1章 コインロッカーベイビー
1章 コインロッカーベイビー
コインロッカーベイビー。
望まぬ生を受けた赤ん坊をコインロッカーに捨てる事件から生まれた都市伝説。
母親の末路は諸説ある。
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警察官だからと言って全員が死体を見慣れている訳では無い。
火泥 橄欖。
所轄の生活安全課。
清く正しい地方公務員で警察官、巡査部長。
青少年の補導やパチンコ、風俗店の見回り、その他諸々。
要は生活に密着した案件の取り扱い、それらが主な業務である。
皆無、という事は無いが、それでも少ない方の部署だ。
生ぬるい季節の夜の駅。
駅の外に設置されたコインロッカー。
地面にはビニールシートが敷かれている。
酔っ払いも家に帰った終電間近の頃。
巡回中の事である。
駅員と女性が1人、何やら深刻な顔でコインロッカーの前に立っているのがパトカーから見えた。
後輩の信楽と2人、何事かと話を聞いてみれば異臭騒ぎの事。
臭いの元を辿ってみればコインロッカーに蠅がたかっており、腐った酸っぱい臭いがする。
とにかく開けてみよう、と管理会社の人間が鍵を持って来た所に偶然出くわした。
良くて生ゴミ、悪くて死体。
あるいは薬品かもしれない、ともなればここは警察官の仕事だろう。
マスクとゴーグルを付け、鍵を預かる。
駅員と女性を遠ざけ、火泥は鍵を開けた。
閉じ込められた臭いがマスクを貫通してくる。
吐きそうになるのを堪え、中にあった箱を取り出した。
段ボールの箱である。
何らかの赤い液体を吸って重たくなっている。
慎重に地面に敷いたビニールーシートの上に置く。
グズグズになった段ボールは手荒に扱うと崩れそうだ。
片膝で座り、確認を始める。
蓋には赤光の家、と書かれていた。
女性に話を聞いていた信楽が声をかけてくる。
「先輩、どうすか」
「開けたくねぇ……。信楽、開けて」
「そこはほら慣れた人が」
「お前この野郎」
可愛くない後輩のウインクを受けながら火泥は蓋を開ける。
臭気が強まり、最早マスクは意味を成さなかった。
中の物と目が合った。
真っ白に濁った眼は溶けかかっている。
最近温かかった所為で腐敗が進んだのだろう。
赤ん坊の死体。
腹の真ん中が縦一直線に切り開かれており、中に小さな木の箱が置かれている。
木を組んで作られた正方形の箱だ。
殺人事件。
これ以上は応援を呼ばねば、と立ち上がったその時だ。
どすん、と何か大きいものが落ちた様な音がした。
何事かと顔を上げ、音のした方――火泥の前方――を見る。
街灯の向こう、闇の中からペタペタと音がする。
同時に水音も聞こえてきた。
音がこちらに近付いている。
街灯の真下にそれは現れた。
液体に浸された黒い布を被った二足の何か。
見上げる巨躯、明らかに人では無い生き物。
液体を振り撒きながら化け物が腕を振り上げた。
信楽が火泥を庇う様に立ち、薙ぎ倒される。
「信楽ぃ!」
コインロッカーがひしゃげ、信楽の体が落ちる。
安否を確認する間も無く、叩きつけるような攻撃が火泥に襲い掛かった。
振り上げられた腕を搔い潜り、胴に突っ込む。
抉る様に入った肘が何か固い物に当たったと同時に化け物が甲高い声を上げる。
耳障りなそれに思わず耳を塞ぎ蹲る。
黒衣を揺らし化け物が飛び上がった。
電柱の上へと登った化け物は電線を伝い、何処かへと姿を消す。
耳を抑えながら立ち上がり、火泥は再度、警戒体勢を取る。
耳鳴り、風の音、そして無音。
しん、とした暗闇の中に足音は聞こえない。
永遠にも感じられる時間の中、耳が痛い程の静寂をサイレンが破る。
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コンクリート打ちっぱなし、裸電球に照らされた廊下にハイヒールの足音が響く。
何かを引きずったような血の跡が目立つ廊下。
総白髪、オールバックの男が足早に歩いている。
藍色の目隠しをしているにも関わらず、その足取りは確かだ。
T拘置所、地下。
死刑囚が収容されている区画の更に下。
秘密区画。
思想、実験、未確認の何か。
あらゆる意味で表に出せないものを収容する区画。
普通の看守や囚人達はここでの出来事を知る由も無い。
有り得ざる出来事、陰謀論の世界だからだ。
現在、収容されていたものは別の場所に移されているのだろう。
無人の牢を通り過ぎる。
足音がある牢の前で止まった。
血に濡れた牢。
男は事件の現場を見る。
血溜まり、看守の血と死体がぶち撒けられている。
真新しく乾いていない血は男が歩いてきた出入り口へと向かっていた。
中身は男と入れ違いになったのだろう。
死なない死刑囚。
中に居たのはそのようなものであったらしい。
真っ黒な布を被ったような姿の異形と報告が上がっている。
脱獄の際に看守を殺害。
そのまま行方をくらませた。
上の階に被害は無く、夜中である事も相まって静かである。
それだけは不幸中の幸いか。
何人かの足音が聞こえる。
ガスマスクを被った人間達が牢に向かって来ている。
「警視」
「ああ」
清掃員が仕事を始める。
朝には脱獄が無かった事になり、牢には囚人が元通りに収められる。
後始末を任せ、男は外に出る。
夜空に血の臭いが僅かに混ざっている気がした。
車に乗り込み、無線で報告を入れる。
ボイスチェンジャーを通した声が応答した。
「こちら氷室、現場確認しました……。了解、今からそちらにも向かいます」
更なる事件が発生したようだ。
氷室は現場へと車を向かわせる。
警視。
六道骸 氷室。
警察庁公安局。
有り得ざる陰謀論に対抗する、有り得ざる組織の1人。
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死なない死刑囚。
死刑執行が失敗し生存した場合、刑が取り消され釈放されるという都市伝説である。
1872年11月28日に発生した事件からそのような噂が流れるようになった。
本件における死なない死刑囚は都市伝説で語られるものとは別物である。
何らかの実験によって生まれた生き物。
実験の責任者は母子草 羽衣、55歳。
有り得ざる組織の政治的、資金的後援者の1人である。