3章 確執
3章 確執
T拘置所から死刑囚が脱獄した日。
所轄署がコインロッカー事件で騒がしくなっていた頃。
月明りも無い真っ暗な夜。
氷室は誰にも見つからない様に赤光の家の敷地内に入る。
周りは田んぼ、施設の中の人間は全員寝ている。
ひっそりと二階建ての建物に近付く。
明かりが全て消されている中、ある窓が空きっぱなしになっている。
窓を開け、施設の中に入る。
事務室の様な部屋。
ソファーとそこそこ立派な机。
赤光の家の施設長の部屋だ。
その中に老婆が居た。
ソファーに座り、じっとこちらを見ている。
氷室に向かって老婆が手を伸ばした。
何かを言おうと口を動かす老婆に近付く。
枯れ木のような老婆から出る声は風音よりも小さい。
「……」
「……はい、後で必ず回収します」
そう言って氷室は窓から外に出た。
●
「……」
「……」
暫く無言の時間が続く。
滑らかな土下座から正座に移行し、火泥は氷室の言葉を待つ。
どう考えても何らかの任務を邪魔した事は間違い無い。
赤光の家は、ただの児童養護施設では無いのか。
その言葉をぐっと飲み込む。
「捜査は打ち切られた筈だが」
「っ……! 知ってますよ! 別件ついでに見に来ただけです!」
先程の苛立ちをぶり返され思わず語気が荒くなる。
そっぽを向いた後に子供か、と少し後悔した。
「……」
「……」
再び沈黙。
氷室が何も言わずに火泥を見下ろす。
無表情の上に目隠しの所為で何を考えているのか全く分からない。
「別件とは」
「え」
氷室の思わぬ言葉に聞き返す。
薫の事を聞かれているのだと理解するのに少し時間を要した。
慌てて火泥は説明する。
「死体の発見者が、あ、母子草さんと言うのですが、
息子さんの捜索願を出したんで、その聞き取りに」
「……何だと?」
眉を顰めながら氷室が顎に手を当てる。
疑り深く火泥の顔を覗き込む。
「何でマル暴が?」
「生活安全課です」
●
意外にも薫への聞き取りを氷室は止めなかった。
ただし内容を報告しろとの条件付きだが、その程度の事ならば問題無い。
捜査に口を出されないのはありがたい。
当然ながら氷室の任務についての情報は得られなかった。
聞いた所でどうにか出来るかと言われれば無理だろう。
警察庁が扱うような事件だ、火泥の手に余る。
指定されたファミレスで待っている間、現時点で持っている情報を整理する。
母子草 晃。
8カ月。
行方不明になったのは1週間程前。
確か信楽の子供もそれ位の筈だ。
そろそろ動き始める時期ではあるらしい。
誘拐だろうか。
当時の状況を聞いてから判断するべきだろう。
そうしていると薫がやってきた。
適当な飲み物を頼み、メモを取り出す。
さて、と火泥は聞き取りを開始した。
「息子さんが行方不明との事ですが」
「はい、その」
そう言って薫が店内を見回す。
署内でも何かに怯えている様な様子を見せていた。
一体何が、と思うと同時に薫が声を潜めて言う。
「実は母に誘拐されたんです」
「……!?」
また随分と穏やかではない話だ。
●
「何処の血筋とも知らない男の子なんか薫に必要無いわ。だから取り上げたのよ」
「はぁ」
「警察に言っても無駄だって言ったの。家庭内の話だし、私には警察にも顔が利くって言ったら何も言わなくなったわ」
「はぁ」
そうですか、と続けなかった自分の忍耐を褒めたい。
氷室はシンプルな事務所の天井を僅かに見上げた。
出された茶も安物、早く帰りたいのを我慢している。
火泥と別れ、氷室は死刑囚の事件に関する捜査を続けていた。
一先ず火泥に関する処分は忘れ、本来の仕事に戻る。
母子草 羽衣。
心理カウンセラーとして活躍している。
主に親子関係の案件を取り扱うようであった。
当然、氷室には関係の無い事だ。
死刑囚の実験の責任者としての顔に用がある。
「それで、どうなのかしら」
「死刑囚の方は目下捜索中です、最後に娘さんと接触してから足取りが掴めませんね」
「……」
苛立ちを隠しもせず羽衣が睨み付けてきた。
氷室はどこ吹く風といった風にもうひとつの事件について聞く。
「それでそちらの方はどうなんです」
コインロッカーから赤ん坊の死体が見つかった事件。
あれも羽衣の実験に関係する品。
何故か流出したのだ。
恐らくは内部の人間の手によって。
「……調査中よ。それに」
「それに?」
「昨日の夜、菱田が死んだわ。今は下手に動けない
菱田 玲子。
赤光の家の施設長。
へぇ、と返すと羽衣が声を荒げた。
「ただの心不全よ! もう75歳だったの! 何も不思議じゃない!」
「……」
「朝、警察が来てまだ何も出来て無いのよ、仕方無いでしょ!?」
「上に伝えておきます」
そう言うと羽衣が立派な椅子に身体を沈めた。
長い溜息を吐く。
これ以上聞ける事は何も無いだろう。
氷室は立ち上がりドアへと向かう。
「では失礼します」
「ねぇ」
「はい?」
部屋を出ようとした氷室に羽衣が怯えたような視線を向ける。
氷室の目隠し、藍色のそれを凝視しながら羽衣が言う。
「その目隠しって……、それに名前も……」
「あぁ、それっぽい格好での偽装ですよ」
氷室は何とも無いように言う。
「やましい事がある人間への威圧にはなるでしょう」
そう言って氷室は退室した。
●
「……薫さんとしてはどうしたいですか?」
「どう、とは」
火泥は出来るだけ簡単に説明する。
「まず行方不明者届は昨晩、受理しました。これで捜索を行います」
「はい」
問題はその後だ。
「見付かった後、お母さんを犯人として訴えますか?
こう言っては何ですが身内に前科者が出る、と言うのは相当な事です」
公務員や警察官になれない。
その他、進路に影響が出る。
そういった事を火泥は説明する。
当然、想像していなかったのだろう。
薫は考え込み、黙り込んでしまう。
飲み物がぬるくなった頃、薫がゆっくりと言う。
「……その、訴えるなら今すぐ訴えないといけないのでしょうか」
「いえ、まだ時間はありますから」
まずはお子さんを見つけましょう。
そう火泥は締め括った。