婚約者に、逃げられた。
はっきりと彼本人に聞いたことはないから、もしかしたら間違っているかもしれないけれど。
きっと、千から見た私の第一印象は、あまり良くなかったと思う。
「───は? 鬼長姫がいない?」
ぽかん、と口をみっともなく開けて、千は呆然と呟いた。
ふわりと時折吹く風に、優しい茶色のふわふわと柔らかそうな短髪が靡く。だらしなく着崩れた紫色の着物の襟からは、逞しい胸元に巻かれた白いさらしが見え隠れしているだけで、少し肌寒そうにも見えてしまって仕方ない。
こんな日にも関わらず正装をしてこないことを完全に棚に上げた姿をした千は、ふと我に返り、澄んだ琥珀玉のような瞳を細めながら口を不機嫌そうにへの字に曲げた。
「何でまた大切な婚約の日に限って、こんな面倒なことになったんだよ……」
「本当にすみません、千。
私が目を離した隙に、いつの間にかいなくなってしまって……。
家臣総出で探してはいるのですが、まだ見つからないのです」
申し訳なさそうに告げられた若い男の声は柔らかく、それでいて澄んだ鈴の音のように美しい。
千は細めたまま、声のする方へと視線だけを向けた。
「あぁ、いや……謝らせたい訳じゃないんだ。
すまない香蓮、俺の言い方が悪かった。
長姫守のお前に謝らせても、姫は帰っては来ないんだし。
まぁ……、逃げられたのは……仕方ないから、あんまり気にするな」
「本当に申し訳ありません。 婚約の顔合わせの当日に、妹がご無礼を……」
視線を向けた先に見えたのは、さらりと揺れる金色の美しい、長い絹髪。目は鮮やかな赤色で、白い肌によく映える。淡い色合いの唇に、形のよい曲線を描く眉。すらりと長身だが、体の線は女のように細く、目にも鮮やかな色彩の着物を纏っている。
とても儚く、男にしておくには勿体ないくらいに美しい面立ちの、千よりも少し年上くらいの青年だ。
「なぁ、香蓮。
まさか俺、長姫から嫌われてるわけじゃないよな?」
「いいえ、それはありません。
昨夜までは、とても興味津々だったのですよ。
千とはどんな方なのかと、目を輝かせてましたから……」
違う、と即答された千は小さく息を吐き、ほっと胸を撫で下ろした。
そうか。嫌われているわけではないなら、ひとまず安心だ。
千は香蓮を横目で見ながら、ひらひらと手を振ってみせた。
「とりあえず、俺も邸の中をしらみ潰しにでも探してみるさ。
そう遠くへは行ってないだろうからな」
「はい、どうかお願いします。
あの子……茜は、とても臆病な子ですから……。
邸の外へは、一人では絶対に出ないはずなんです」
「わかった。
俺が行く代わりに、香蓮はここで待っててくれ。
もしかしたら、自分でここに戻ってくるかもしれないからな」
すれ違ってしまったら大変だ。
そう告げた千の言葉に、香蓮は小さく頷いた。
さて……。一体、自分の婚約者候補はどこへ行ってしまったのやら。
千は面倒くさそうに後ろ頭を掻きむしり、申し訳なさそうに俯き加減な香蓮を置いて部屋を後にした。