3、トワとファルの花
「ロウくん、ロウくん。次はどこに行くんですか?」
馬の手綱を握る俺の隣でトワが言った。
「ん? そうだな。とりあえず、ここから五日くらい馬車に乗って西に向かう。そこに比較的大きな町があるから、物資を補給してさらに西に進んで鉄道がある大都市まで向かう。で、そこから鉄道に乗って中央都市アーガランへ──でどうだ?」
「おお……! 賛成です。やっぱりトワくんは頼りになりますね。こんな複雑な地図が読めるなんてすごいです」
地図を広げたトワが難しい顔をして目をしぱしぱさせている。
「くくっ……」
「? どうしたんですか、トワくん、いきなり笑って」
「いーや。そりゃあ、そうだろうなぁー、と思ってさ。だって、その地図逆さまだし」
「えっ! 嘘! ……あ、本当だ……」
トワの顔が真っ赤になる。
羞恥の色が耳まで広がり、頭からは湯気が上がりそうだ。
慌てて地図の向きを直す彼女に胸中でもう一度笑い、俺は脇に置いてある水袋を掴んだ。
「ん、開かないな……」
「あ、わたしが開けますよ」
片手で線を抜こうとして失敗した俺の手から水袋を奪い取り、トワはきゅぽんと線を外した。
「はい、どうぞ」
「ん。ありがと」
ごくりとひとくち含めば、生温い水が喉に落ちてきた。
まあ、旅をしているのだ。
冷たくて新鮮な水、というのは入手が難しい。
一応、トワの魔法で出した水ではあるが、彼女が言うには冷やす魔法は専門外とのことだった。
だから、この荷台に積まれた食糧のほとんどが乾燥肉やチーズ。
ドライフルーツといった日持ちがするものを選んでいるため、道中の食事は味気ないものばかりだった。
次の町についたら汁気たっぷりの肉料理が食いたい。
「──飲むか?」
「えっ!」
俺が水袋を差し出すと、トワの頬が再び赤く染まった。
「?」
なんだか慌てているようだ。
しかし、なにやら決意した顔で、「いただきます」と受け取り、ぐびりと水を煽った。
「……あれ? これ、なんか変な味がしませんか?」
「変な味? そうか?」
俺が訊ね返すと、赤かったトワの顔はさっと青くなり、水袋を逆さまにして中の水を捨てた。
「あ、おい。もったいないだろ? まだ飲めるのに」
「飲めませんよ、もう……。こんなの飲んで、お腹を壊したらどうするんですか? そもそもこれ、一体いつの水なんですか?」
「んーと、おとといの朝。通りがかった川で汲んだ水を沸かしたやつ」
答えると、トワが『ひえっ』と小さく飛びあがった。
「だ、だめですよっ! 一日経った水は捨てないと! 言ってくれたら、新しいものを用意しましたのに」
「魔法で出した水か? あれ、まずいんだよなぁ」
「ええー、ロウくんがこの前、飲み水は魔法で言ったからそうしているのに……」
抗議めいた視線を向けて唇を尖らせるトワ。
水袋に手かざして新しい水を補充して、渡してくれた。
「──あ、あれ」
ふいにトワが前方を指さした。
その先を見ると、路道に止まる荷馬車がひとつ。
どうやら地面のぬかるみに車輪が嵌まって動けないらしい。
俺たちはその荷馬車の横で歩みを止めると、ひとりの男に声をかけた。
「大丈夫か? 良かったら手伝うぞ」
「ああ、すみません。お願いできますか」
「了解。──悪い、トワ。手綱頼むわ」
「はい。任されました」
俺はトワに馬の手綱を渡し、ぬかるみに嵌まった荷馬車のうしろについた。
「押すから、馬、動かしてくれ」
「すみませんねっ!」
馭者台に乗りこんだ男が、ぱしんと馬の横腹を鞭で叩く。
馬は『ヒヒンッ』とひと鳴きして、前に進んだ。
「ありがとうございました」
男が馭者台から降りてきて頭を下げる。
見たところ商人だろうか。
少々気弱そうな見た目の若い男の荷台は積み荷でいっぱいだ。
おそらく菜糖だろう。
この先にある町では甘い菓子が有名なのだと聞いている。
トワが町に着いたら、思う存分スイーツが食べたいと、この道中で何度も言っていた。
「なにかお礼をしたいのですが、あいにくと菜糖しか持ち合わせがなく……」
男が荷台に視線を滑らせる。
いくつも積まれた大きめの麻袋はやはり菜糖で合っているようだ。
「うーん。だったら、向こうの町に着いたら、なにか菓子を奢ってもらえるか? あんた、この先の町に行く途中だろ?」
「ああ、もしかしてあなたもそうですか? そういうことでしたらわかりました。ぜひ、おいしい菓子をお約束しますよ」
俺は男と握手を交わした。
男はそのまま荷馬車を動かし、俺たちの前を進んだ。
