


 やがて、目的の家の前にたどり着く。少し色褪せた木製の門扉と、その奥に見える瓦屋根の平屋。庭の木々は手入れがされず、伸び放題になっていたが、家の佇まいそのものは、記憶の中にある姿とほとんど変わらなかった。

 ポストには何も入っておらず、表札には「結城」とだけ記されている。バッグから取り出した古い鍵束の中から、祖母から預かっていた家の鍵を探し当て、錆びついた鍵穴に差し込んだ。ぎ、と鈍い音を立てて、鍵が回る。


 引き戸を開けると、ひやりとした空気と共に、埃と古い木の匂いが澪の鼻をついた。家の中は薄暗く、カーテンが閉め切られているため、外の光がわずかに差し込むだけだ。しん、と静まり返った空間に、自分の呼吸の音だけが大きく聞こえる。まるで時間が止まってしまったかのようだ。


 スーツケースを玄関に置いたまま、澪はゆっくりと家の中を歩いた。

 板張りの廊下は、歩くたびに小さく軋む。客間、茶の間、そして祖母が寝起きしていた奥の和室。どの部屋も、家具や調度品はそのまま残されていたが、そのすべてに薄っすらと埃が積もり、生命の気配が失われていた。

 壁にはシミが浮かび、柱には澪が幼い頃につけた傷が、そのまま残っている。微かに、祖母が好んで焚いていた白檀の香りが残っているような気がしたが、それは記憶が作り出した幻影かもしれなかった。


 この静寂が、自分の内側にある空虚さと、嫌というほど共鳴した。

 東京で負った傷、失った自信、空っぽになった心。それらが、この誰もいない家の静けさの中で、より一層際立って感じられる。

 懐かしいはずの場所なのに、息が詰まるような感覚に襲われた。ここに安らぎはない。ここも、自分の居場所ではないのかもしれない。衝動的に、外の空気が吸いたくなった。あの潮風が感じられる場所へ行きたい、と漠然と思った。


 その前に、少しだけ荷物を整理しようと、祖母の部屋に入った。窓際の壁際には、古い鏡台が置かれている。

 その引き出しを、何とはなしに開けてみた。中には、櫛やかんざし、小さな布袋などが、きちんと整理されて入っていた。その奥に、少し色褪せた桐の小箱があるのが目に入った。


 手に取ると、それは驚くほど軽かった。蓋をそっと持ち上げる。中には、柔らかな布に包まれて、一本のネックレスが収められていた。


 アコヤ真珠のネックレスだった。

 粒はそれほど大きくないが、柔らかな乳白色の光沢を放ち、品の良い輝きを宿している。少し古風で、しかし飽きのこないシンプルなデザイン。祖母が、特別な時に身につけていたのを、澪は覚えていた。


 そっと手に取ってみる。ひんやりとした真珠の感触が、指先に伝わった。埃を払うと、真珠は柔らかな光を取り戻す。それは、祖母の穏やかな笑顔を思い出させるような、優しい光だった。


 しかし、次の瞬間、澪は気づいた。ネックレスを光にかざしてみると、留め金の近くに、一箇所だけ、不自然な隙間がある。そこにあるはずの真珠が、一粒、失われていたのだ。


 欠けた一粒分の空間。それはまるで、今の澪自身の心のようだ、と思った。

 何か大切なものが抜け落ち、ぽっかりと穴が空いてしまったような感覚。このネックレスは、いつからこの状態だったのだろう。なぜ、一粒だけなくなってしまったのだろうか。


 澪は、その欠けた部分を指でそっとなぞった。ひんやりとした糸の感触だけが、そこにはあった。祖母の形見である美しい真珠のネックレスと、そこに刻まれた一つの欠落。それが、この空っぽの家の中で、妙に生々しい存在感を放っているように感じられた。


