婚約者は照れ屋さん
「ずっと誰にも会わされないまま、この邸に閉じ込められて窮屈に育ったお前が、初めて会う俺に怯えても仕方ないだろう。
俺だってな、それくらいはわかってるから」
「せ…ん………さ、ま……」
やんわりと包み込むように触れてくれている千の手は本当に優しくて、温かい。
その手の温もりから、里の鬼達から慕われているという理由が、本当に身に染みてわかる。
たとえ口や態度が少々悪くても、千の言葉や温もりが心にすっと溶け込んで、すんなりと受け入れてしまうから。
何だかとても不思議な魅力を持っている方だな、とぼんやり考えながら、茜は真っ直ぐに視線を向けている千を見つめていた。
「香蓮もお前は臆病な子だと、言っていたしな。
少しずつでいいんだ。
俺の存在を、お前自身の心に受け入れてくれれば、それで全然構わないから」
まるで、子供をあやすかのような柔らかく優しい声音。
千のその声は自然と茜の耳に響き、ゆっくりと心に染み渡っていくかのようで、思わず身を委ねて甘えたくなるくらいに、とても心地いい。
(千様……優しい……っ)
香蓮やハクが言っていた、口が悪くて機嫌が悪くなるなんてことが嘘なんじゃないかって思ってしまうくらいに、千は優しい。
そんな優しい声で語りかけられたりしたら、一度溢れた涙が簡単に止まるわけがない。
「あー、もう。
面倒くせぇ性格してんなぁ、お前。
泣くなって、俺はこれだけ言ってんのに……」
「ご、め……さい……っ」
「わかった、わかったから、とりあえず泣き止め。
でないと、いつまでも場所に戻れないだろうが」
そんなこと言われたって、簡単に止められるものじゃないし。
さっきまではあんなに優しかったのに、何だかちょっぴり素っ気なくなった気がする。
茜は少しだけ冷たくなった声が寂しくて、溢れる涙を拭けないまま、ぎゅうっと強く目閉じた。
「……ったく、仕方ねぇな……。
お前、泣く度に化粧台無しになってくの、わかってんのか?」
目を閉じた茜の顔を見て、千は勿体ないだろう、とすごく楽しそうに笑った。
「もう化粧なんて、落としてしまえ。
俺はもう見ちまったから仕方ねぇけど、お前も女なら、こんな顔は誰にも見られたくないだろ?」
「ごめんなさい、みっともない顔を見せてしまって……」
茜は帯の間から白い絹の手拭いを出して、顔をごしごしと拭った。
少しでも早くみっともない化粧を落としたくて強めに拭っていたのだが、それを見ていた千がおもむろに茜の両手を掴んで止めてしまった。
「バカか、お前。
そんな乱暴に擦ったら顔に傷が付くだろ。
女が顔に傷付けるやつがあるか」
「せ、千様……?」
「もっと優しく扱え。
もういい。
俺がやってやるから、その手拭いを貸せ」
そう言って茜の手に握られた手拭いを奪い取り、千はもう片方の手で優しく顎を持ち上げた。
「みっともないなんて、誰が言ったよ。
俺はな、せっかく綺麗な顔が台無しになるって言ったんだ聞き間違えるな」
「……?
あんまり変わらない、気がしますけど……」
「言葉の雰囲気が違うだろうが、気づけ」
みっともない、台無しという言葉は意味は何となく同じように思えるから聞いたのに。
けれど、違うとはっきり一言で言われてしまって、茜は少しだけ不満そうに唇を尖らせる。
そのままの顔でもう一度聞いてみると、何故か千は眉を吊り上げ、茜の顔に手拭いを前触れもなく押し当てた。
「きゃ……っ!
な、何するんですか、千様~」
「綺麗だって言ったのが聞こえなかったのか、お前はっ!?
普段こんな臭い台詞吐くような俺じゃねぇのに……わざわざ説明させるなよな!」
がおぅ、とまるで吠えるように叫んだ。
でも、言葉とは裏腹に、千は優しい手つきで顔を拭ってくれる。
叫んだ声が、少しだけ不貞腐れたような、あるいは照れくそうなものだった。
それと同時に、先ほどよりもやたらと目を覆うように手拭いを広げられているのが、心のどこかで引っかかる。
(嫌われているわけじゃなさそうだけど……)
何だかすごく興味をそそられて、茜はこくりと、小さく息を飲んだ。
(ちょっとだけ……。ちょっとだけ……、ね)
普段の自分なら、こんな大胆なこと絶対にしない。
ただ怯えて、相手を困らせるくらいに泣いて、体を小さく丸めるだけど思う。
でも、今は千の持つ不思議な安心感に包まれて、いつもなら怖くて出来ないことでも出来そうな気がしてしまって。
茜は自分の顔を覆う手拭いにそろりと手を伸ばした。
「こら。
一体何をする気だ、この悪戯娘」
しかし、その手はあっさりと捕まえられ、ぽいっ、とまるでゴミみたいに無造作に捨てられてしまった。
「あ……。
ひどいです、千様」
「悪いことを企む手は排除だ、排除。
今は見んじゃねぇよ。
見たら思いっきり噛み付くぞ、このやろう」
思いっきり頬を膨らませて抗議してみても、千は手拭いを離してはくれない。
でも、やっぱり手も声も優しいから、茜は自然と笑っていた。
初めて出会って、たったこれだけの短い時間だったのに、傍にいて他愛ない言葉を交わすこの一言一言が、とても輝いているように思う。
血の繋がった兄の香蓮以外、必要最小限の会話だけ。
次の長姫を産むために、ずっとずっと独りぼっちでこの邸に囲われてきた。
それでも、独りの時間は穏やかで何も不自由はしなかったから、それでも満足だった。
だから、気がつかなかったのかもしれない。
世の中には、こんなに楽しい時間があるんだって。
(千様となら、きっとうまく生きていける。
私……旦那様になってもらえるなら、千様がいい)
もっと、千のことが知りたい。
もっともっと、千の優しい温もりに触れていたい。
本当に自然とその気持ちが心の奥底から溢れてきて止められなくて、思わず溺れてしまいそうなくらいだ。