それから彼とは二度ほど食事を共にした。
どうせ一本道の街道だ。
少し距離は取っていたとして、こうして一緒に焚き木を囲むこともあるだろう。
前の町を出て四日目の夜となり、明日には次の町につく。
俺はトワと一緒に星空の下で、沸かした茶を片手に男の話を聞いた。
男の名前は、ファルと言うらしい。
若くして親の商売を継ぎ、菜糖の運搬をしているそうだ。
トワが興味深々といった様子でいろいろ質問している。
そういえばトワは、故郷の村から出たことがない。
それはむろん俺もそうだが、彼女は『永遠の魔女』だ。
このフィーネル大陸で『十賢人』と呼ばれる十人しかいない、至宝の魔法使いのひとりなのだ。
通常、十賢人に選ばれた魔法使いは、大陸中央にある中央都市〈アーガラン〉に渡り、そこで魔法の研究やら国政やらの一端を担う。
弟子を取り、次代の優れた魔法使いを育て上げることも、十賢人に課せられた重要な使命のひとつだと聞いている。
だが、トワはそれを放棄している。
いや、正しくは『免除』されていると言った方が適切か。
魔法会、と呼ばれる魔法使いが集まる商業組合のようなものがあるのだが、そこの偉いやつ。
十賢人の長から許しを得ているとかで、彼女がこうして旅に出ていても、誰にも文句は言われない。
一応、表向きは『弟子を同行させて世界を見て回る』という重要な使命になっているそうだ。
そう。
弟子、とは俺のことらしい。
いままで一度もトワから魔法なんぞ習ったことはないが、彼女が俺の故郷に留まり続けてこられたのも、あくまで弟子の育成という名目があったから。
そういう理由を付けて、無理やり中央行きを躱していたのだ。
ほんとになんでまたそんなことを……と正直思う。
中央に渡って『永遠の魔女』としての特権を使って、何不自由ない暮らしをすればいいものを。
そりゃあ、課せられた仕事は大変だろうが、古文書の解読が好きなトワならきっと性にも合っているはずだ。
研究に、解析を重ねて、いつか古代魔法の復活という偉業を成し遂げることも夢ではないだろう。
だからトワにはいつも言っていた。
はやく、旅立てよ──と。
「……まあ、そしたら、なんか俺まで旅立ってるんだけど」
俺は新たな薪を焚き火をくべて、ため息をついた。
「ロウくん? あ、もしかしてお茶のお代わりいりますか?」
「あー、うん。じゃあ、もう一杯ついでもらえる」
「はい」
トワが木のコップに並々と茶をついでくれた。
「そういえば、ロウエンさんたちは知っていますか?」
と、ファルが言った。
「この街道沿いには、夜に咲く『ファルの花』があるんですよ」
「ファルの花? あんたと同じ名前じゃないか」
「ええ、そうなんです。実は、私の両親がこの街道を通った月夜の番に、満開に咲いたファルの花の群生地帯を見つけたとかで、ちょうど母の腹の中にいた私の名前にと、つけたそうなんですよ」
「ふーん」
俺としてはたいして興味はない話だったが、隣に座るトワが目を輝かせて彼に尋ねた。
「その群生地帯ってどこにあるんですか?」
「ええっとですね……、たしかこのあたりだったかな?」
ファルが立ち上がり、荷物から地図を取り出し、さっと目を通した。
「ああ! ちょうどこのすぐ近くですね。良かったら、ご案内しましょうか?」
「本当ですか!? ロウくんっ! 行きましょう、ファルの花を見に行きますよ!」
「へいへい」
俺は木のコップを地面に置き、重い腰を上げて、立ち上がった。
ファルに案内されついた場所は、見事なものだった。
一面に広がる白い花畑。
淡い月光に照らされて、ぼんやりと発光する花々は、とても幻想的で、まるで何処かにあるという妖精の丘を連想させる。
微風に揺れ、しんとした夜の静けさの中で聴こえてくるかすかな虫の声。
白銀の花の絨毯の上で、ひときわ美しい金の髪を揺らしたトワが腕を広げた。
「きれー!」
「だな」
感嘆するトワの言葉に頷き、俺は軽く腰を落として花をひとつ摘んでみた。
「トワ、こっち向け」
「?」
トワがきょとんとした顔でこちらを向く。
その頭に白い花を挿してやれば、月の光を浴びた月花の女神の完成だ。
「よく似合ってるよ」
「……っ!」
素直な感想が口を突いて出ると、トワは硬直した様子で数秒ほど固まった。
「トワ?」
返事がない。
やがて、時が動いた彼女はくるりと背を向けると、『あ、ありがとう』と小さく返してうつむいた。
(もしかして、嫌だったか?)