 ‡ ‡ ‡ ‡ ‡


 手のひらに載せたアコヤ真珠のネックレスは、ひんやりとした重みを伝えてきた。欠けた一粒の空間が、妙に生々しく、澪の指先に存在を主張している。祖母の形見。だが、それは完全な形ではなかった。今の自分と同じように。


 家の中の淀んだ空気と静寂が、再び澪の呼吸を浅くさせた。壁のシミ、柱の傷、埃をかぶった家具。すべてが、失われた時間と、ここにいない人の不在を物語っているようで、たまらなく息苦しい。外に出なければ。どこか、もっと広い場所へ。


 その時、ふと祖母の声が耳の奥で蘇った。


『みおちゃん、心が塞いだ時はな、二見さんの海を見に行くとええよ。あの夫婦岩めおといわさんの間から昇る朝日は、そりゃあ綺麗なんやで。心が洗われるようや』


 幼い頃、何かで落ち込んでいた澪を、祖母はそう言って慰めてくれたことがあった。あの頃は、その言葉の意味を深く理解していなかったけれど、今は違った。心が塞いでいる。洗われたいと願っている。


 澪は、ネックレスをそっと桐箱に戻すと、それをバッグの奥にしまい込んだ。衝動的に、家を飛び出す。埃っぽい匂いから解放され、外の新鮮な空気を吸い込むと、少しだけ気分がましになった。バス停で時刻表を確認し、二見浦行きのバスに乗り込む。


 バスの窓から見える景色は、外宮周辺の古い街並みから、次第に郊外の風景へと変わっていった。

 田んぼや畑が広がり、遠くには緑の山々が見える。やがて、バスが海岸線に近づくと、車窓の向こうに、きらきらと光る海が見え始めた。その瞬間、澪の胸が小さく高鳴った。あの灰色のオフィスにいた時には感じることのなかった、微かな、しかし確かな感覚だった。


 二見浦のバス停で降り立つと、潮の香りが澪を包み込んだ。ザアア、ザアア、と寄せては返す波の音が、耳に心地よく響く。海岸へと続く小道を歩くと、視界が一気に開けた。


 目の前には、穏やかな伊勢湾が広がっていた。空は高く澄み渡り、海は太陽の光を浴びて、銀色に輝いている。そして、海中に注連縄しめなわで結ばれた大小二つの岩、夫婦岩が、寄り添うようにして立っていた。その荘厳で、どこか優しい姿に、澪は思わず息をのんだ。


 砂浜に降り立ち、波打ち際まで歩いてみる。頬を撫でる潮風は、少し冷たいけれど、不思議と肌に優しく感じられた。

 深く、深く息を吸い込む。肺が、海の匂いで満たされる。東京で、あのオフィスで、祖母の家で感じていた息苦しさが、少しずつ和らいでいくのがわかった。

 固く強張っていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けていく。もちろん、根本的な問題が解決したわけではない。心の傷が癒えたわけでもない。それでも、この広大な景色と潮風は、今の澪にとって、ささやかな救いのように感じられた。


 しばらくの間、澪はただぼんやりと海を眺めていた。寄せては返す波を見つめていると、頭の中を占めていた混乱や自己嫌悪が、少しだけ遠のいていく気がした。


 どれくらいそうしていただろうか。少し身体が冷えてきたのを感じ、澪は砂浜を後にした。海岸沿いの道を、あてもなくゆっくりと歩き始める。

 土産物店や旅館が軒を連ねる通りを過ぎ、少し静かなエリアに入った時、ふと、一本の脇道に目が留まった。その先に、古い木造の建物が見えたのだ。


 何かに引かれるように、その路地へ足を踏み入れる。

 建物は、明らかに年月を経ているようだったが、不思議と寂れた感じはしなかった。むしろ、丁寧に手入れされ、静かな誇りを湛えているような佇まいだった。

 軒先に、一枚の古い木の看板が掲げられている。墨で書かれたであろう文字は、少し掠れていたが、はっきりと読むことができた。


珠結たまゆい工房』


「たまゆい……」


 澪は、その響きを口の中で小さく繰り返した。珠を結ぶ。真珠の工房だろうか。

 建物の正面には、小さなショーウィンドウがあった。

 中に飾られているのは、数点の真珠のアクセサリー。決して華美ではない。むしろ、控えめで、素朴な印象さえ受ける。しかし、一つ一つの真珠が、まるで内側から淡い光を放っているかのように、澪の目を強く引きつけた。

