落ち着いて~
*†*
「あぁ……どうしよう……」
小さな溜息と共に後悔の混じる可愛らしい少女の声が放たれた。
そこは、鬼姫の一族の長姫に与えられる母屋で、その一番奥にある部屋の隅に、無造作に丸められたような布団がある。
その布団がもぞもぞと動き、中からひょっこりと辺りを見回すように顔を覗かせた。
「兄様……怒ってるかな……?」
淡い金色にも見える土色の髪は、せっかく艶を弾いて美しいのに、布団の中でボサボサになってしまったようで、少し残念だ。 丸く大きな髪と同じ色の瞳は、たっぷりと溜められた涙で潤んでいて愛らしい。 今日のためにと張り切って用意させれた着物はみっともなく着崩れているが、少し幼さが残る彼女に少しの色香を添えていて、とても魅力的な少女だ。
『茜長姫? みんな心配してるよー?』
少しだけ甲高い、幼子のような声が足下から聞こえる。
茜は涙で揺れる瞳を、ゆっくりと下へと向けた。
そこにいたのは、手のひらに乗るくらいの、ふわふわ白い毛並みの可愛い子狐。 その子は、茜の大切に育てているハクだ。
「うん……。 でも、ハク……」
『大丈夫だよ、皆きっと怒ってないよ?
心配してるだけだよー、早く皆のところ行こ?』
被った布団に丸まりながら俯く茜に、ハクはこてん、と首を傾げながらそう問いかける。
そして、下から茜の顔を覗き込むように見上げながら、ハクはさらに口を開いた。
『やっぱり、千と会うのが怖い?』
「……うん……」
今まで恋愛を管理されていた茜は恋なんてしたこともなかったから。昨夜までは純粋に、初めて恋が許される相手で、婚約者となる千とはどんな方だろうと興味があった。
けれど、朝起きてから時間がどんどん過ぎていくうちに緊張してしまって、会うのが今になって怖くなってしまったのだ。
『大丈夫だよー。
たまに口が悪くて、機嫌の悪い日もあるけど……。
里の鬼達皆からは慕われてるって、香蓮も言ってたでしょう?』
「うん…………」
今日の婚約は、この鬼の里で初代から定められた政略的なものだから。
鬼の中でも由緒正しい血族の長姫は、血を絶やさないようにしなくてはならない。そのために、里で一番の力を持ち、鬼全てを統治する頭領と結婚するように定められている。
茜は、その頭領である千と結婚し、次代の長姫を産むことを望まれる。 それは、里の更なる繁栄を願う意味を持つ、大切な古来からの風習なのだ。
幼い頃から聞かせれてきたことだから、ちゃんとわかっている。
でも、もし彼が乗り気でなくて、機嫌が悪かったなら……。
そう思うと、怖くて仕方ない。
(どうしよう……早く戻らないと、兄様や皆を困らせちゃうのに……)
きっと、皆で必死に茜を探してると思う。戻らないといけないってわかっているけれど、正直に言うと、今は行きたくない。
『ほら、長姫~。
ハクも一緒に行くから、皆のところに行こうよ~』
「うん……」
あまりはっきりとした返事を返せないまま、曖昧に頷く。
でも、重たくなってしまった腰は思ったようには動いてくれなくて、茜が被った布団をぎゅっ、と強く握りしめた時だった。
「おい、誰かいるのか?」
「ひゃ……ぁっ!?」
突然、今まで聞いたことのない若い男の声がかけられて驚いた茜は、思わず上擦った声を上げ、びくりと体を震わせる。
そして、布団を頭から被せたまま器用に、目の前にいたハクを盾にするかのように腕に抱き上げた。
『うわぁっ!?』
「い、いるけど……いませぇん……っ!!」
『長姫、しっかり見えちゃってるから~。
とりあえず、落ち着いて~』
あまりの驚きに頭の中が滅茶苦茶になった茜は、思わずどうしようもないことを叫びながら体の小さいハクを構えるように抱える。 けれど、盾の役割を果たせるはずもなく、ふわふわの尻尾が愛らしく揺れただけだった。
「あー……、悪い。
ちょっと探してるやつがいて……突然驚かせたな」
「ぁ……」
半分だけ開かれた縁側から庭が望める障子の向こう側に、若い男が立っていた。
その男はゆっくりと部屋へ足を踏み入れて、体を小さく丸めたまま震える茜の前に膝を折ると、
「そんなに怯えるな、別に捕って食いはしねぇから」
そんな野蛮な奴じゃないぞと柔らかな声でそう囁く。 さらに、まるで茜をあやすように、布団に埋もれた小さな頭をぽんぽんと優しい手つきで撫でてくれた。