許可なく頭に花を挿したのだ。
ちゃんと花の中に虫が居ないことを確認してから手折ったが……彼女は虫が大の苦手だ。
取った方がいいかと手を伸ばしかけて、その先に立つファルがどこか微笑ましいものを見るような目でこちらを見ていることに気がついた。
微風に揺れる金色の髪。
その隙間から見えた耳はほんのりと赤い。
トワが、腰を屈めて花をひとつ手折った。
「ロウくんにも、花を……」
伏し目がちに差し出される花。
受け取ると、「そうじゃない」と言われてしまう。
「少し、屈んでください」
「屈む? これでいいか?」
俺が腰を少しばかり落とすと、トワは背伸びするように足のつま先で立って右腕を伸ばした。
ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香り。
一瞬、なにか心をざわつかせるものを感じたが、すぐにツンっと何かが頭に触れて現実に引き戻される。
トワの身体が次第に離れていく。
「はい。よく似合っています、ロウくん」
「……花、挿したのか」
左手を頭上に侍らせると、花の形を感じた。
俺に花飾りをくれたところで、なにも楽しくないと思うが、なぜかトワは満足そうに目を細めた。
「すみません。私、邪魔ですかね。あれなら、向こうに戻ってますよ」
ファルが頬を掻いて、元来た道に足の先を向ける。
トワが慌てて引き留めている。
「い、いえ。こちらこそ、あ、ファルさんもお花をどうぞ」
トワがファルにも花を渡す。
それを嬉しそうな顔で受け取って、彼は花畑を見つめて言った。
「良かった。お二人にこの景色を見せることが出来て。こんなに喜んでくれるなら、最後にいい仕事をしました」
「最後?」
「ええ。私は今回の取引を持って家業をたたむことにしたので、もうこの道を通ることはほとんどない。だからこの景色を見るのも、おそらくこれが最後になるでしょう」
「そうなのか。理由を聞いても?」
「つまらない話ですよ? 長年取引していただいていた大口さんが他の商会との取引に変えるみたいで。このままこの仕事を続けていても赤字がかさんでしまう。だから早めに手じまいしようと決めて。幸い、妻も納得してくれているので、廃業したら故郷の村で畑でも耕そうと思っています」
「大変だな」
「はは。そうでもありませんよ。商人の中ではよくある話です。それよりもいまは妻と、妻の腹の中にいる子供のほうが心配なので、さっさと仕事を終わらせて家に帰りたいところですよ」
「子供? ああ……、さっきトワとそんな話してたな」
夕飯後のことだ。
三人で焚き木を囲んでいた時。
俺はほとんど聞き流していたからあまり覚えていないが、腹の大きい妻がどうのと言っていた。
妻の腹に触れると子供が中で元気に動き回るとかなんとか。
トワが感動に打ちひしがれた顔で聞いていた。
「心配しなくても、そのうち生まれてくるだろ」
「それはそうですが、初産なので、無事に生まれてくれるよう祈るばかりです」
ファルが月を見上げて、祈るように目を閉じる。
そこでトワが言った。
「──では、わたしからもひとつ祝福を」
両手を合わせて握り締め、トワは目をつむった。
「白き花の精たちよ。ここにいる彼に月花の祝福を。その伴侶と御子に強き運の導きを」
ぽうっと、近くの花が光の球を吐き出した。
白い、雪のような淡い光。
花畑全体が、トワの言葉に呼応するように光で満ちていく。
「これは……」
ファルが目を見開き、光輝く花たちを見つめた。
たしかに驚くほどに優美な光景だ。
だが俺は、そんな美しい景色よりも、目の前の魔女から目が離せなかった。
白銀の光に包まれ、トワは祈りを唄う。
「永遠の魔女が祈る。生命の息吹をここに。大地の力をここに。月の恵みを。花の恩寵を。どうか、同じ名を持つ彼に精なる祝福をお与えください」
ふっと、トワが目を開ける。
瞬間、光が弾けて霧散する。
さきほどまで眩しいばかりの光を放っていた花畑は静まり返り、ただ美しい月光が、この場を優しく照らしている。
トワが振り向き、ファルの手の中──白い花びらをちょんと指で揺らした。
花が、月明かりの光を放つ。
「この花を月が見える窓辺に。そうすればきっと近い未来に元気なお子様と会うことができるでしょう。──もちろん愛する奥様と一緒に」
優しく紡がれた言葉に目をしばたたかせて驚いたあと、
やがて彼は、ありがとう、と笑った。
***
「んん~~~~っ! この甘さが最高です!」
「頬、右の頬に生クリームついてんぞ」
トワに布巾を渡す。
彼女は頬のクリームをふき取り、あっという間に残りのパンケーキを平らげた。
「ふぅ……、限界まで食べましたー。おいしかったですね、パンケーキ」
「ああ。五日かけてここまで来た甲斐はあった。あとこの店、教えてくれたファルにも感謝だな」
「そうですね。ファルさん、そろそろお客さんのお店に着いた頃でしょうか」
「多分な。取引先に最後の納品して、今夜はぱーっと酒飲むから、一緒にどうかってさ」
「お、お酒ですか? わたし、あまりお酒は……」
「大丈夫だ。トワは留守番だから。そもそも誘われたの俺だけだし。今日はちょっと夜の街に繰り出しくるわ」
「え! 夜の街⁉ だ、だめです! だめだめっ、ロウくんも一緒にお留守番です!」
「冗談だよ。俺が酒の誘いに応じるわけないだろ。プライベート重視派だ」
「そ、そうですよね……。ロウくんは、そのままでいいと思います」
心なしか複雑な目線をくれるトワから目を逸らし、俺はパンケーキ四皿目に突入した。
うまい。