 派手な宝石とは違う、奥深い、柔らかな輝き。それは、さっきまで手にしていた祖母のネックレスの輝きと、どこか通じるものがあるように感じられた。


 澪は、そのショーウィンドウの前で、足を止めた。工房の中から、人の気配は感じられない。しかし、その古びた木の扉の向こうに、何か大切なものが待っているような、そんな予感がした。潮風が、工房の古い木の壁を撫でていく音が聞こえた。


 ‡ ‡ ‡ ‡ ‡


 珠結工房の古びた木の扉の前で、澪はしばらくの間、立ち尽くしていた。

 ショーウィンドウの中の真珠が放つ、静かで奥深い光に心を奪われていたのだ。中に入るべきか、やめるべきか。ためらいが心をよぎる。

 ここは、ただの土産物店とは明らかに違う空気を纏っていた。場違いではないだろうか。今の自分のような、目的も持たず、ただ流れ着いただけの人間が入っていい場所なのだろうか。


 しかし、足を止めさせたあの真珠の輝きが、見えない力で澪を招き入れているようにも感じられた。彼女は小さく息を吸い込むと、意を決して、重たい木の扉に手をかけた。ぎい、と低い軋むような音を立てて、扉が開く。


 一歩足を踏み入れると、外の明るさから一転、工房の中は少し薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。しかし、それは不快な暗さではなく、むしろ心を落ち着かせるような静けさを伴っていた。

 正面の大きな窓から差し込む柔らかな光が、埃をきらきらと舞い上がらせているのが見える。鼻腔をくすぐるのは、潮の香りと古い木の匂い、そして、それらに混じって微かに香る、金属と油のような、作業場特有の匂いだった。


 店内は、思ったよりもこぢんまりとしていた。

 正面には年季の入った分厚い木のカウンターがあり、壁際のガラスケースや棚には、様々な大きさや形の真珠が並べられている。完成されたネックレスやイヤリングもあるが、加工途中のものや、一粒ずつ選べるルース真珠も多い。

 壁には、セピア色に変色した古い漁師たちの写真や、使い込まれた海女の道具のようなものも飾られていた。まるで、この場所の歴史そのものが、静かに息づいているかのようだ。


「……ごめんください」


 澪は、か細い声で呼びかけた。返事はない。奥に作業場があるのだろうか、人の気配はするのだが、姿は見えなかった。カウンターの内側も空っぽに見える。凛とした静寂が、空間を支配していた。


 その時、カウンターの奥、作業場へと続く低い暖簾のれんが揺れ、一人の女性がゆっくりと姿を現した。

 年の頃は、六十代後半か、あるいは七十代かもしれない。日に焼け、深い皺が刻まれた顔。短く刈り揃えられた白髪まじりの髪。服装は、藍色の作業着にもんぺ姿という、飾り気のないものだった。しかし、その小柄な身体には、背筋がすっと伸びた、揺るぎない佇まいがあった。


