12章 海に居るもの
12章 海に居るもの
錆びた椅子が放り投げられる。
火泥が叩き落とすと、粉々に割れ錆びた鉄が舞い上がった。
「っ……!」
見た目以上の膂力で投げつけられた椅子が火泥の体を揺らす。
腕の痛みに気を取られる間も無く、何かが火泥を狙った。
空を切る音。
衝撃に身を任せ床を転げる。
溶けた金属、水銀の様な何か。
若美の影から溢れた何かは刃物に変わり4人を狙う。
「うぉ!?」
「うわ!?」
辛うじて避けた土塔、氷室に引っ張られた水引の声が上がる。
何とも無いように避けた氷室が若美を見下ろすように顔を上げた。
「蜥蜴……、その一部。髪の毛1本、爪の垢、その程度の」
「ぐっ!」
刃物の間を縫うように動いた氷室が若美の脇腹に蹴りを入れる。
腹に前蹴りを入れられ悶絶する辺り、身体能力自体は普通の人間なのだろう。
火泥は以前見た化物――とは呼びたくない生物――を思い出し見当を付けた。
氷室が僅かに声を低くする。
「アレが、力を分けてハイ終わり、で済ませると思うか」
「何……!?」
どういうことだ、と言いたげな若美に氷室が言葉を被せた。
「奴らは木乃伊を持って行ったぞ」
「!」
「うを!?」
土塔が突き飛ばされた。
奇声を上げ、若美が地下室から躍り出る。
●
もう既に日は落ちていた。
真っ暗な道を若美は島の東に逃げている。
地図を見ると海沿いに小さな祠がある場所だ。
海岸の手前には小さな雑木林がある。
疲労からか薬が切れかけているのか、若美の速度が徐々に落ちている。
どの道、この先は海で行き止まりなのだが。
木々が途切れ開けた場所に出る。
そうこう考えている内に海岸に出た。
往生際の悪い若美が海へと突っ走る。
盛大に足首辺りまでの深さの場所まで突っ込んで行った。
「く、来るな!」
そういわれて止まる理由も無い。
火泥が更に進もうとした時だ。
びちゃり、と何かが落ちる音がした。
墓場で聞いた音だ。
音がした方を見る。
海の中にある大きな岩、その上に建てられた小さな祠。
その屋根の上にそれは居た。
若美が武器として使っていた液体金属のようなそれ。
巨大な蜥蜴、それが二足歩行している様な生き物。
火泥はその姿を思い出す。
「あの時の……!?」
死なない死刑囚事件、その最後。
地下室を爆破した生物。
両手に何か茶色く乾燥したものを持っている。
――木乃伊。
氷室と若美の話に上っていたそれだと確信した。
「蜥蜴人間!?」
「あれは」
水引がその生き物の名を呼び、土塔が何かを知っている風な言葉を発した。
火泥が詳細を聞く間も無くそれが動く。
蜥蜴人間が木乃伊を高く掲げる。
それがやる事を理解した若美が叫んだ。
「止めろぉー!」
叫びも木乃伊は海に落とされる。
げらげらと耳障りな笑い声の様なもの。
悪意。
底なしの悪意に身が竦む。
蜥蜴が高く飛び上がり、何処かへと消えた。
その衝撃で祠は壊れ、木乃伊と共に海に呑まれていく。
悪意の余韻が消え、火泥は周囲を警戒する。
静かな夜の海。
まず気付いたのは寒気だ。
この寒さは何事だ。
北国の様な寒さに思わず身が震える。
そして気付く、波の音がしない。
空を見上げる。
そこに星は無く、月も無い。
「おい」
土塔の間抜けな声が火泥を呼び止める。
ふらふらと手を上げ、何かを指差す。
火泥は指の先を見た。
「――!?」
海面は磨き上げられた鏡のようにまっ平である。
白波ひとつ立たない真っ黒な海面。
波の先、本来ならば月が沈み太陽が昇る場所。
地平線を手摺にしてそれは現れた。
黒い人型の様なもの。
夜の空より尚黒い何か。
「……!」
火泥は船の上で見た海を思い出す。
波の間の不自然な黒、それらが集まって産まれた黒い怪物。
人間で言うならばまだ子供の様な体形のそれがぎょろりと海面を見た。
下半身が持ち上げられ、魚の様な尾びれが海面を叩く。
叩き起こされた波が島に向かって襲い掛かってきた。
「……?」
風圧に目を閉じ身を固めるも、何事も無い。
黒い水は確かにそこにあるが、火泥の体を濡らさなかった。
しかし。
「ひいいい!?」
前方から水柱が上がり悲鳴が上がる。
無数の黒い手が海に入っていた若美の体に纏わりついていた。
体勢を崩し、転んだ若美を腕が引き摺り込もうとする。
足首が浸かる程度の水深である筈なのに若美の言動はまるで沖合に落とされた人間のそれだ。
黒い手に触れられる度に若美の顔が年老いていく。
明らかな殺意を持って若美を沈めようとしていた。
自業自得だ。
そんな誰かの声を背に火泥は走った。
冷たい水の中、岩場を駆ける。
誰かが息を吞んだ。
黒い手の群れに向かって手を伸ばす。
近くで見るそれは大小問わず子供の手。
子供の手が明らかな殺意を持っている。
泥の様な粘性のそれが若美に絡みつく。
「……!」
思わず手を重ねる。
氷のように冷え切った手が僅かに動きを止めた。
小さな手が火泥の指を掴み返す。
ぱしゃ、と軽い水音が上がる。
氷室が若美の襟首を掴み、無理矢理粘液から引き摺り出した。
「警視!?」
そこから更に沖合に走り抜ける。
膝が完全に浸かる程の深さまで。
そして、こちらに背を向けたまま氷室が目隠しを外した。
「え」
若美を沈めようとしていた手が引いていく。
波間の黒へと戻っていく。
水平線の巨人が視線を空へと逸らした。
黒い霧へと変わり天へと昇って行く。
夜空に星が散る。
白波の間に黒い影は無い。
氷室が目隠しを付け直す。
背中の向こうで、何処か諦めたように溜息を吐いた気がした。
振り返り、いつもの無表情で口を開く。
「若美蓬莱、殺人の容疑で任意同行」
「了解」
氷室の声に火泥は若美の年老いた身体を担ぎ上げた。