 女性は、無言のまま澪を見据えた。その眼差しは、驚くほど鋭かった。

 単に厳しいというのではない。長年、海と真珠を見つめ続けてきた者だけが持つような、物事の本質を見抜くような深さと、静かな厳しさがそこにはあった。

 まるで、この工房という聖域を守る「門番」のように、易々とは人を寄せ付けない気配を放っている。澪は、その視線に射すくめられたように感じ、思わず息を飲んだ。


 何か言わなければ。そう思うのに、喉が渇いて言葉が出てこない。緊張で、指先がまた冷たくなっていくのを感じた。


 沈黙を破ったのは、澪がおずおずとバッグに手をかけた時だった。彼女は、先ほどしまったばかりの桐箱を取り出すと、震える手でカウンターの上にそっと置いた。


「あの……これを……見ていただけますか?」


 女性――五十鈴志乃いすず しのは、視線を桐箱へと落とした。そして、ゆっくりとした手つきで蓋を開け、中からアコヤ真珠のネックレスを取り出した。

 澪が修理してほしい、と言う前に、志乃の視線は、ネックレスの欠けた一粒分の空間に、ぴたりと注がれていた。その目に、ほんの一瞬、何か懐かしむような、あるいは驚きのような色がよぎったのを、澪は見逃さなかった。


 志乃は、ネックレスを光にかざし、様々な角度から、まるで珠の一つ一つと対話するかのように、じっと見つめている。工房の中には、時計の秒針の音さえ聞こえないような、濃密な静寂が流れていた。


 やがて、志乃は顔を上げ、再び澪を真っ直ぐに見据えた。そして、静かな、しかし芯のある声で問いかけた。


「あんた、このたまのこと……何か知っとるんか?」


 その問いは、単なる修理の受付の言葉ではなかった。もっと深い何かを、澪の心根を探るような響きを持っていた。澪は、志乃の真意を測りかねて、戸惑うばかりだった。


「いえ……これは、祖母の形見で……詳しいことは、何も……」


 しどろもどろに答えるのが精一杯だった。


 志乃は、ふうん、と短く相槌を打ったのか打たないのか、判然としないような反応を見せた。そして、ネックレスをカウンターの上に置くと、再び口を開いた。


「……そうか。まあ、ええわ。少し、見せてもらうことにするわ。そこに、かけとき」


 それは、修理を引き受けるという明確な言葉ではなかった。かといって、断られたわけでもない。含みのある、どこか澪を試すような響き。


 志乃はそれだけ言うと、奥の作業場へと続く暖簾の向こうに、再び姿を消そうとした。澪は、どうすればいいのかわからず、ただカウンターの前に立ち尽くすしかなかった。

 工房の中には、先ほどよりもさらに張り詰めたような空気が漂い、志乃の鋭い眼差しの残像が、まだそこに留まっているように感じられた。


 ‡ ‡ ‡ ‡ ‡


 五十鈴志乃が暖簾の向こうに消えた後も、澪はしばらくの間、カウンターの前に立ち尽くしていた。「少し、見せてもらうことにするわ。そこに、かけとき」という言葉だけが、静かな工房の中に響いているようだった。

 ネックレスはカウンターの上に置かれたままだ。これは、預かってもらえたということなのだろうか。それとも、まだ判断は保留されているということなのか。どうすればいいのかわからず、澪は身動きが取れなかった。


 不意に、奥から志乃が再び姿を現した。手には小さなほうきとちりとりを持っている。それをカウンターの隅にこつんと置くと、志乃はぶっきらぼうな口調で言った。


「……あんた、暇なんやったら、そこの床でも掃いとったらどうや。埃っぽいのは好かん」


 それは、命令とも提案ともつかない、有無を言わせぬ響きを持っていた。澪は、一瞬戸惑ったが、他に選択肢があるわけでもなく、反射的に「は、はい」と頷いていた。


 その日から、澪の奇妙な工房通いが始まった。

 祖母の家から二見浦まで、毎日バスで通う日々。志乃は多くを語らない。澪も、何を話しかけていいのかわからず、ただ黙々と指示された雑用をこなした。

 工房の床を掃き、窓を拭き、カウンターや棚の埃を払う。時折、志乃が使う道具を布で磨いたり、古びた資料を整理したりもした。志乃はカウンターの奥の作業場で、黙々と真珠と向き合っている。金属を削る微かな音や、何かを磨くような音だけが、時折静寂を破って聞こえてくる。


 工房の空気は、相変わらず凛としていて、少し張り詰めているように感じられた。しかし、数日通ううちに、澪はその空気に少しずつ慣れ始めていた。

 工房に漂う独特の匂い――潮と木と、金属と油が混じり合った匂い――も、いつしか心地よく感じられるようになっていた。壁に飾られた古い写真や道具の一つ一つに、物語があるように思えた。


 工房に通い始めて五日目のことだった。その日も、澪がいつものように掃除を終え、手持ち無沙汰にカウンターのそばに立っていると、志乃が作業場から出てきて、一つの大きな木箱を澪の前にどさりと置いた。

 箱の中には、様々な色や形の真珠が、まるで無造作に放り込まれたかのように、山積みになっていた。


「これを、まあ、適当に分けといてくれ」


 志乃はそれだけ言うと、再び作業場に戻ろうとした。


「あの、どういうふうに分ければ……?」


 澪が慌てて尋ねると、志乃は肩越しにちらりと澪を見て、面倒くさそうに言った。


「どう、てこともない。色ごとでも、形ごとでも、あんたの好きにしたらええ。売り物にはならん、ハネだまばかりやでな」


 ハネ珠――規格外の真珠。澪は、箱の中の真珠たちを改めて見つめた。

 そこには、ジュエリーショップで見るような、完璧な球形で、均一な色艶の真珠は一つもなかった。

 涙のしずくのような形、歪んだ楕円形、表面がでこぼこしたもの。色は、純白というよりは、クリーム色がかったもの、ピンクやグリーン、ブルーの干渉色がまだらに浮かぶもの、金属的な光沢を放つものまで様々だ。

 中には、表面にエクボと呼ばれる小さなくぼみがあったり、サークルと呼ばれる縞模様が入っていたり、明らかに傷のように見えるものもある。


 デザイナーとして、常に完璧なフォルム、傷のない表面、均一な輝きを求めてきた澪にとって、この規格外の真珠の山は、正直なところ、どう扱っていいのかわからない代物だった。価値のないもの、失敗作。そんな思いが頭をよぎる。


 それでも、澪はカウンターの前に置かれたスツールに腰掛け、おそるおそる箱の中に手を伸ばした。指先が、最初に触れた一粒は、いびつな形をしていて、表面は少しざらついていた。ひんやりとした感触だけが、真珠であることを伝えてくる。


 指示通り、色ごとに分けてみようか、それとも形だろうか。迷いながら、澪は一つ、また一つと、真珠を手に取り始めた。指先が、微かに震えていることに気づいた。それは、緊張からか、それとも慣れない作業への戸惑いからか。


 しかし、何十粒、何百粒と手に取っていくうちに、澪の中で何かが少しずつ変化し始めていた。

 最初はただの「規格外品」の山にしか見えなかった真珠たちが、一つ一つ、違う表情を持っていることに気づき始めたのだ。

 歪んだ形は、見方によってはユーモラスで愛嬌がある。色むらは、単調な白にはない複雑な深みを与えている。表面の小さな傷やエクボも、じっと見つめていると、それがかえってその珠だけの個性的な「景色」のように思えてくる瞬間があった。


 完璧ではない。均一でもない。でも、それぞれが、確かに光を宿している。


 その多様性に触れているうちに、澪はいつしか、震えていた指先で、それぞれの珠の形や感触を確かめるように、丁寧に扱うようになっていた。まだ戸惑いは消えない。けれど、この価値がないとされた珠たちと向き合う時間に、不思議と心が引きつけられている自分にも気づき始めていた。


 作業場の暖簾の隙間から、志乃が時折、鋭い視線を送ってくるのを感じた。しかし、彼女は何も言わない。ただ、澪が黙々と真珠を選り分ける手を、静かに見守っているようだった。


 工房の窓から差し込む光が、ゆっくりと角度を変えていく。澪は、まだ答えの見えない問いを抱えながらも、目の前にある無数の「不完全な」輝きと、ただひたすらに向き合っていた。


昨今のなろうが難しすぎて心が折れそうなので評価を頂けますと幸いです。


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